リングはもうない
ばさり、とまるで大風呂敷を広げたかのような大きな翼の音が辺りに響いた。
セリスの目には何も見えていなかった。
しかし、確かにそこには大きな何かがいるのを感じる。
匂いもなく、熱もないが、何かがいるのだ。
「こいつに見張らせていたんだ。向こうのエルネストの方をな」
グレイがそう言いながら、空中を撫でる。
すると、空気が水面のように揺らぎ、凜々しい大鷲が姿を現した。
これだけ大きいと、人でも簡単に運べそうだ。
「こいつの名前はアルフライラ。俺のパートナーだ」
グレイが首を撫でると、嬉しそうに身を寄せる。
セリスは一連のやり取りを改めて自分の中で深く考え直す。
一般的にテイマーと魔物は遠く離れていると意思の疎通が難しくなる。
魔力の繋がりは物理的な距離に限界があるのだ。
例え命令を与えていたとしてもそのタイミングや細かな指令を誤差なく伝えるのは困難だ。
いやしかし、それができるから、彼は伝説的なA級テイマーなのだろう。
「僕の心配は、誰もしていないのか……?」
息絶え絶えのエルネストが呟くように言う。
「生きてればアリシアが治せる。そんなことより、お前に逃げられる方が面倒だ」
「逃げるだなんて」
それだけ言うと、エルネストは目を閉じて空を仰いだ。
グレイが眉をひそめてため息をつく。
アリシアは少し離れたところで臨戦態勢を解いていない。
セリスは、二人の様子を見て、歩み出た。
もしエルネストが暴れたら、自分が盾になればいい。
「いくつかお伺いしたいことがあります、先生」
「君はまだ、僕をエルネストだと言ってくれるのかい?」
その問いに答えるのは簡単だった。
「ええ。あなたの口から明確に別人だと言わない限りは」
「そうすると、エルネストが二人いることになって、君の推理は成り立たなくなってしまうよ?」
「成り立ちます。……私は腕輪をつける以前のエルネスト先生を知りませんから」
エルネストの人格を定義するものが、彼の歩んだ人生であるのなら、セイレーンリングに乗っ取られる以前のエルネストがクローカーとなり、以後のエルネストが現在のエルネストであるという理屈は、成り立つ。
そして、それは同時に、彼自身がセイレーンリングではないと言っていることにもなる。
「単刀直入に聞きます。セイレーンリングは今どこにあるのですか?」
「……僕も正直に言うよ。リングはもうない」
「ない、とは?」
「破壊されたんだろうね。僕らのようにかつてリングの影響を受け、まだ生きている人間には常に本体からの命令がある。君が思っているよりも、アレは狡猾だよ。装着している人間とは別の人間にも命令が出来たんだ。まるで自分の部下のようにね」
なぜリングを装着して生きている人がいるのか疑問だったが、これで納得がいった。
リング自身が価値のある人間と価値のない人間を選別していたのだろう。
価値のない人間は食料として扱い、価値のある人間は手下として扱う。
想像していたよりも、恐ろしい話だ。
「僕も命令に気がつけたのは偶然だった。クローカーに与えてある知能と権限は人間のそれと遜色ない。西端の島国――ノルディアでの大量虐殺の現場に僕はいた。何の疑問を持たずに、島から逃げだそうとした民間人を殺そうとしたんだ。振り上げた刀剣を、クローカーは力強く掴んで止めた。
それで自分が何をしようとしていたのか理解して、怖くなって、僕は自分をアイアンゴーレムの能力で鉄鉱石に包み込んで、身動きをとれないようにして海中に逃げたんだ。気がついたころには全てが終わっていた。何人の関係者が参加していたのかもわからないけど、そこで初めて本体のセイレーンリングがいないことに気がついたんだ」
「命令がなかったから?」
「いや、そうじゃないんだ。命令系統――セイレーンリングの存在の欠片は僕自身の魔力にもう刻み込まれている。ただ、具体的な作戦行動は命じられなくなった、というところかな。君も死んだ人のために行動しようとしたことがあるだろう? 『あの人ならきっとこう考えるに違いない』って。あの感覚に似ていると思う」
そう言われると、セリスには心当たりがある。ずっと殺された家族のために復讐を目標にしてきた。
それこそ、エルネストの言いたいことに他ならない。
思案していると、グレイが今度は口を開いた。
「……アリシア、こいつを治してやれ」
言われるがまま、アリシアはラピスの小さな切れ端を持っていき、エルネストの怪我を治す。
ラピスが薄く伸びて全身を覆うと、折れていた両足と全身の細かな傷はすぐに元通りになった。
「よく正直に胸の内をさらしたな。勇気がいっただろ」
「ええ、まあ……。でも、もういいんです。どうでも……」
「どうでもよくねえよ。お前は今、このガキ二人に呪いをかけたんだよ。お前はもう嫌でも『エルネスト先生』を続けなきゃならない。お前の気持ちとは関係なくな」
グレイが言いたいことを読み取ろうとセリスは考え込む。
ままごとだろうが、何だろうが、今までやってきたことを無責任に放棄していい理由にはならないと言いたいのだろう。
「あともう一つ。俺はローディウスのジジイに頼まれてお前の様子を見に来てるんだ。だから、なんでお前が学校に雇われているかも知っている。言ってる意味はわかるな? 逃げるなよ?」
「……そうですね。グレイさんの言うとおりです」
暗い雰囲気になったところで、それまで静観していたアリシアが言う。
「あの、ところで、クローカーは結局、エルネスト先生なんですか?」
セリスはそれを聞いて、グレイの顔をちらりと見る。
彼は顎をしゃくって、セリスに説明を任せるとポーズで指示を出した。
「アリシア。クローカーはクローカー。ここにいるエルネスト先生はエルネスト先生。何も変わっていないの」
「え、でも、入れ替わりだって……」
「えーっと……。例えば――――」
彼女に人格の連続性の話は難しいだろう。
入れ替わったのは昔の話で、その後はそれぞれがそれぞれとして生きてきたのなら、どちらが偽物というわけではないのだが、その説明をするにはどうしたらいいのか考える。
「一本の大きな川が下るにつれて途中で二つに分かれて、別々に流れていく。二つの川は別物だけど、どっちも元は同じ川だった……。これでわかる?」
アリシアはうーんと唸った後、納得したように頷いた。
「っていうことは、クローカーもここにいるエルネスト先生も、元は一人のエルネスト先生だったってこと……でいいんですよね?」
「ま、間違ってはいないはずよ」
私も自信ないけど、と小声でつけ足す。
「あっ、あと、もうひとつ。どうして姿が変わっちゃったんですか? 私、それも気になってて」
「さっき言ってたでしょ。鉄鉱石の中に自分を閉じ込めたって。エルネスト先生自身が自分を制御するためにあの鎧騎士を鉄鉱石の塊で覆っていたのよ。それで、あの見慣れたアイアンゴーレムの姿になっていたってわけ」
「うーん、なんだかよくわからないけど、わかりました。だから、あの騎士さんも、安全だってことなんですね?」
「そう。だからもう拘束を解いてあげて」
アリシアがラピスで縛ったクローカーを解放すると、片膝をついて静かにその場に留まっていた。
セリスは周囲の様子をもう一度確認して、頭の中で情報を整理し、この先考えなくていけない難しいことを全て奥に追いやった。
「アリシア! 町へ戻るわよ!」
「えっ、でもこれ……」
「だって元々グレイさんの仕事だったんでしょ? 私は勉強をしようと思ってついてきたけど、収穫祭を諦めたとは一言も言っていないわよ!」
確認をとるようにグレイの顔を見る。
彼は言葉を発することなく、手で行ってこいとジャスチャーをした。
それを見て、セリスはぱあっと明るくなり、アリシアを引き連れて足取り軽く、町へと戻った。
何度も浮かびかける胸の内の虚無感を、必死に沈ませながら。




