署名
ここから先は、あの夜に見聞きしたことではありません。
後日、担当刑事から受けた説明と、その後、私が傍聴した裁判で明らかになったことを記します。
真壁の車から、二百一枚目の原稿が見つかった。
一緒にあったのは、兄が保管していた支払いに関する資料だった。
最後の一枚には兄の血が付着していた。
そして、その血によって残された指紋が、真壁のものと一致した。
レストランの記録も、彼の説明を裏づけなかった。
入口の防犯カメラに真壁が映ったのは、九時三十二分。
会計をした九時四十分という時刻は正しかったが、九時五分か十分には入店していたという話は、違っていた。
真壁はやがて、九時を過ぎてから家へ戻ったことを認めた。
裏口から入ったこと。
書斎で兄と話したこと。
そして、兄を殴ったことも。
長いあいだ、真壁は出版社の金を不正に流用していた。
兄に支払われたことになっている金額と、実際に兄が受け取った金額には食い違いがあった。
兄は資料をそろえ、翌日、会社へ知らせると真壁に告げていた。
あの夜、真壁が持ち去りたかったのは、その資料だった。
だが、最後の原稿まで消えたのには、別の理由があった。
裁判で、真壁は説明した。
戻ったとき、兄は最後の一枚を手元に置いていた。
真壁は、その文章を読んだ。
その後、言い争いになった。
兄を殴ったあと、真壁は資料を集めた。
その際、血の付いた手で、机上の原稿に触れた。
「自分の指の形が残ったように見えました」
真壁は、そう言った。
だから、持ち去った。
原稿を読んだのは、最初に家を出る前ではない。
戻ってからだった。
それでも彼は、もっと早く読んだことにした。
なぜ、嘘を見抜かれるとは思わなかったのか。
その質問に、真壁は少し間を置いて答えた。
「妹さんは、清書をしているだけだと思っていたので」
私は、傍聴席でその言葉を聞いた。
真壁にとって、私が台所で書き終えた時刻は重要ではなかった。
文章を写し終えた時刻にすぎなかった。
もとの文章は、兄の手元に、もっと前から存在している。
そういうつもりの嘘だった。
しかし、あの一行は、私が書くまでどこにもなかった。
真壁が間違えたのは、時刻だけではない。
誰が、その文章を生み出したのかということだった。
兄が私の名前を返すつもりだったのかどうかは、結局、本人には確かめられなかった。
書斎には、出版社宛ての手紙の下書きが残っていた。
四冊目以降の作品を、私が執筆していたこと。
今後の著者表示について、相談したいこと。
兄の筆跡で、そう書かれていた。
宛名も、日付もあった。
署名は、まだなかった。
その下書きや、家に残っていた初稿と修正の記録は、私が出版社に事情を説明するときの助けになった。
私は兄の手紙を、何度も読み返した。
九時十五分の兄は、最後の一行を見て、表紙も変えないとな、と言った。
その言葉を、私は書いた。
十九歳の私に、次は自分の名前で出せばいい、と言ったことも書いた。
どちらか一方だけを残すことは、しなかった。
あの夜の長編は、まだ世に出していない。
先に、この短い物語を書いた。
書いているあいだ、兄が赤い字を入れてくるような気がすることがあった。
そこは長い。
その女は、もう少し素直にしろ。
最後は許した方が、読後感がいい。
手が止まるたびに、私は最初のページへ戻った。
この物語の作者を当ててください。
犯人を見つけるためだけの問いではなかった。
私は、誰の話を、誰の言葉で書いているのか。
それを忘れないための問いでもあった。
原稿を読み終えた新しい編集者は、最後のページに目を留めた。
「お兄さんへの言葉を、もう少し足しますか」
「いいえ」
私は答えた。
そのあとで、少しだけ緊張した。
理由を説明しなければいけないと思った。
説得しなければ、また別の結末を書かされると思った。
編集者はうなずいた。
「では、このままで」
それだけだった。
私は、息を吐いた。
雑誌の目次や扉で、著者の名前を先に明かさないでほしいというお願いも、受け入れてもらえた。
名前を載せないのではない。
最後に載せる。
そこまで読んで、見つけてもらいたかった。
原稿の最後には、一行だけ、空白を残してあった。
そこへ、自分の名前を書いた。
兄の名前を書くより、時間がかかった。
見慣れているはずの三文字が、紙の上では、少しよそよそしく見えた。
それでも、書き直さなかった。
これは、誰かの原稿を写したものではない。
私が、私の名前で世に出す、最初の小説だ。
蓮見紬
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
小説を読んでいると、登場人物の名前が書かれているだけで、その人物を外から眺めているような気分になります。
「紬は、こう考えた」
そう書かれていれば、物語の外にいる誰かが、紬の心を説明しているように読めます。
けれど、紬自身が、自分を「紬」と呼んで書いている可能性もある。
今回は、その小さな距離の取り方を、推理の仕掛けにしました。
作者がわかって初めて、文章の出所がわかる。
文章の出所がわかって初めて、何気ない証言が、成立しない証言へと変わる。
犯人が間違えたのは、一行を読んだ時刻だけではありません。
誰が、その一行を生み出せるのかということでした。
もうひとつ書きたかったのは、同じ「書く」でも、清書することと、自分の言葉を選ぶことは違う、という話です。
彼女が最後に選んだのは、表札を壊す結末ではなく、その裏に自分の名前を書く結末でした。
しかし、それは誰かを許したという意味ではありません。
許すかどうかを結論づけなくても、自分の名前で生き始めることはできる。
この物語の最後は、そこに置きました。
冒頭では「作者を当ててください」とお願いしましたが、最後には、当てるというより、名前を呼んでもらえるような話になっていれば嬉しいです。
普段なら表紙でわかることを、最後の一行までかけて書く。
今回は、そんな小説でした。




