第3話:届かない叫びと、凍りつく世界
その夜、森は赤く染まっていた。
私が愛する、静寂に満ちた碧い世界が、下俗な人間たちの手によって引き裂かれようとしていた。
「魔女を殺せ!」
「森を焼き払え! 化け物に囚われたシオンを救い出すのだ!」
館を取り囲む松明の炎が、凍てついた窓を不気味な橙色に染める。
彼らは何も分かっていない。私は囚われてなどいない。ただ、私の意志で、この世で最も美しい奇跡の側にいるだけなのに。
「シオン、逃げて……!」
背後から、声にならないエルザの悲鳴が聞こえた気がした。
振り返ると、彼女の碧い耳は恐怖で激しく震え、彼女の足元から奔出する青い棘が、館の床をミシミシと侵食していた。
喉を掻き抱き、私を外へ押し出そうとする彼女の口元から、激しい感情の昂りに耐えかねて、ぽろぽろと青い結晶の破片が零れ落ちる。
(嫌だ。君を置いていくくらいなら、ここで君の氷の一部になりたい)
私は彼女の冷たい手首を掴み、その身体を庇うように立ちはだかった。
だが、その一瞬の隙を、人間の悪意は見逃さなかった。
――ガシャァン!
激しい音を立てて窓ガラスが割れ、夜の冷気と共に、燃え盛る矢が何本も滑り込んでくる。
そして、その中の一筋の矢が。
鉄の鏃を持った冷酷な一矢が、私の胸深くを容赦なく貫いた。
「あ……」
熱い、と思った。
ずっと冷え切っていた私の身体に、突如として猛烈な「熱」が走る。
胸から溢れ出た赤い血が、床の青い氷をじわじわと溶かし、真っ赤な染路を描いていく。
崩れ落ちる私の身体を、エルザが悲鳴のような無音の呼吸と共に受け止めた。
*
(エルザ視点)
どうして。どうして、こんなことになってしまったの。
私の腕の中で、シオンの身体がどんどん軽くなっていく。
胸の傷口から溢れる、生々しい、あたたかい赤。
その熱が、私の指先を、腕を、容赦なく溶かしていく。それは彼が死に向かって進み、その命の火が消えかけている残酷な証拠だった。
嫌。嫌よ。行かないで。
私をまた、あの誰もいない、何も聞こえない、永遠の孤独の中に置き去りにしないで。
「あ……、あ、う……!」
伝えたい。行かないでと、死なないでと叫びたい。
けれど、喉を支配する『結晶の棘』が、私の言葉を、愛を、すべて鋭利な氷へと変えて喉の内壁をズタズタに切り裂く。
口から溢れるのは、無力な青い血と結晶の破片だけ。
『喋らなくていい。君の声が僕を殺すとしても、僕は君の歌が聴きたいんだ』
脳裏に、いつかシオンが微笑みながら言ってくれた言葉が蘇る。
彼は、私の声が死をもたらす毒だと知ってもなお、私のすべてを愛してくれた。
それなら。私の声が彼を殺す毒だというのなら、もう彼が死にゆく今、私は何を恐れる必要があるのだろう。
――私は、私のこの呪われた喉を、両手で強く掴んだ。
爪を立て、肉を割き、喉の奥深くへ指を突き入れる。
肉を削ぐような、凄まじい劇痛。
けれど、シオンが失っていく温もりに比べれば、こんな痛み、何でもない。
私は、幼いあの日からずっと私を縛り続けてきた、あの忌まわしい『青い結晶の棘』を、喉の奥から一気にむしり取った。
ゴボリ、と喉から鮮血が噴き出す。
視界が痛みで白く染まる。
それでも私は、シオンの凍りゆく頬に自分の額を寄せ、生まれて初めての、そして最後となる本当の「声」を絞り出した。
「――シ、オ……ン……」
かすれた、けれどどこまでも透き通った私の歌声が、燃え盛る炎を、押し寄せる人間たちの怒号を、すべて圧して世界に響き渡る。
私の歌声が空気に触れた瞬間、館を取り囲んでいたすべての炎が、一瞬にして青い結晶へと姿を変えた。
押し入ろうとしていた人間たちも、松明を持った姿勢のまま、美しい青い彫刻となって静止する。
世界から、すべての音が消えた。
ただ、私の歌声だけが、静まり返った青い森にどこまでも響いていく。
「シオン……大好き、よ……。だから、目を開けて……」
私は歌い続ける。
私の腕の中で、最愛の人が、ゆっくりと、ゆっくりと、美しい青い氷へと変わっていくのを、ただ見つめながら――。




