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第9話「最初の冬」

 冬は、静かに人を殺した。


 寒さは刃のように、日ごと深くなった。窓のない施設に、雪は降らない。だが、石の壁は外の寒気をそのまま室内へ通した。夜になると、房の空気が白く凍った。


 弱い者から順に、消えていった。


 朝、目を覚ますと、隣の房から一人、運び出されていく。また、一人。歯の鳴る音が、ある夜を境に聞こえなくなる。それは、その子が暖かくなったからではなかった。ただ、歯を鳴らす力すら、なくなっただけだ。そして次の朝、藁の上から運び出されていく。


 施設は、それを淡々と記録した。番号を、帳面から消すだけ。数字が、一つ減る。それだけのことだった。


 シンは、生きていた。


 ロルフがいなくなってから、シンは変わった。


 いや――やっていることは、同じだった。逆らわない。列では前を見る。腹が減っても、文句を言わない。採血の台では、目を閉じる。看守を観察する。巡回を数える。……ロルフに教わり、ダンに仕込まれた、生き延びる作法。


 だが、その作法をなぞる、シンの目が変わっていた。


 半年前、この作法は、母の手を忘れるための逃避だった。数えている間だけ、考えずにいられた。だが、いまは違った。


 シンは、演じていた。


 従順な番号を。おとなしい、はずれの奴隷を。看守の目には、何の価値もない、何の脅威もない、ただの痩せた子ども。……そう見えるように、演じた。目を伏せ、背を丸め、声を殺し。そうやって、誰の記憶にも残らない。誰の帳面にも、線を引かれない。それが、この地獄で生き延びるということだ。シンは、それを完全に自分のものにしていた。


 従順を演じながら――その内側で、シンの目だけは、決して伏せていなかった。


 誓いは、言葉にはしなかった。


 ロルフの空っぽの寝床を見て、泣かなかったように。誓いも、声には出さなかった。ただ、胸の奥の、あの重い石の上に、シンは一つ、決めたことを置いた。


 次は。


 次に、大事なものが目の前で奪われそうになったとき。おれは、あんなふうには立ち尽くさない。帳面の線一本の前で、拳を握るだけの無力では終わらせない。


 そのために何が要るのかは、まだわからない。力か。知恵か。仲間か。……全部かもしれない。だが、要るものが何であれ、おれはそれを手に入れる。この白い地獄の中で。抜かれ、飢え、凍えながら。それでも。


 ――ロルフ。おれは、化ける。


 その冬の、ある夜だった。


 サイレント・ルームの中で、シンはダンに、観察したことを報告していた。誰が誰を恐れ、誰が誰と組めるか。ダンに教わった、人の心の地図を、シンは少しずつ描き始めていた。


 いつものように、乾いた声で聞いていたダンが、ふと口をつぐんだ。


 そして、シンの顔をじっと見た。


 これまでとは違う目だった。面白がるのでも、値踏みするのでもない。ダンは、初めて――本気の顔をしていた。


「小僧」ダンは、低く言った。「お前、変わったな」


 シンは、答えなかった。


「前は、ただ生きてた。怯えて、逃げて、必死で生きてた」ダンは言った。「だが、いまのお前は違う。……生きる理由を、見つけた顔だ。目的を持った者の顔だ」


 ダンの、落ちくぼんだ目が、暗がりの中で静かに光った。


「そういう目をした奴を、俺は昔、何人か見た。……そいつらは、みんな化けた。良くも、悪くも、な」


 その夜、シンはなかなか眠れなかった。


 冷えた床の上で、膝を抱えながら、シンは頭の中の地図を繰っていた。看守の地図。巡回の地図。人の心の地図。……そして、その隅に、答えの出ていない、二つの小さな"なぜ"が、埃をかぶって転がっていた。


 一つは、採血のときの、あの感覚だ。血を抜かれる、その一瞬だけ、首筋の痣の締めつけがわずかにたわむ気がする。ずっと前から感じていた。気のせいだと流してきた。


 もう一つは、スープの、あの違和感。食べても、身体がそれを活かせない。滋養が素通りしていく。ダンでさえ答えられなかった、あの問い。


 その二つを、シンは初めて、頭の中で隣に並べてみた。


 血。首の痣。抜かれる、一瞬。……そして、食べても活かせない身体。


 ――何か、繋がっていないか。


 だが、そこまでだった。二つの"なぜ"は、隣に並んだまま、うんともすんとも言わなかった。繋がりそうで、繋がらない。指の先が、届きそうで届かない。シンはしばらく、それをこねくり回し――やがて疲れて、手を離した。


 まだ、早い。まだ、何も見えない。


 次の朝の、採血のときだった。


 いつものように、針が肘に沈む。血が抜かれていく。目眩の白い滲み。……その抜かれていく一瞬、シンの指の先が、ふいに奇妙に軽くなった。


 軽い、というより――何か。何かできそうな。指の中の血が、ほんの少し、自分の言うことを聞きそうな。そんな気配。


 だが、それは瞬きの間に消えた。


 寒さのせいだ、とシンは思った。寒さと、疲れと、血を抜かれためまいのせい。そんなものが、あるはずがない。血が言うことを聞くなんて。おれは、はずれだ。血を数ミリ動かすだけの。……シンは、その一瞬の軽さを忘れた。忘れたつもりになった。


 頭の隅の、二つの"なぜ"の、そのまた隅に――気づかないほど小さな、三つ目の"なぜ"が、そっと転がり込んだことに、シンは気づかなかった。


 そうして、シンは、最初の冬を越えた。


 多くの子どもが藁の上から運び出されていった、その冬を。シンは生き延びた。従順を演じ、観察を続け、二つ――いや、三つの、答えの出ない問いを、胸の奥に抱えたまま。


 搬入されたときの、あの、怯えて数を数えるだけの子どもは、もういなかった。


 いまここにいるのは、目的を持って耐える者だった。


 冬の終わりが近づいた、ある夜。


 サイレント・ルームの中で、ダンがふいに言った。


「小僧。……お前、そろそろ、いい頃だ」


 シンは、顔を上げた。


「生き延びる作法は、覚えた。観察も、仕込んだ。仲間の話も、始めた。……だが、それだけじゃ足りん。お前が本当に化けるには、もう一つ、知らなきゃならんことがある」


 ダンの声に、これまでにない重さがあった。


「この世界には、"当たり前"の顔をした嘘が、山ほど埋まってる。前に、そう言ったな」ダンは言った。「……その中で、いちばんでかいやつを、お前に渡す。俺が、長いこと、どうしても信じきれなかった、嘘だ」


 ダンは、痩せた身体を前へ傾けた。落ちくぼんだ目が、暗がりの中で燃えるように光った。


「"魔力は、生まれで決まる"」ダンは、静かに言った。「……この世界の、誰もが疑いもしない言葉だ。王様も、貴族も、教会も、奴隷でさえ、そう信じてる。だが――俺は、どうしても信じられなかった。なぜかは、俺にもわからん。答えは、持ってない。……持ってたら、とっくに、この老いぼれが化けてるさ」


 シンの胸の奥で、あの重い石が、初めて脈打った気がした。


「一つだけ、掴んでる欠片がある」ダンは、さらに声を落とした。「昔、裏の世界で、小耳に挟んだ話だ。……"血を操る力"ってのは、どうも、王族に偏って出るらしい。血の刃だの、血の兵器だの――そういうものは、王家の、隠し事の一つだ、とな」


 ダンの目が、暗がりの中で、まっすぐシンを捉えた。


「だから――初めて、お前の鑑定を聞いたとき、俺は妙な気分になった」ダンは言った。「【血液操作】。血を、操る力。……王族でもない、はずれ判定の、こんな小さいのが、なぜ、そんなものを持ってる」


 シンは、あの夜のダンの沈黙を思い出した。"ゴミだ"と吐き捨てた自分を、否定も、肯定もせず、ただ、じっと見ていた、あの目を。


「まさか、とは思う」ダンは、低く言った。「ただの偶然かもしれん。俺の思い違いかもしれん。……だが、その"まさか"を確かめる力を、俺は持ってない。血も、操れんしな」


 ダンは、そこで、ふと目を伏せた。


「……それに、な」乾いた声が、さらに低くなった。「採血のときの、あの妙な感じ。血を抜かれると、身体の奥で、何かが揺れる。……あれにも、俺はずっと前から気づいてた。何かある、とは思ってた。だが――それが何なのか。俺には、とうとう掴めなかった。何十年、ここにいても、な」


 シンの指の先が、ぴくりと動いた。


 ――採血のときの、妙な感じ。


 それは、シンが今朝、流したばかりの、あの"軽さ"ではなかったか。頭の隅の、三つ目の、名前もない"なぜ"が、ダンの言葉にそっと触れた気がした。だが、繋がる前に、シンはそれをまた見失った。


 ダンは、痩せた指で、シンの胸をこつ、と指した。


「だから、お前に渡す。……"魔力は生まれで決まる"って、この世界の根っこの言葉が、嘘かもしれん、っていう、その"疑い"を。答えは、俺にはない。掘るのは、お前だ。――お前の、その血で」


 魔力は、生まれで、決まる。


 その言葉と、頭の隅の、三つの"なぜ"が――まだ、繋がらない。繋がらないが、確かに、同じ暗がりの中にあった。


 シンは、ダンをまっすぐ見返した。


 そして、この白い地獄で、初めて、自分から前へ身を乗り出した。


「……聞かせてくれ」


 冬が、明けようとしていた。


 シンの、最初の冬が。そして――長い、長い反逆の、その最初の一歩が。


――第1章「揺り籠」了


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