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第8話「ロルフ」

冬が、すぐそこまで来ていた。


 石の床は氷のように冷たく、夜になると、房のあちこちで歯の鳴る音がした。弱い者から順に、消えていく季節だ。


 ロルフは、もう立ち上がるのもやっとだった。


 長く、抜かれすぎた。


 半年前、シンが搬入されたときには、まだ、へへ、と笑う元気があった。だが、いまのロルフは、頬がこけ、目は落ち窪み、腕は枯れ枝のようだった。採血の針を刺されても、もう、血は細くしか出ない。滲むように、じわりと。それでも、施設は抜くのをやめなかった。


 シンは、できることの全部をやっていた。


 スープの塊を回す。ゆっくり食べさせ、身体を冷やさせない。だが、それだけでは足りなかった。だからシンは、採血の"順"にも手をつけた。


 採血台の技士は、二人いた。一人は、律儀に、決められた量をきっちり抜く。もう一人は――面倒くさがりだった。瓶がある程度たまると、あとはいい加減になる。針を浅く刺し、少しだけ抜いて、次へ回す。


 その面倒くさがりの技士が、どの位置の奴隷を担当するか。シンは、日ごとの並びからそれを読んだ。そして、少しずつ列の中で身体をずらして、ロルフがいつも、その"いい加減な"技士に当たるように仕向けた。


 ほんの、わずかな差だ。抜かれる量が、少しだけ減る。一日では、何も変わらない。だが、何日も続ければ――。


 効いた、と思えた時期があった。


 数日続けたある朝、ロルフの顔色が、少しだけ良かった。針を刺されても、前よりしっかりと血が出た。ロルフ自身も、それに気づいたらしい。房に戻ってから、久しぶりに、へへ、と笑った。


「なんか、最近、調子がいいんだ」ロルフは言った。「不思議だな。……この歳で、この場所で、調子がいいなんて、な」


 シンは、何も言わなかった。ただ、黙って頷いた。自分がやったとは、言わなかった。言えば、ロルフが気を遣う。それに――まだ、足りない。もっと続けなければ。もっと、うまくやらなければ。


 その夜、ロルフは、めずらしく昔の話をした。


 外にいた頃の話だ。小さな村で、畑を耕していたこと。祭りの日に、屋台で買った甘い菓子のこと。……たいした話ではなかった。ただ、痩せた顔で、ぽつぽつと、ロルフは思い出を語った。


「なあ、ちび」最後に、ロルフは言った。「おれは、もう、外には戻れねえかもしれん。……でも、お前は違う。お前は頭がいい。いつか、ここを出られる。……出たら、一度でいいから、あの甘い菓子を食ってみろ。……おれの、代わりに」


 シンは、頷いた。頷いて、そして、心の中で誓った。


 ――違う。ロルフも、連れて出る。おれが、なんとかする。


 できると思っていた。まだ、間に合うと。順をずらし続ければ。塊を回し続ければ。この小さな策を積み重ねれば。


 シンは、まだ知らなかった。


 自分の策が、どれほど小さな、どれほど"下の階"の話でしかなかったのかを。


 それは、ある日の採血のあとに起きた。


 白衣の男たちが、いつもより多かった。その中に一人、これまで見たことのない男がいた。


 背の高い、痩せた男だった。歳はわからない。若くも見え、老いても見えた。ほかの技士たちが、その男の前では背筋を伸ばし、口をつぐんだ。位の高い者だ、とシンはすぐにわかった。この施設の、上のほうの人間だ。


 男は、帳面を持っていた。


 そして、採血を終えた奴隷たちを、一人ずつ見ていった。いや――見てはいなかった。男が見ていたのは、奴隷ではなく、帳面の数字だった。首筋の刻印の番号と、帳面に記された、抜けた血の量と。それを照らし合わせては、指で線を引いていく。


 シンは、その男の目を見て、ぞっとした。


 憎しみも、憐れみもなかった。苛立ちすら、なかった。あの赤ら顔の看守にすらあった"感情"というものが、この男には何もなかった。ただ、数字を見ていた。合う、合わない。採算が、合う、合わない。それだけの目だった。


 男の指が、ある番号の上で止まった。


 ロルフの、番号だった。


 男は、しばらくその数字を見た。それから、隣の技士に、抑揚のない声で言った。


「この個体、血の出が落ちてるな」


「はい。……もう、長くはもたないかと」技士が答える。


「通常の採血では、もう採算が合わん」男は言った。帳面に、線を一本引く。「危険区分へ回せ。あちらなら、この状態でも、まだ使い道がある」


 それだけだった。


 男は、次の番号へ目を移した。ロルフのことは、もう見ていなかった。線を一本引いた。ただ、それだけ。


 危険区分。


 その言葉が何を意味するのか、シンにはわかった。この半年で覚えたことの一つだ。危険区分へ回された奴隷は――戻らない。より過酷な実験に使われ、そして使い尽くされる。殺されるのではない。最後の一滴まで"使われる"のだ。殺すよりも、それはずっと冷たかった。


 シンは、動けなかった。


 叫びたかった。その男の帳面を、破り捨てたかった。ロルフは、調子が良くなっていた。せっかく良くなっていたのに。だが――シンのその努力は、この男の目には映っていなかった。血の出が落ちた。ただ、それだけ。シンが何日もかけて、順をずらし、塊を回し、積み上げてきた、あの小さな、小さな策のすべてが。


 この男の、線一本の前で、何の意味も持たなかった。


 その日のうちだった。


 看守が房に来て、ロルフの番号を読み上げた。


 ロルフは、ゆっくりと立ち上がった。もう、抗う力も、逃げる力もなかった。ただ、立ち上がり、シンのほうを見た。


 シンは、何か言おうとした。何か。何か、言わなければ。だが、喉が詰まって、声が出なかった。


 ロルフは、痩せた顔で笑った。


 最後まで、へへ、と、力なく。


「……菓子だぞ、ちび」ロルフは言った。「忘れんなよ」


 それが、最後だった。


 ロルフは、看守に連れられて房を出ていった。鉄扉が閉まる。鍵の、重い音。


 戻って、こなかった。


 夜が、来た。


 房の隅。ロルフがいつも寝ていた場所。汚れた藁が、そのまま残っていた。ロルフの形に、少しだけへこんだまま。


 シンは、その空っぽの寝床を、じっと見ていた。


 泣かなかった。


 泣き方は、もう忘れていた。この地獄で、泣いた子から順に消えていくのを見てきた。だからシンは、泣かない。ただ、胸の奥の石が、これまででいちばん重かった。冷たく、硬く、動かない、大きな石が、そこにあった。


 ふいに、肩に手が置かれた。


 ダンだった。


 いつのまにか隣に来て、シンの小さな肩に、骨ばった手を置いていた。何も言わずに。しばらく、そうしていた。


 やがて、ダンが、低く口を開いた。


「……悔しいか」


 シンは、答えなかった。答えられなかった。


 ただ、空っぽの寝床を見ていた。


「その悔しさを」ダンは、静かに言った。「忘れるな」


 シンの肩の上で、その手に、わずかに力がこもった。


「……武器にしろ」


 シンは、動かなかった。


 廊下の光が陰る。看守の足音が通り過ぎていく。決まった時間に、決まった順路を。何も、変わらない。ロルフが消えても、この地獄は、昨日と寸分も変わらずに回り続ける。


 シンは、空っぽの藁を見つめたまま――胸の奥の、その重い石を握りしめた。


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