第7話「賢い狼」
日に日に、廊下の空気が冷たくなっていた。
窓のない施設に、季節はない。はずだった。だが、石の床から這い上がる冷えは日ごとに深くなり、朝の採血のあと、身体が震えて止まらない子どもが増えていた。シンが搬入されてから、半年余り。外では、秋が冬へ変わろうとしているのだろう。
その頃には、シンの"地図"は、ずいぶん大きくなっていた。
看守の顔と、癖。巡回の時刻と、順路。配給の規則。奴隷たちの力関係。ダンに言われたとおり、シンは見えるものを片端から覚え、頭の中に並べ続けた。半年ぶんの観察は、六歳の頭の中に、この白い地獄の精巧な写しを作りつつあった。
だから、シンは気づいていた。
別の区画の年長の奴隷たちが、何かおかしい、と。
言葉を交わしているわけではない。ただ、目配せの数が増えていた。配給の列で、さりげなく順を入れ替える者がいた。採血のあと、わざと遅れて廊下の奥をうかがう者がいた。……シンが、自分でもやってきたことだ。だからわかった。あいつらは、何かを"読んで"いる。何かを企てている。
脱走だ、とシンは思った。
そして、シンの地図にも、一つ"穴"があった。
夜半、看守の巡回が東の廊下から西の廊下へ移る、その間。ほんの短い時間。東の突き当たりの、古い搬入口のあたりだけ、誰の目も届かなくなる。……もし逃げるなら、そこだ。シンは何度も、そう思っていた。逃げるつもりなどなかった。ただ、地図を眺めるうちに、自然とそこへ目が行くのだ。ここが、穴だ、と。
年長の奴隷たちも、たぶん、同じ穴を見つけている。
それは、ある夜、起きた。
消灯の、少しあと。遠くで、争う物音がした。走る足音。何かが倒れる音。押し殺した悲鳴。
シンは、身を起こした。房の格子窓から漏れる光の向こう、廊下を、いくつもの足音が駆けていく。看守の足音だ。だが――速すぎた。まるで、最初からそこで待っていたように。
脱走は、始まってすぐに潰された。
あとで、少しずつわかってきた。
年長の奴隷たちは、東の搬入口を目指した。シンが"穴"だと思った、あの場所だ。だが、そこには看守が待ち構えていた。逃げ込んだ奴隷たちは、袋の鼠だった。搬入口の先は、行き止まりだったのだ。古い扉は、とうに塞がれていた。外から見えない場所で、内側だけ、死に地に作り替えられていた。
"穴"は、穴ではなかった。
罠だった。逃げたくなるように、わざと目立つ穴を残してあったのだ。巡回を、そこだけ薄くして。逃げる者を、そこへ誘い込むために。
そして、もう一つ。
脱走の計画は、決行の前から看守に筒抜けだった。
仲間の中に、一人、密告した者がいた。
シンは、それをあとになって見抜いた。
脱走に加わった奴隷は、みなひどい罰を受けた。だが、一人だけ――計画の中心にいたはずの年かさの男が、罰を免れていた。それどころか、次の日、その男の椀には、珍しく、塊が二つ沈んでいた。
褒美だ、とシンは思った。売った者への、褒美。
シンの地図は、廊下も、巡回も、配給も読んでいた。だが――誰が、誰を裏切るか。それだけは、どこにも描かれていなかった。人の心は、シンの地図の外にあった。
罰は、脱走した者だけでは終わらなかった。
次の日、奴隷たちは全員、広間に集められた。脱走とは何の関わりもない、別の区画の者まで。シンも、ロルフも、ダンも並ばされた。
白衣の男が一人、帳面を持って前に立った。冷たい目で帳面を繰りながら、番号を読み上げていく。
「四七番。九一番。一〇三番……」
名を呼ぶのではない。番号だ。読み上げられた番号の奴隷が前へ引き出され、罰を受ける。男は、誰の顔も見ていない。ただ、帳面の数字と、引き出された者の首筋の刻印とを照らし合わせるだけだった。合っていれば、罰する。合っていなければ、次を呼ぶ。荷物の棚卸しのように。
シンは、そのとき悟った。
あいつらにとって、俺たちは名前ではない。番号だ。首筋のアザに刻まれた番号。あのアザが、俺たちのすべてなのだ。生きているか、死んでいるか、逃げたか、逃げていないか――何もかも、あの番号で数えられ、管理されている。母がくれた名前は、もうどこにもない。ここにあるのは、帳面の上の数字だけだ。
読み上げられた中に、シンのすぐ近くの房の子どもがいた。まだ、シンと同じくらいの小さな子だ。脱走のことなど、何も知らないはずだった。ただ、区画が近かった。それだけで、連帯の罰を受ける。
子どもが、引き出されていく。シンは、拳を握った。握って、握って――何もできなかった。スープの配り方を読んでも。半歩、前に出られても。この番号の前では、シンの武器は、何一つ役に立たなかった。
その夜、サイレント・ルームの中で、シンは長いこと黙っていた。
ダンも、黙っていた。
やがて、シンが口を開いた。
「……おれの地図は、間違ってなかった」声が震えていた。「穴も、巡回も、全部読めてた。なのに」
「なのに、あいつらは、その上を行ってた」ダンが、静かに引き取った。「お前が読んだ穴は、あいつらが読ませた穴だ。……敵は、馬鹿じゃない。むしろ、賢い。逃げたくなる穴を作り、逃げる奴を誘い込み、密告を仕込んで、まとめて潰す。そうやって、"逆らっても無駄だ"って絶望を、みんなに植えつける。……賢い狼のやり方だ」
「情報だけじゃ、足りなかった」シンは、絞り出すように言った。「おれは、廊下も、巡回も読めた。でも、あいつが仲間を売ることは……読めなかった。人の心は……地図に描けない」
ダンは、シンをじっと見た。
「そうだ」ダンは言った。「よく、そこに辿り着いた。……情報は武器だ。だが、情報"だけ"の奴は、必ずその上を行かれる。人の心を読めず、味方が一人もいない奴は、な」
そして、ダンの目に、これまでとは違う、何か熱のようなものが灯った。
「一人で賢いだけの奴は、必ず潰される」ダンは、低く告げた。「今日の、あいつらみたいに、な。……いいか、小僧。お前に、次の話をしよう。ずっと、しようと思ってた話だ」
ダンは、痩せた身体をわずかに前へ傾けた。
「仲間を、作る話だ」
仲間。
シンは、その言葉を胸の中で繰り返した。
この地獄で、シンが持っていたのは、観察と、記憶と、たった一つのはずれの力だけだった。仲間なんて、考えたこともなかった。誰かと組む。誰かを信じる。……それが、番号で管理されるこの場所でどんな意味を持つのか、シンにはまだわからなかった。裏切りが、褒美で買われる場所で。
ただ、引き出されていった、あの小さな子の背中が、まぶたの裏に焼きついていた。
情報だけでは、あの子を救えなかった。
ならば――何が要るのか。
シンは、顔を上げた。ダンの、熱を灯した目をまっすぐ見返した。
「……聞かせてくれ」シンは言った。「仲間を、作る話を」
その夜、白い地獄の、音のない部屋で、一匹の老いた狼が、一人の子どもに"群れ"の話を始めた。




