第6話「残渣スープ」
スープを"読めた"ことは、シンに小さな自信を与えた。
だが、その自信は長くは続かなかった。
塊の入った一杯を、何度かロルフに回すうちに、シンはあることに気づいてしまった。塊を食べても――ロルフは、あまり良くならないのだ。
黒い塊は、汁だけの一杯よりずっと滋養があるはずだった。げんに、塊を食べた次の日、ロルフの顔色は少しだけ良く見える。だが、それもその日のうちに、また元の灰色に戻る。抜かれ、痩せ、すり減る速さのほうが、塊で得るものよりずっと速い。
――なぜだ。
シンは、考え始めた。食べているのに、なぜ弱る。
その日の夜、サイレント・ルームの中で、シンはダンに尋ねた。
「爺さん。このスープ、なんなんだ」
ダンは、しばらく黙っていた。それから、乾いた声で言った。
「魔獣の、残渣だ」
「ざんさ」
「食い残し、屑、絞りかす……そういう意味だ」ダンは言った。「魔獣を、どこかで研究に使ってる。その使い終わった屑を、煮て、俺たちに配ってる。……人に食わせる飯じゃない。獣の飯だ。それも、捨てるはずだった獣の飯だ」
シンは、あの饐えた匂いを思い出した。灰色の、饐えた汁。あれが、捨てるはずだった屑。
「でも」シンは言った。「屑でも、塊には滋養があるだろう。なんで、みんな、食べても弱っていくんだ」
ダンは、シンを見た。落ちくぼんだ目が、暗がりの中で静かに光る。
「いい問いだ」ダンは言った。「……だが、俺には答えられん」
シンは、意外に思って顔を上げた。この老人が、答えられないと言うのは、初めてだった。
「なぜ、この餌でみんなが弱るのか。俺は、長いことここにいる。だが、それだけはわからん」ダンは、正直に言った。「一つだけ、言えることがある。……この施設は、俺たちを"殺さないように"できてる」
「殺さない……?」
「そうだ」ダンは、乾いた笑いを漏らした。「妙な話だろう。毎日血を抜いて、屑を食わせて、こんなところに閉じ込めて。……なのに、あいつらは、俺たちを簡単には殺さない。弱って、実験に使えなくなった奴を、別の場所へ送りはする。だが、"無駄に"は殺さない」
シンは、あの痩せ細った男が別の扉へ運ばれていったのを思い出した。抜かれて、抜かれて、それでも殺されはせず、最後までどこかへ運ばれていった。
「餌も、そのためだ」ダンは続けた。「死なせないための餌。生かして、絞り続けるための餌。……あいつらにとって、俺たちは卵を産む鶏だ。殺しちまったら、卵が採れん。だから、死なない程度には食わせる。だが、元気になられても困る。だから、屑しか食わせん」
死なせず、絞り続けるための、餌。
その言葉は、殴られるより冷たかった。憎まれているなら、まだわかる。だが、この施設は、シンたちを憎んでもいない。ただ、道具として、長く使うために生かしている。それだけだった。
「……でも」
シンは、それでも食い下がった。
「その屑の餌で、死なない程度には生きられるはずだ。あいつらが、そう計算してるなら。……なのに、みんな、計算より速く弱っていく。ロルフも。あの、運ばれた男も。それは、なんでだ」
ダンは、答えなかった。
答えられなかったのだ。
シンはその夜、なかなか眠れなかった。
食べているのに、弱る。滋養を口に入れているのに、身体がそれを活かせていない。まるで――食べたものが、身体の中を素通りしていくみたいに。
次の日から、シンは、自分の身体で試すことにした。
スープを、どう食べれば少しでも身体に残るのか。一気に飲むのと、ゆっくり噛むのと。飲んだあと、動くのと、じっとしているのと。冷たい床に寝るのと、壁にもたれて座るのと。……シンは一つひとつ変えては、翌朝の身体の感じを覚えていった。採血のあとの、あのふらつく感じ。それが少しでも軽くなる食べ方は、どれか。
わかったことは、ごく僅かだった。
ゆっくり食べて、そのあと、身体を冷やさずにじっとしていると、翌朝の採血のふらつきが、ほんの少しだけ軽い気がする。ほんの少し。気のせいかもしれない、というくらいの、僅かな差だった。
それでも、シンはそれをロルフに教えた。ゆっくり食べろ。食べたら、動くな。身体を冷やすな。
ロルフは、素直にそうした。
だが――ロルフの衰えは、止まらなかった。
工夫で得られるものはあまりに小さく、抜かれて失うものはあまりに大きい。数日続けても、目に見える変化は何もなかった。ロルフの頬は、こけていくばかりだった。
シンは、悔しかった。
スープは、読めた。塊を、回せた。食べ方も、工夫した。それでも――ロルフは、弱っていく。自分にできることのあまりの小ささが、シンの胸をじりじりと焼いた。
その夜、サイレント・ルームの中で、シンはうつむいて言った。
「……だめだ。何も、変わらない」
ダンは、シンを見た。
「食べ方を変えても、ほんの少しだ。塊を回しても、追いつかない。……おれには、何もできない」
シンの声は、掠れていた。せっかく手に入れた"武器"が、いざ大事なときに、何の役にも立たない。その無力が、六歳の胸には重すぎた。
ダンは、しばらく黙って聞いていた。
それから、静かに言った。
「小僧。一つ、勘違いするな」
シンは、顔を上げた。
「お前はいま、"食べたのに身体が活かせない"って、その"なぜ"に触った」ダンは言った。「それは、俺が長年ここにいても辿り着けなかった"なぜ"だ。……お前は、たった数日で、そこに指をかけた」
「でも、答えは……」
「出てない。当たり前だ」ダンは、乾いた声で言った。「そんなもの、数日で出るなら、誰も苦労せん。何年かかっても、出ないかもしれん。……だが、いいか」
ダンは、痩せた指で、シンの胸をこつ、と指した。
「その"なぜ"を、手放すな」
シンは、息を呑んだ。
「食べたのに、なぜ弱る。滋養は、どこへ消える。身体は、なぜそれを活かせない。……その問いを、忘れるな。抱えたまま、生きろ。何度空振りしても、握って離すな」ダンの声は低かったが、その底に、たしかな熱があった。「答えに辿り着いた奴だけが――化ける。この地獄で、化けるってのは、そういうことだ」
化ける。
その言葉の意味を、シンはまだ知らない。
ただ、その夜、シンは、うつむくのをやめた。無力は消えなかった。ロルフは、まだ弱っていく。それでも――胸の奥に、一つ、問いをしまい込んだ。
食べたのに、なぜ弱る。
答えは遠い。だが、手放さない。握って、離さない。
その問いが、いつか、この白い地獄を覆すことになるとは――このときのシンは、まだ知らなかった。




