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第5話「観察という武器」

その夜から、ダンの話が始まった。


 消灯の音が鳴り、ロルフの寝息が規則正しくなった頃、部屋の奥で、ダンの手がそっと床に触れる。音が消える。あの、水の底のような静寂が房を包んだ。……この中でなら、話せる。シンは、もうそれを知っていた。


「小僧」ダンの声は、いつもより少しだけ輪郭がはっきりしていた。「昨日、言ったな。考え方を教えてやる、と。……今日から始める。だが、期待するな。俺が教えるのは、剣の振り方じゃない。もっと地味で、もっと役に立つものだ」


 シンは、暗がりの中で身体を起こした。


「いいか。この施設で、力で何かを変えようとした奴は、みんな消えた」ダンは、乾いた声で言った。「逆らった奴も、暴れた奴も、逃げようとした奴もだ。……力ってのは、持たざる者の武器にはならん。持ってる奴のための武器だ」


「じゃあ、何が――」シンが、口を挟みかける。


「観察だ」ダンは、静かに遮った。「見ろ。ただ、見ろ。この地獄の何もかもを、見て、覚えて、頭の中に並べろ」


 そして、ダンは痩せた指を、一本ずつ折った。


「看守の癖を見ろ。誰がいつ苛立つ、誰が手を抜く、誰が酒を飲んでる。巡回の穴を見ろ。奴らが決まった時間に決まった道を通るなら、通らない時間と道が必ずある。配給を見ろ。飯がどう配られてる、誰が得して、誰が損してる。奴隷同士を見ろ。誰が誰を恐れて、誰が誰と組んでる。……それを全部、頭の中に、地図みたいに描け」


 シンは、息を呑んだ。


 それは、シンがこの半年、ずっとやってきたことだった。檻の格子を数え、馬の脚の運びを見、看守の足音の間隔を測った、あの――意味などないと思っていた癖。母の手を忘れるための、ただの逃避。それに、この老人は、名前と使い道を与えようとしていた。


「なんでそんなことをするか、だろう」ダンは、シンの顔を見て、ほんの少しだけ笑った。「……知識だけが、持たざる者に残された、唯一の武器だからだ。剣も、魔法も、金も、名前も、何もないお前に、たった一つ残ってるもの。頭の中に、何を溜め込んだか。……それだけは、誰にも抜けん。採血でも、抜けん」


 採血でも、抜けん。


 その一言が、シンの胸のどこか深いところに、すとんと落ちた。毎朝、腕から抜かれていくもの。あの、外へ出ていく感覚。それでも――頭の中のものは、抜かれない。


「一度に全部は、無理だ」ダンは言った。「まずは一つ。何でもいい。一つ選んで、それを完全に読め。……読みきれたら、それがお前の最初の武器になる」


 シンが選んだのは、配給のスープだった。


 理由は単純だった。ロルフが弱ってきていた。


 あの暴行のあと、ロルフの脇腹の痛みは、なかなか引かなかった。もともと痩せていた身体が、さらに細くなっていく。毎朝の採血は容赦なく続く。抜かれて、痛めて、それでも入るのは灰色の薄い汁だけ。ロルフは、少しずつすり減っていた。


 シンには、それが見ていられなかった。何かを返したかった。「逆らうな」と教えてくれた男に。殴られながら、自分を目で止めてくれた男に。


 だが、殴り返すことも、庇うこともできない。それは、もう学んだ。


 だからシンは――スープを、読むことにした。


 次の日から、シンは、配給の列をこれまでとは違う目で見た。


 大鍋は、雑用係が運んでくる。灰色の、饐えた匂いの汁。その中に、時々、黒っぽい塊が混じっている。魔獣の残渣――肉とも骨ともつかない、その塊こそが、わずかな滋養だった。汁だけの椀と、塊の入った椀とでは、同じ一杯でも、まるで値打ちが違う。


 塊は、重い。だから、鍋の底に沈む。


 列の初めのほうは、上澄みの薄い汁ばかりだ。塊は、なかなか回ってこない。だが――雑用係は、時々、大きな杓子で、鍋の底をぐるりとかき混ぜる。かき混ぜた直後の一杯だけ、底の塊が舞い上がって椀に入る。


 いつ、かき混ぜるのか。


 シンは数えた。何杯配るごとに、雑用係が鍋をかき混ぜるか。一日、二日、三日。ただの気まぐれなのか、それとも決まりがあるのか。……やがて、見えてきた。雑用係は、鍋が軽くなって、杓子が底をこするようになるとかき混ぜる。だいたい、十人に一度。そして、かき混ぜた次の一人か二人が、塊を引き当てる。


 気まぐれではなかった。杓子が底をこする、という合図が、いつも先にあった。


 その日、列に並びながら、シンは、雑用係の杓子をじっと見ていた。


 鍋の中身が減ってきている。杓子の先が底をこする、かすかな音。……もうすぐだ。もうすぐ、かき混ぜる。


 前には、ロルフが並んでいた。


 このままなら、ロルフはかき混ぜる前の、薄い汁を受け取る。塊は、そのすぐあと――シンのほうに回ってくる。


 ――逆だ。逆にしないと。


 シンは、そっと半歩、前に出た。ロルフを押しのけるのではない。ただ、自分が先に椀を差し出す位置へ、身体を滑り込ませる。誰にも見咎められない、ほんの半歩。列の中の、小さな、小さなずれ。


 雑用係が、シンの椀に汁を注いだ。上澄みばかりの、ほとんど水のような一杯。


 そして――杓子が、底をこすった。


 雑用係が、面倒そうに、鍋をぐるりとかき混ぜる。


 舞い上がった黒い塊が、次の一杯に――ロルフの椀に、とろり、と落ちた。


 シンは、顔を伏せたまま、薄い汁の椀を持って列を離れた。看守は、何も気づかなかった。ただ、子どもが一人、半歩前に出ただけ。それだけのことだった。


 房に戻ってから、ロルフは、自分の椀の中を見て、それから、シンの椀の中を見た。


 シンの椀は、ほとんど水だった。ロルフの椀には、珍しく、黒い塊が二つ沈んでいた。


 ロルフは、しばらく黙っていた。


 それから、へへ、と笑った。いつもの、力のない笑い。だが、その目は、少しだけ違っていた。


「……お前、わざとやったな」


 シンは、答えなかった。薄い汁を、黙ってすすった。


「見てたぞ。お前、あの杓子を、ずうっと見てた。……そんで、半歩、前に出た」ロルフは、椀の中の塊を指でつまんだ。「これ、本当は、お前の分だ。おれが、もらっていいのか」


「ロルフのほうが、弱ってる」シンは、椀から顔を上げずに言った。「おれは、まだ、平気だ」


 ロルフは、しばらくシンを見つめた。


 それから、黒い塊を口に運んだ。痩せた喉が、ゆっくりと動く。飲み込んで、また笑った。今度は、さっきよりずっとやわらかい笑いだった。


「……お前、頭がいいな」ロルフは言った。「おれなんかより、ずっと。……なあ、ちび」


 ロルフは、シンの頭にそっと手を置いた。骨ばった、けれど、あたたかい手だった。


「その頭、いつか――おれたちを、助けてくれよ」


 シンは、その手の温もりを、じっと受けていた。


 助けてくれ、と言われたのは、初めてだった。この白い地獄で、誰かに何かを期待されたのは、初めてだった。「はずれ」でも「番号」でもなく、「助けてくれ」と。


 できるのだろうか、とシンは思った。血を数ミリ動かすだけの、はずれの自分に。


 わからなかった。だが――今日、たしかに一つだけ、うまくいった。剣も、魔法もなしに。ただ、見て、数えて、半歩前に出ただけで。ロルフの椀に、塊が二つ落ちた。


 知識だけが、持たざる者の武器だ。


 ダンの言葉が、初めて、ただの言葉ではなくなった。頭の中の地図に、シンは新しい一本の線を書き加える。スープは、読めた。……ならば、ほかのものも、いつか。


 その夜、部屋の奥で、ダンがほんの少しだけ笑った気がした。


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