第4話「サイレント・ルーム」
どれくらい、そうしていただろう。
シンは冷たい床に横たわったまま、目を閉じたふりを続けていた。まぶたの隙間から、部屋の奥のダンの影をずっとうかがっていた。
隣で、ロルフはもう眠っていた。脇腹の痛みで、何度か呻いて寝返りを打っていたが、やがて規則正しい寝息に変わった。殴られて、疲れきっているのだ。
ダンは動かなかった。壁にもたれ、老いた身体をぼろに沈めたまま、彫像のように動かない。……なんだ。やっぱり、ただの老人じゃないか。シンのまぶたが重くなりかけた。数えるのにも飽きてきた。
そのときだった。
ダンの手が、動いた。
痩せた片手をゆっくりと持ち上げ、指先をそっと床につける。ただ、それだけだった。呪文もない。光もない。派手なものは、何一つなかった。
――なのに、世界が変わった。
音が、消えた。
それまでずっと部屋に満ちていた音。廊下の魔石の、かすかな唸り。どこか遠くの房から漏れてくる、誰かの呻き。天井のどこかで、一定の間隔で滴る水の音。ここに来てから一度も途切れなかった、あの細かな音の層が、ふっと、いっせいに消えた。
耳が痛くなるほどの、静寂だった。
シンは、思わず息を止めた。自分の心臓の音だけが、やけに大きく、身体の内側で鳴っている。空気までもが変わっていた。重く、密で、まるで水の底に沈んだような、奇妙な圧があった。
スキルだ、とシンは直感した。
この老人は、いま、何かのスキルを使った。
その瞬間、背筋がぞっと冷えた。
奴隷は、スキルを使ってはならない。それは、この世界に堕ちてから、真っ先に骨へ刻まれた掟だった。番号にされ、荷物にされた者は、生まれ持った力を決して使ってはいけない。使えば――消える。逆らうよりも、逃げるよりも、それはずっと重い禁忌だった。誰もその掟を破らない。破れないのだと、シンは思っていた。首筋の黒い痣が、それを許さないのだと。
なのに。
この老人は、いま、当たり前のようにそれを破った。
「起きてるんだろう、小僧」
ダンの声だった。低く、乾いている。だが、その声は――さっきまでと、どこか違って聞こえた。輪郭がやけにくっきりとしている。外へ漏れることを、少しも恐れていない声だった。
シンは、身体を起こした。逆らう理由も、寝たふりを続ける意味も、もうなかった。
「怖がるな。音が消えただけだ」ダンは言った。「この中の音も、気配も、外へは漏れん。誰が廊下を通ろうと、耳を澄まそうと、この房で起きたことは、何一つ聞こえん。……この施設で、たった一つの、そういう場所だ」
シンは、暗がりの中でダンを見つめた。
「昼間の、ひそひそ話とは違う」ダンは続けた。「あんなものは、看守が本気で聞こうと思えば聞ける。……そうじゃない。ここでなら、ほんとうに誰にも聞かれちゃならん話ができる。それがどういう意味を持つか――いまのお前には、まだわからんだろうがな」
わからなかった。だが、わからないなりに、シンの胸の奥で何かがざわついた。誰にも聞かれない場所。決まったことしかないこの白い地獄に、そんな"抜け穴"が、たった一つあるということ。
「小僧」ダンが言った。「お前、鑑定で何が出た」
シンは、口をつぐんだ。
言いたくなかった。だが、この老人の目は、言わずに逃げることを許さない気がした。シンはしばらく黙って、それから、吐き捨てるように言った。
「……【血液操作】」声が、自分でも驚くほど固かった。「血を、数ミリ動かすだけ。戦う力もない。……ゴミだ。はずれだ。あいつらが、そう言った」
言ってしまうと、胸の奥がずきりと痛んだ。誰かに言うのは、初めてだった。言葉にした途端、それが本当のことになった気がした。おれは、ゴミだ。はずれだ。
ダンは、何も言わなかった。
否定もしなかった。慰めもしなかった。ただ、暗がりの中で、落ちくぼんだ目をじっとシンに向けている。その目が何を見ているのか、シンにはわからなかった。憐れんでいるのでも、笑っているのでもない。値踏みするのとも違う。もっと深いところで、静かに何かを見ている目だった。
その沈黙が、"ゴミだ"と吐き捨てた自分の言葉より、なぜか、ずっと重かった。
シンは、耐えきれずに、我慢していた問いをぶつけた。
「爺さん」声が掠れた。「……なんで、スキルが使える。奴隷は、使えないはずだ。使ったら、消えるはずだ。なんで、あんただけ」
ダンは、ほんの少しだけ口の端を上げた。あの、面白がるような目だった。
「なぜ俺がスキルを使えるか、か」
ゆっくりと、ダンは言った。
「……それは、教えてやらん」
シンが、思わず顔を上げる。
「教えてやらん。答えは、お前が自分で辿り着け」ダンは言った。「いいか、小僧。ここで一番大事なことを言う。……この地獄には、"当たり前"の顔をした嘘が、山ほど埋まってる。奴隷はスキルを使えない、ってのも、その一つだ。血を数ミリ動かすだけの力はゴミだ、ってのも――たぶん、その一つだ」
シンは、息を呑んだ。
「答えを教わった奴は、答えしか手に入らん。だが、自分で"なぜ"を掘った奴は、その先の全部を手に入れる」ダンは、痩せた指で、自分のこめかみをこつ、と叩いた。「だから、まずは――お前に"考え方"を教えてやる。それだけが、この老いぼれがお前にやれる、たった一つのことだ」
シンは、暗がりの中で、その言葉を頭の隅に刻んだ。ゴミだと吐き捨てたばかりの自分の力のことを、ほんの少しだけ考えた。血を、数ミリ。……それが、嘘。当たり前の顔をした、嘘。
やがて、ダンが指を床から離した。
消えていた音が、いっせいに戻ってきた。魔石の唸り。遠い呻き。滴る水。あの細かな音の層が、何事もなかったように、また部屋を満たす。まるで、さっきの静寂など、最初からなかったかのように。
ダンは、また壁にもたれ、目を閉じた。その額に、うっすらと汗が滲んでいることに、シンは気づいた。あれだけのことをして、この老人は疲れている。……ただの結界に見えて、そうではないのかもしれない。ただで使える力ではないのかもしれない。それも、覚えておく。
シンは、横になった。
だが、もう眠れなかった。
奴隷はスキルを使えない――当たり前だと思っていたことが、たった今、目の前で覆された。ならば、ほかの"当たり前"は。血を数ミリ動かすだけの力はゴミだ、という、あれは。
――自分で、辿り着け。
シンは、暗い天井を見上げた。まだ、何もわからない。答えは遠い。掘り方も、掘る道具も、持っていない。
ただ、この白い地獄に、"聞かれない場所"と"覆せるかもしれない当たり前"が確かにあると知っただけで――胸の奥の石が、また少しだけ軽くなった気がした。
廊下の光がまた陰る。
その夜、シンは生まれて初めて、明日が来るのを、ほんの少しだけ待った。




