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第3話「逆らわない、を選ぶ」

 何日が過ぎたのか、シンにはもうわからなかった。


 窓のない白い施設では、朝は鉄を叩く音で来て、昼と夜の境目は、天井の魔石の光の濃さでしか測れない。それでもシンは、日を数えていた。採血の回数で数えた。針が肘の内側に沈むたび、頭の中で石を一つ積むように数を増やす。数えている限り、自分がまだここにいて、まだ生きていることだけは確かめられた。


 この数日で、シンはいくつかの決まりを覚えた。


 逆らわないこと。列では前だけを見ること。腹が減っても、配給のスープに文句を言わないこと。採血の台では、抜かれ終えるまで目を閉じていること。――どれもロルフに教わったか、自分で見て盗んだかの、生き延びるための作法だった。


 覚えたことは、まだ何の役にも立たない。ただ、覚えている間だけ、母の手のことを考えずにいられた。いまはそれで十分だった。


 その日は、配給の列でのことだった。


 昼――たぶん昼だ――に一度だけ、薄い金属の椀に汁が注がれる。魔獣の残渣だという、灰色がかった、饐えた匂いのする汁だ。奴隷たちは廊下に並び、大鍋を運んできた雑用係から一杯ずつ受け取る。看守が二人、列のわきに立って、それを見張っていた。


 その日の看守の一人が、悪かった。


 顔の赤い、大柄な男だった。息に酒の匂いが混じっていた。シンは、その匂いを覚えた。赤い顔。酒の匂い。右手の指で絶えず腿を叩く癖。――なぜ覚えたのかはわからない。ただ、いつもと違うものは覚えておくべきだと、頭のどこかが告げていた。


 列がロルフの番になったとき、その看守がふいに手を伸ばして、受け取ったばかりのロルフの椀を弾いた。


 灰色の汁が、白い床に飛び散る。


「こぼしたな」看守が言った。低い、面白がるような声だった。「床を汚しやがった。……舐めて掃除しろ」


 ロルフは動かなかった。こぼれた汁を見て、それから看守を見て、静かに首を垂れた。逆らわなかった。


 それが、気に入らなかったらしい。


 看守の拳が、ロルフの脇腹に沈んだ。ロルフの身体が折れ、膝が床につく。鈍い音。もう一発。今度は背中に。ロルフは声を上げなかった。ただ、床の汁の上に両手をついて耐えた。


 シンの身体が、勝手に動きかけた。


 一歩、前に出ていた。何をするつもりだったのか、自分でもわからない。ただ、目の前で人が殴られているのを黙って見ていることが、身体のどこかで許せなかった。母の手を思い出させる何かが、喉の奥までせり上がっていた。


 そのとき、ロルフが顔を上げた。


 殴られながら、床に手をついたまま、ロルフはシンだけを見た。切れた唇をわずかに引き結んで、目でシンを射抜いた。


 ――動くな。


 声はなかった。だが、その目ははっきりとそう言っていた。動くな。来るな。お前は、動くな。


 シンは、止まった。


 出しかけた足を、そっと引く。せり上がった熱いものを、無理やり喉の奥へ飲み下した。飲み下したそれが、胸の内側を焼いた。それでも、動かなかった。


 看守は、しばらくロルフを蹴りつけていたが、やがて飽きたように鼻を鳴らし、列の先へ歩いていった。


 それで、終わりだった。


 あとになって、シンは知る。もしあのとき自分が飛び出していたら、それで済む話ではなかったことを。この施設では、一人が逆らえば、その房の全員が連帯で罰を受ける。逆らった者を、仲間のほうが必死で押さえつけるように出来ている。誰も逆らわないのは、優しさではない。逆らえば道連れにされると、全員が知っているからだ。看守が一人ひとりを見張らずに済むのは、奴隷同士が奴隷を見張るように、この場所が組まれているからだった。


 房に戻ってから、ロルフはしばらく、壁にもたれて荒い息をついていた。脇腹を押さえた手が、小刻みに震えている。それでも、シンのほうを見て、いつものように、へへ、と力なく笑った。


「……悪かったな。見苦しいもん、見せちまった」


「なんで」シンは言った。声が掠れていた。「なんで、やり返さないんだ」


 シンが自分から口を開いたのは、久しぶりだった。飲み下した熱いものが、まだ胸で暴れていた。


 ロルフは、笑うのをやめた。


「やり返して、どうなる」ロルフは静かに言った。「おれがあいつを殴り返す。看守が十人来る。この房のみんなが、連帯で罰を受ける。爺さんも、お前もだ。……で、おれはたぶん、消える」


 シンは、口をつぐんだ。


「正義感ってのはな、ちび」ロルフは、痛みに顔をしかめながら、それでも言った。「力がない時に振り回すと、ただの自殺だ。……自分ひとりが死ぬだけじゃない。庇いたかった相手まで道連れにする」


 力がない時の正義感は、自殺だ。


 その言葉は、まだ六歳の胸に、冷たく、まっすぐ刺さった。理屈として呑み込めたわけではない。ただ、さっき自分が一歩踏み出したとき、ロルフの目が本気で怯えていたことと、その言葉が、頭の中で重なった。おれが動いていたら、ロルフは消えていた。庇おうとすることが、庇いたい相手を殺す。この世界では、そうなっている。


 ――ならば、どうすればいい。


 シンは、飲み下した熱いものの行き場を探した。怒りは消えなかった。消せなかった。だが、暴れさせれば、ロルフが消える。


 だからシンは、それを別の場所へ回すことにした。


 赤い顔。酒の匂い。右手で腿を叩く癖。列のどのあたりで、あの男の機嫌が悪くなるか。今日の看守は、列の後ろのほうへ来ると、決まって難癖をつけていた。前のほうでは、面倒がって手を出さない。――シンは、怒りをそういう数に変えた。感情のまま暴れる代わりに、相手をひたすら覚える。いつか使えるかもしれない数に変えて、頭の隅へ一つずつ積んでいく。


 怒りを、殺すのではない。殺さずに、観察に回す。


 それが、この日にシンが自分に課した、二つ目の決まりになった。逆らわない。そして――感じたものは、全部、覚えることに使う。


 部屋の奥で、ずっと黙っていたダンが、低く口を開いた。


 その声は、朝と同じように乾いていた。ダンは、シンを見てはいなかった。壁の一点を、落ちくぼんだ目でぼんやりと見ながら、独り言のように言った。


「……昔、な」


 シンは顔を上げた。


「昔、そうやって、飛び出しちまった男がいた」ダンは言った。「仲間が殴られてるのを、黙って見てられなかった。……で、飛び出した。結局、そいつは仲間を一人も守れなかった。それどころか、全部、失った。……全部だ」


 誰の話だ、とシンは思った。だが、聞けなかった。


 ダンの声の底には、笑いも、教訓めいた響きもなかった。ただ、古い、乾ききった何かがあった。それきり、ダンは何も言わなかった。また目を閉じ、壁にもたれ、老いた身体をぼろの中に沈めていく。


 シンは、その言葉の意味を、まだ知らない。


 ただ――「昔、そういう男がいた」とダンが言うとき、その"男"が誰のことなのか、六歳のシンにもなんとなくわかる気がした。


 その夜だった。


 消灯を告げる音が鳴り、魔石の光がいっそう暗く落とされた。房の中は、廊下から漏れるわずかな光だけになる。シンが冷たい床で膝を抱えていると、隣に横たわったロルフがそっと顔を寄せてきた。


 脇腹の痛みを堪えた、ごく小さな囁きだった。


「なあ、ちび。……ひとつ、教えといてやる」


 シンは、目だけを動かした。


「あの爺さんな」ロルフは、部屋の奥のダンのほうへちらりと目をやった。「ただ者じゃねえぞ。……今夜、寝たふりして、見てな」


 シンは、暗がりの中でダンの黒い影を見た。


 老人は、壁にもたれたまま動かない。眠っているように見える。ただの、痩せた、無害な老人に。


 ――見てな。


 シンは、目を閉じた。閉じたふりをして、まぶたの隙間から部屋の奥をうかがった。


 廊下の光がまた陰る。足音が遠ざかっていく。


 やがて、施設がしんと寝静まった。


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