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第2話「採血台」

朝は、音で来た。


 鐘ではなかった。金属の棒で鉄を二度叩くだけの、そっけない音だ。カン、カン、と廊下の遠くで鳴り、それが房から房へ、順に伝わっていく。カン、カン。カン、カン。近づいてくる。


 シンが目を開けたとき、ロルフはもう起きていた。壁にもたれ、痩せた両手を膝の上でゆるく組んでいる。その手首の内側に、黒っぽい痕がいくつも重なっているのに、シンは初めて気づいた。古い痣と、新しい痣。針の痕だ。


「起きろよ、ちび」ロルフが目だけを動かした。「今日から、お前もだ」


「……なにが」


「血ぃ抜かれる」ロルフは、なんでもないことのように言った。「毎朝な。ここじゃ、飯より先に血だ」


 シンは黙った。血、という言葉が母の手の記憶にわずかに触れて、胸の奥がまた石になりかけた。考えるな。シンは自分に言い聞かせた。考えるな、見ろ。


 部屋の隅で、老人――ダンは、まだ壁にもたれたまま目を閉じている。眠っているのか、そうでないのか、わからない。ただ、鉄を叩く音が近づいても、その呼吸は少しも乱れなかった。


 カン、カン。房の扉のすぐ外で音が止まった。


 重い鍵の音。扉が開く。


「三番房。出ろ」


 鎧の看守だった。ロルフが先に立ち上がり、シンを目で促した。ダンも、老いた身体をゆっくりと起こす。三人は廊下へ出た。


 廊下は、昨日と同じ白さだった。天井の魔石が青白い光を落とし、窓はどこにもない。左右の鉄扉から、痩せた影がひとつ、またひとつと引き出されてくる。誰も口を利かない。ただ、足を引きずる音と看守の足音だけが、白い廊下に反響していた。


 列にされ、歩かされる。


 シンは数えた。扉の数。看守の数。歩く速さ。看守は三人いて、先頭と最後尾と、真ん中に一人。真ん中の看守だけ、時々列の後ろを振り返る。ほかの二人は前しか見ない。――覚えておく。意味はわからない。わからないが、覚えておく。数えている間だけは、これから何が起こるかを考えずに済む。


 やがて、両開きの扉の前に着いた。


 扉の向こうは、広い部屋だった。


 白い部屋の中に、寝台のようなものが十いくつ、等間隔に並んでいる。ただの寝台ではない。革の帯が付いていた。手首と、足首と、胸を留めるための帯だ。台のわきには、細い管と、透明な瓶を載せた金具が立っている。瓶のいくつかは、もう赤かった。


 採血台、とロルフが小さく言った。


 白衣の男が二人、退屈そうに立っていた。昨日、額に黒い板をかざした男とは別の男たちだ。だが、目の色は同じだった。人を見ていない目だ。荷物の数を数える目だ。


「番号順。乗れ」


 列の先頭から、順に台へ乗せられていく。革の帯が締められ、腕がまくられ、管の先の針が内側の肘に沈む。瓶に、赤い糸が伝い落ちる。声を上げる者はいない。皆、慣れていた。慣れることを、覚えさせられていた。


 シンの三つ前に、痩せた男がいた。


 ほかの奴隷より、ずっと痩せていた。頬がこけ、腕は枯れ枝のようで、台に乗せられるとき、自分では動けず、看守に抱えられていた。針が刺さっても、その男は瞬きひとつしなかった。瓶に落ちる血は、ほかの者より薄く、少なかった。


 白衣の男が、瓶を軽く振って舌打ちした。


「こいつはもう出ないな。……札を替えとけ。区分を回す」


 もう一人が、男の台のわきに掛かった木札を、別の色の札に掛け替えた。それだけのことだった。誰も何も言わず、痩せた男は、抜かれ終えると、別の看守に運ばれて、来た扉とは違う扉から出ていった。ぐったりと、荷物のように。


 シンは、その扉を見た。


 左と右で扱いが違ったように、ここでも出ていく扉が違う。違う扉から出た者が、戻ってきた気配はない。――抜かれ続ければ、ああなる。そして、あの扉から出ていく。頭のどこかが冷たくそう告げた。まだ意味は結べない。ただ、事実だけをシンは胸の奥に置いた。


「乗れ」


 シンの番だった。


 台は冷たかった。背中に、石より冷たい革が触れる。手首を帯で留められると、身体が急に自分のものでなくなった気がして、喉の奥がひきつった。逃げたい、と本能が叫んだ。だがシンは、暴れた子がどうなるかをもう知っていた。だから動かなかった。指だけが、帯の下でわずかに震えていた。


「腕」


 肘の内側を、乱暴にまくられる。冷たい液が塗られ、そして、針が沈んだ。


 痛みは、思っていたより鋭くなかった。鋭くはないが、深かった。何か太いものが腕の奥をゆっくり這っていくような、いやな感覚。視界の端が白く滲む。瓶に赤い糸が伝い落ちるのが、遠くに見えた。


 抜かれている。自分の中の何かが、外へ出ていく。


 意識が、ふっと浮きかけた。天井の魔石の青が、ぐにゃりと歪む。耳の奥で、自分の心臓の音がやけに大きく響いていた。とく、とく、とく――その音が、少しずつ遠くなる。


 そのときだった。


 首筋の、黒い痣。


 いつからそこにあったのか、もう覚えていない。荷物になったときから、たぶんずっとあった。普段は熱いような、重いような、皮膚のすぐ下で何かが締めつけているような、そんな感覚が、いつも首筋に張りついている。慣れすぎて、忘れていた感覚。


 その締めつけが、血が抜かれていく間、ほんの一瞬――ゆるんだ。


 ほどけた、とまでは言えない。ただ、いつも張っている糸が、わずかにたわんだ。それだけだった。次の瞬間には、また元通りに締まっていた。


 シンはそれを、目眩のせいだと思った。


 血が足りなくなって、頭がぼんやりしただけだと。実際、そのすぐあとには、もう何も感じなかった。首筋はいつも通り重く、熱く、締めつけていた。だからシンは、それを忘れた。忘れたつもりになった。


 ――ただ、忘れきれなかった。


 なぜだかわからない。ほんの一瞬の、意味もないたわみ。それなのに、白い天井を見上げながら、シンの頭の隅で、その感覚だけが小さな棘のように引っかかって残った。数えることを覚えた子供の頭は、意味のわからないものを、勝手に一つ拾い上げていた。


「終わり。下ろせ」


 声で、我に返った。


 帯がはずされ、腕を押さえられ、台から下ろされる。立ち上がると、床が波打った。倒れかけたのを、後ろにいたロルフがそっと肩で支えた。


「立て。座り込むと、面倒なやつだと思われる」ロルフが小声で言った。「歩け。ゆっくりでいい」


 シンは歩いた。ゆっくり、ゆっくり。壁に手をつきそうになるのを堪えて、一歩ずつ。列に戻り、来た廊下を戻る。頭は重く、腕の内側がじくじくと痛んだ。それでも――生きて、台を下りた。


 その日の血は、抜かれ終えた。今日の分は、越えた。


 房へ戻され、鉄扉が閉まる。鍵の音。


 シンは壁際に座り込んだ。指先が冷たく、痺れていた。ロルフが、自分の寝床のぼろを少しだけシンのほうへ寄せてくれた。何も言わずに。


 どれくらいそうしていただろう。


 部屋の奥から、低い声がした。


 ダンだった。抜かれたばかりだというのに、その声は、朝と少しも変わらず静かで、乾いていた。落ちくぼんだ目が、壁に手をついて息を整えるシンをじっと見ている。


「小僧」ダンは言った。「一つ、聞く」


 シンは顔を上げた。


「なぜ、あいつらは、毎日おれたちの血を抜くと思う」


 シンは、口を開こうとして、開けなかった。


 わからなかった。研究のため、と誰かが言っていた気もする。だが、なぜ研究のために、人の血を毎朝、死なない程度に、いつまでも抜き続けるのか。あの痩せた男を、なぜ殺さず、別の扉へ運んでまで最後まで使うのか。――何一つ、わからなかった。


 シンが答えられずにいるのを見て、ダンは責めなかった。


 ただ、ほんの少し目を細めた。昨日と同じ、面白がるような目だった。


「いい」ダンは静かに言った。「答えられなくていい。……だが、その"なぜ"を捨てるな」


 そして、また目を閉じた。


 シンは、痺れた指をそっと握った。


 首筋の黒い痣は、もう、いつも通り重かった。あのたわみは、気のせいだ。きっと、気のせいだ。


 ――なのに、握った指の奥に、まだ、あの一瞬の軽さがかすかに残っている気がした。


 廊下の光がまた陰る。


 明日も、鉄を叩く音が房から房へ、順に近づいてくる。


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