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第1話「番号」

 鉄の匂いがした。


 血の匂いにも似ているのに、血ではない。もっと乾いて、もっと冷たい匂いだ。シンはその匂いで目を覚ました。


 狭い檻の中だった。木の車輪が石畳を踏むたびに、身体が右へ左へと揺れる。膝を抱えて座る子どもが、シンのほかに六人。誰も口を利かない。泣く者すらいない。泣いても意味がないと、もう全員が知っているからだ。


 シンは六歳だった。半年前まで、名前があった。村があった。母がいた。


 その全部を、一度の朝に失った。


 奴隷狩りは夜明けとともに来た。母はシンを藁の山へ押し込んで、「動くな」とだけ言った。それが最後の言葉だった。藁の隙間から見えたのは、母の背中と、それを追う男の影と、それきり動かなくなった母の手だった。


 あの手のことを考えると、胸の奥が石になる。だからシンは、考えるのをやめる訓練を、この半年で覚えた。


 考えるな。見ろ。


 誰かに教わったわけではない。ただ、泣いて暴れた子から順に、輸送の途中で檻から降ろされ、二度と戻ってこなかった。降ろされた子がどうなったのかは、わからない。わからないが、いいことでないのは六歳でもわかる。


 だからシンは泣かず、暴れず、ひたすら見た。檻の格子の数を数えた。車を引く馬の脚の運びを見た。御者が鞭を鳴らす間隔を測った。意味などなかった。ただ、数えている間だけは、母の手のことを忘れていられた。


 やがて車が止まった。


 格子の向こうに、白い建物があった。


 白すぎる建物だった。汚れひとつない白い石壁が、朝靄の中にぬっと立っている。周囲には木も草もなく、ただ白い壁と、灰色の空だけがあった。美しいはずのその白さが、シンにはひどく恐ろしく見えた。血の匂いのする檻より、この清潔な白のほうが、ずっと恐ろしい。


「降りろ」


 鎧を着た男が檻を開けた。子どもたちは押し出されるように地面に落ちる。シンも落ちた。膝を石で擦ったが、声は出さなかった。


 子どもたちは一列に並ばされた。前に立ったのは、鎧の男ではなかった。白い上着を着た、痩せた男だった。手に、黒い石の板のようなものを持っている。


「番号順に前へ」男は退屈そうに言った。「一人ずつだ」


 列の先頭の子が、震えながら前へ出た。


 白衣の男が、黒い板をその子の額にかざす。板の表面に、淡い光が走った。文字のようなものが浮かび、消える。男はそれを一瞥して、抑揚のない声で言った。


「【火起こし】。生活スキル。……右」


 鎧の男が、その子を右の扉のほうへ突き飛ばした。


 次の子。板がかざされる。光が走る。


「【水寄せ】。下級。右」


 次。


「――スキルなし。左」


 左、と言われた子は、なぜか鎧の男に少し丁寧に扱われた。乱暴に、ではなく、値のつく荷物を運ぶように。シンにはその違いの意味がわからなかった。わからなかったが、覚えた。左と右で、扱いが違う。それは覚えておくべきことだと、頭のどこかが告げていた。


 列が進む。右、右、左、右。


 シンの番が来た。


 黒い板が、額の前にかざされる。冷たい石の気配が、肌のすぐそばにあった。板の表面に光が走り、文字が浮かぶ。


 白衣の男の眉が、ほんのわずかに動いた。退屈が、一瞬だけ途切れた顔だった。


「……【血液操作】」


 男は板を近づけ、もう一度見た。そして、つまらなそうに口の端を下げた。


「下級。戦闘能力なし。血をわずかに動かすだけ。……はずれだな」


 はずれ。


 その言葉の意味を、シンはまだ知らない。ただ、男の声の温度が、それを口にした瞬間にすっと下がったのはわかった。値のつかない荷物を見る目に変わったのが、見てとれた。


「左」


 シンは左の扉へ送られた。


 扉の向こうは、長い廊下だった。白い壁がどこまでも続き、等間隔に鉄の扉が並んでいる。廊下には窓がなく、天井の魔石が青白い光を落としていた。昼なのか夜なのか、ここではもうわからない。


 シンは一室に放り込まれた。


 石の床。石の壁。奥に汚れた藁が敷いてある。それだけの部屋だった。鉄扉が背後で閉まり、鍵のかかる重い音がした。


 部屋には、先客がいた。


 一人は、老人だった。壁にもたれて座り、痩せた身体を毛布ともいえないぼろに包んでいる。落ちくぼんだ目が、入ってきたシンを静かに見た。それだけで、何も言わない。


 もう一人は、若い男だった。二十歳そこそこだろうか。骨と皮ばかりに痩せているが、目だけはまだ生きている。その男が、へへ、と力なく笑った。


「新入りか。ちいさいな。……座れよ、そこ。真ん中は冷える」


 シンは言われた場所――壁際に座った。従ったのは、素直だからではない。逆らう理由が、いまはなかったからだ。


 男はロルフと名乗った。


「ここのコツを教えてやる。ひとつだけだ。覚えとけ」男は指を一本立てた。「逆らうな。それだけだ。看守に逆らうな、規則に逆らうな、腹が減っても文句を言うな。逆らったやつから、消える」


「……消える?」


 シンが口を開いたのは、この建物に入って初めてだった。声が、自分でも驚くほど掠れていた。


「ああ。消える」ロルフは笑った。笑ったまま、目だけが笑っていなかった。「どこへ行くかは、聞くな。聞いても、誰も答えられねえ」


 シンは黙って頷いた。頷きながら、また数え始めていた。


 部屋の格子窓は、扉の上に一つ。廊下の光がそこから漏れてくる。その光が、一定の間隔で陰る。誰かが廊下を歩いているのだ。シンはその陰りを数えた。一、二、三……光が陰り、また明るくなる。しばらくして、また陰る。


 足音の間隔は、いつも同じだった。


 看守は、決まった時間に、決まった順路を歩いている。


 それに気づいたとき、シンの胸の石が、ほんの少しだけ軽くなった。理由はわからない。ただ、この白い地獄の中にも、"決まっていること"があるとわかっただけで、息が少しだけ楽になった。決まっていることは、覚えられる。覚えられることは、いつか使える。


 何に使えるのかは、わからない。それでも指は、廊下の陰りを数え続けた。


 どれくらいそうしていただろう。


 ふいに、部屋の奥から声がした。


 それまで一言も発しなかった老人だった。落ちくぼんだ目が、まっすぐシンを見ている。しわがれた、けれど妙に芯の通った声で、老人は言った。


「お前」


 シンは顔を上げた。


 老人は、値踏みするようにシンを見つめ、それから、ほんの少しだけ、面白がるように目を細めた。


「お前、目が死んでないな。……珍しい」


 その言葉の意味を、シンはやはり、まだ知らない。


 ただ――この白い地獄で自分に向けられた最初の言葉が、"はずれ"でも"番号"でもなく、それだったことを、シンは長く忘れなかった。


 廊下の光が、また陰る。


 足音が、近づいてくる。


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