第30話「漏れる」
揺り籠に落とされて、七年。また春が巡り、シンは十三歳になっていた。
搬入されたときの、膝を抱えた小さな子どもの面影は、もうない。背は伸び、声は低く沈み、腕には薄く筋が浮くようになった。だが相変わらず痩せて、青白い。毎朝抜かれ続ける身体は、それでも律儀に、少年から若者の入口へと変わっていた。
変わったのは、房の顔ぶれも同じだった。
この地獄の房は、誰かが死ぬたびに欠員を埋められる。弱った番号が藁の上から運び出され、その空いた寝床に、また新しい番号が入れられる。シンはこの数年で、そうして入れ替わっていく顔を、いくつも見送ってきた。名を覚える前に消えた者。ひと冬もたなかった者。……房は、常にゆっくりと入れ替わり続ける、生き死にの通り道だった。
だが、その通り道にも、消えずに残る者たちがいた。
腕にも背にも、古い裂傷と、不自然な瘤が走っている。かつて、抑えの利かない自分の力で、幾度も身体を壊してきたのだろう。だがいまは、その力も刻印に封じられ、ただの大きな奴隷として、黙々と血を抜かれている。傷だらけの大男。それでも、なぜか、いつも笑っている。……誰も寄せつけない、毒舌の少女。鋭い目で房の全員を値踏みするように見て、決して心を開かない。……壁際で膝を抱えて震えている、いちばん小さな子ども。狭い所を、ひどく恐れている。
そして、いちばん最近入れられた、おどおどした番号。物音のひとつひとつに肩をすくめ、絶えず周りを伺っている。まだ誰とも馴染まず、隅で膝を抱えている。房に来たのが誰より遅く、この地獄の呼吸に、まだ慣れていない。
……皆、額にハズレの烙印を刻まれた、シンと同じ番号たちだった。
シンは、彼らと口をきかなかった。
名を聞かない。目も合わせない。ただ、遠くから見ている。ロルフを失い、テオを失って、シンは学んでいた。近づけば、失う。心を預けた分だけ、消えたときに抉られる。もう、あの痛みは御免だった。だから、見るだけにする。誰とも繋がらない。房の顔ぶれが入れ替わっても、心だけは動かさない。……そう、決めていた。
繋がる代わりに、シンは掘り続けた。
自分の身体を。この三年近く、毎晩、頭の中の帳面を開いては、砂粒のような記録を積んできた。採血のゆるみ。戻る時の軽さ。刻印が血に応えること。……ばらばらだった無数の"なぜ"が、いま、一つの中心の周りに静かに並んでいた。
その中心にあるもの。
血が、作られること。
シンは暗い天井を見上げて、頭の中の帳面の、いちばん新しい頁を開いた。そこに、見えない字で、これまでの全てを貫く一行を、そっと書きつけた。
――血が"作られる時"だけ、何かが、漏れる。
まだ、その"何か"の名前を、シンは知らない。だが、掘るべき鉱脈のいちばん太い一本を、ついに言葉にした。三年近い空振りの果てに、たった一行。だがこの一行は、確かに、世界の裏側へ通じる入口だった。
そして、シンはもう一つのことにも気づき始めていた。
あの、刻印の締めつけ。血を動かすとかすかに揺れる、あの感覚。それがいちばんゆるむのは――血に"異常"が起きたときだ。もし、あの一瞬を自分で長く開いていられたら。この首の呪いの、少なくとも"スキルを封じる部分"だけは、外せるのではないか。……まだ届かない。血を数ミリ動かすのが精一杯の身体では、揺らすだけで手一杯だ。だが、その先の輪郭が、うっすらと見え始めていた。
十三歳の、その夜。
シンは初めて、一つの決意をした。
これまで、シンは"見る"者だった。観察し、記録し、並べて、待つ。感情を殺し、身を縮めて、ただ、地獄が通り過ぎるのをやり過ごす。それが、生き延びる作法だった。……だが、待っているだけでは、この一行は一行のまま終わる。眺めているだけの掘削は、いつまでも扉の前で止まったままだ。
ならば、働きかける。
自分の身体に。血が作られる、その時を、ただ見るのではなく、こちらから揺さぶってみる。何が起きるかは分からない。壊すかもしれない。だが、動かさなければ、何も変わらない。……見る、から、動かす、へ。受け身の観察は、今夜で終わりだ。
ここから、シンは自分の身体そのものを実験台にする。答えの名前は、まだ掴めていない。だが、掴みにいく。待つのではなく、抉じ開けにいく。その決意が、飢えた身体のいちばん奥で、静かに、しかし確かに燃えた。
――同じ頃、施設に、二つの風が吹き込んだ。
一つは、噂だった。王都から、若く優秀な隊長が、この施設の"監査"に来るらしい、と。看守たちが、いつになくそわそわしていた。外の、秩序の側の人間が、この地獄を覗きにくる。シンは、その名も顔も知らない。ただ、壁の外にある大きな世界の気配を、初めて遠くに感じた。
もう一つは、違和感だった。
実験で深く傷を負った奴隷に、教会の回復の魔道具が使われた。その効き目が、あまりに良すぎた。裂けた肉が、みるみる塞がっていく。……血と身体の関係を掴み始めたシンだけが、その効き方に、説明のつかない引っかかりを覚えた。あれは、ただの"治り"ではない。何か別の仕組みが、あそこにはある。……だが、それが何かは、まだ分からない。頭の隅の棚に、シンはその違和感を、そっとしまった。
その夜、サイレント・ルームの闇の中で、ダンが静かに言った。
「一行、書けたか」
シンが"漏れる"という一行を、指で宙になぞったのを、ダンは気配で察していた。
「……ああ」シンは言った。「まだ、名前は分からない。でも、あと少しだ。この"漏れ"の正体さえ、掴めれば」
ダンは、しばらく黙っていた。それから、落ちくぼんだ目を、暗がりの奥で静かに光らせた。
「掘り当てろ、小僧」ダンは低く言った。「お前が掘り当てるのは……たぶん、この世界が、千年隠してきた、いちばん深い"嘘"だ」
千年の、嘘。
その言葉の重さを、シンはまだ、本当には分かっていなかった。
だが、その春の夜、十三歳のシンは、確かに、その扉の前に立っていた。見るだけの子どもは、もう終わり。ここから、掘る者が動きだす。
――血が、作られる時。その名前を、掴みにいく。




