第28話「刻印は血に応える」
狙う時期が、決まった。
血が戻る時。作られる、その最中。……シンはその時期を待って、ある試みを始めた。
あの、数ミリの血いじりだった。
シンが自分の身体でできることは、それだけだった。血をほんの数ミリ。指先の皮膚のすぐ下で。ごく僅かにその流れを感じ、ごく僅かに動かす。それ以上はできない。傷を塞ぐこともできない。血の流れを大きく操ることもできない。ただ数ミリ。それがシンの身体の精一杯だった。何年掘っても、そこは一歩も動いていなかった。
これまでシンは、その数ミリをいつ試しても同じだと思っていた。
だが今度は、時期を選んだ。血がいちばん必死に作られている、その時期に。大量に抜かれた翌朝。身体が失った血を取り戻そうと、全力で働いている、その最中に。……そこで、あの数ミリの血いじりを試した。
すると、変化があった。
血を動かした、その瞬間。首の刻印。あのアザの締めつけ。いつもじわりと、身体を内側から縛っている、あの感覚が、かすかに揺れた。
シンは息を止めた。
もう一度、試した。血が戻る時期を狙って。数ミリ動かす。……また揺れた。刻印の締めつけが、血を動かした、その一瞬に確かに応えた。ほんのさざ波のように。だが確かに。気のせいではなかった。三度、四度と試しても、同じだった。
――刻印は。
シンの頭の中で、冷たい閃きが走った。
――刻印は、血の"異常"に応える。
血の流れをいつもと違うように動かす。ごく僅かに。すると刻印がそれを感じ取る。反応する。まるで身体の血の流れを、刻印が常に見張っているかのように。血が正しく流れているかを、絶えず確かめているかのように。そしてその流れに異常があれば、揺れる。反応する。
もしこの流れを、もっと大きく操れたら。刻印を揺らすだけでなく、もっと深く乱せたら。……この首の呪いに、手が届くのではないか。
だがそこで、シンは冷たい壁に突き当たった。
――何も、できない。
気づいても、何もできなかった。刻印を"揺らす"ことはできた。だが"どうにかする"には、まるで足りなかった。数ミリ動かすのが精一杯の、この身体では。刻印をさざ波程度に震わせるのが限界だった。それを断ち切ることも、ゆるめきることもできない。遠く、遠く及ばない。鍵穴の在り処は見えた。だが鍵は手の中にない。それどころか、鍵を回す指の力さえ、まるで足りない。
シンはその無力を噛みしめた。発見と無力とが、同時に来た。いつもそうだった。この地獄では、何かが見えるたびに、そのすぐ隣で、手が届かないことを思い知らされる。
それでもシンは、二つの発見を頭の中で並べた。
一つ。血が作られる時、力が漏れる。
もう一つ。刻印は、血に応える。
この二つは、繋がっている気がした。
どちらも"血"の話だった。血が作られる。血を動かす。その"血"というものの周りで、力が漏れ、刻印が応える。まるで血こそが、力と呪いと、その両方の鍵を握っているように。この身体を縛るすべての糸が、"血"という一点から伸びているように。
シンはその夜、ダンにその揺れのことを話した。刻印が血に応えたこと。血が戻る時期に、それがいちばんはっきり来ること。
ダンは闇の中で、長く黙っていた。
「……刻印が、血に応える、か」ダンはようやく、低く呟いた。その声にシンは、初めてダンの微かな動揺を聞いた気がした。だがダンはそれ以上、何も言わなかった。答えを持っていないからではなかった。むしろ何かを知っていて、それを言うまいと飲み込んだような沈黙だった。「……そうか。血に応えるか」
「爺さん。何か、知ってるのか」
「……いや」ダンは首を横に振った気配がした。「知らん。俺は掘り方しか知らん。……ただな、小僧。刻印ってのは、外から鎖で縛る呪いじゃない。……内側から、身体そのものに食い込んでる。血に応えるってことは、そういうことだ。それが何を意味するかは、お前が掘れ。俺の届かん、その先で」
シンはその言葉を飲み込んだ。ダンはまた、扉の前で止まっていた。だがその扉がどこにあるかは、指さしてくれた。
その夜、シンは闇の中で、そっと呟いた。
「この二つが、繋がったら」シンの声は掠れていた。「おれは、この首の呪いにすら、手が届くのか」
だがそれは、まだあまりに遠かった。
数ミリの身体。それがシンの現実だった。届くかもしれない、という予感だけが、闇の中に灯って消えなかった。手は届かない。今は届かない。だが、届く先がどこにあるかは、ようやく見え始めていた。それだけで、この夜は掘る意味があった。




