第26話「間に合わない」
それから、すべてが速かった。
シンが次にテオの評価欄を確かめたとき、回送候補の印は戻っていた。前より濃く。そしてその横に、新しい書き込みがあった。若い研究員の筆跡だった。「演技による持ち直しの可能性。至急、再評価」。
シンの演じが、そのままテオを追い詰める材料になっていた。
シンは動いた。持てる知恵のすべてを使って。
だが、動くたびにその先が塞がれていた。
シンが台帳の穴を突こうとすると、その穴はもう埋められていた。シンが別の看守を使おうとすると、その看守はもうこの件から外されていた。シンが次に打とうとする手を、あの男は先に読んで塞いでいた。まるでシンの頭の中の、次の一手を覗いているように。一手打つ。塞がれている。別の手を考える。それも塞がれている。……盤の上でシンの指が行こうとする、そのすべてのマス目に、先に石が置かれていた。
シンは初めて思い知った。
この男は、シンが"どう考えるか"を読んでいる。シンがテオを救うために、次にどの数字をどう動かすか。その思考の型そのものを、先回りして潰しにくる。数字を演じるという、シンの戦い方がまるごと読まれていた。シンの頭の形が、この男には見えていた。
――間に合わない。
その言葉が、シンの頭の中で冷たく響いた。認めたくない言葉だった。だが盤面は、そう言っていた。
シンはロルフのときより、ずっと有能になっていた。台帳を読めた。数字を演じられた。自分の運命さえ動かせた。……なのに。
その有能さこそが、読まれていた。
テオが連れて行かれたのは、灰色の朝だった。
いつもの点呼の列から、テオの番号が呼ばれた。二人の看守が、テオの両脇に立った。テオは抵抗しなかった。この施設で抵抗が何も生まないことを、テオも知っていた。ただ連れて行かれる、その一瞬、テオは首をわずかに巡らせた。
シンを見た。
その目に恨みはなかった。責める色もなかった。ただ、シンのいつか答えられなかった問いの、その続きを待つような。「いつか、ここ、出られると思うか」。あの問いの光だけが、そこにあった。まだその答えを聞いていない、という光が。
シンは動けなかった。
列の中でうつむき、数字を演じる従順な奴隷のまま。動けば自分も終わる。動いても、もう間に合わない。……理性がそう告げていた。シンはその理性に従った。従うしかなかった。膝が震えた。だが、一歩も踏み出さなかった。
テオの背中が、あの別の扉の向こうへ消えた。
戻らない扉だった。ロルフが消えたのと同じ。二人目だった。この白い地獄で、シンがその光を覚えた者が消えたのは。
その夜、サイレント・ルームの闇の中で、シンは立ち尽くさなかった。泣きもしなかった。涙は出なかった。ただ頭の中の帳面を開いた。そしてテオのデータを、最後まで書き取った。
テオが最後にどれだけ抜かれたか。その翌朝、どう戻ろうとしたか。テオが囁いて渡してくれた、"もう一つの身体"の最後の記録を。一つもこぼさず。冷たく。正確に。それが、いまシンにできるたった一つのことだった。
だが、その記録を刻むシンの手は、震えていた。
冷たく、正確に書き取ろうとする、その指が。止まらない震えで、心の在り処を告げていた。頭は氷のように動いている。だがその下で、何かが砕けていた。
闇の中で、ダンがぽつりと言った。
「……お前は、賢くなった」ダンの声は、いつもより低かった。「賢くなった分だけ、読まれた」
シンは答えなかった。ただ震える手を握りしめた。
「憶えとけ、小僧」ダンは言った。「賢さは、隠せなきゃ刃にならん。抜き身のまま振り回せば、まず、こっちの喉を切る。切れる刃ほどそうだ。……今日、お前が切ったのは」
ダンはそこで言葉を切った。
言わなかったその先を、シンは自分で飲み込んだ。今日、おれの賢さが切ったのは。テオの喉だ。おれが賢く動いたから。その賢さを隠せなかったから。読まれて、逆手に取られた。おれの手がテオを、あの扉の向こうへ押した。
シンはその夜、一つ深く学んだ。
力は、賢さは、それだけでは足りない。それを隠せなければ。読まれない場所に置けなければ。振るう時と隠す時を選べなければ。誰の目にも賢く見える者は、いちばん先に狙われる。……賢さは、剥き出しのままでは、自分の大事なものを殺す刃に変わる。
その痛みは、ロルフのときとは別の種類だった。あの時は無力だった。何も持っていなかった。今度は有能だった。持っていた。持っていて、なお救えなかった。むしろ、持っていたものが殺した。……その方が、ずっと深く抉れた。
――憶えておく。
シンは震える手を止めるように、拳を握った。テオの最後の記録の上で。
いつか、この賢さを隠せる場所を作る。読まれない戦い方を覚える。表に立つ者と、裏で頭を回す者を分ける。……そのために、まず掘る。この掘りかけの鉱脈を。テオが遺してくれた、"もう一つの身体"の記録を無駄にしないために。それが、いまシンにできるたった一つの弔いだった。




