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第25話「読まれる」

テオの評価が、下がり始めた。


 シンがそれに気づいたのは、台帳の雑用の最中だった。番号を数え、評価欄を書き写す、あの作業。かつて自分の回送を遅らせるために、隅々まで覚えた、あの数字の海。その中にテオの番号があった。そしてその評価欄の隣に、見覚えのある印が付き始めていた。


 ――回送候補の印だ。


 シンの指が止まった。


 テオが、危険区分への回送候補に挙がっている。ロルフが送られた、あの先へ。戻らない、あの扉の向こうへ。心臓が嫌な鳴り方をした。


 シンは迷わなかった。


 あの手があった。第十七話で、自分に使ったあの手が。数字を演じる。使い勝手のいい個体に見せる。採血の出を演出し、雑用で役に立つ番号だと思わせる。評価欄の更新の穴を突く。……看守にも白衣にも逆らわず、疑われず、ただ"まだ使える"と思わせ続ける。


 自分の運命を一度、動かした手だ。テオのためにも動かせるはずだった。今度はロルフの時とは違う。無力な子どもではない。台帳を読み、数字を操れる自分がいる。


 シンは動いた。


 テオに囁いて、"演じ方"を教えた。採血のとき、少しだけ良い血を出しているように見せろ。前の日から水を多めに飲んでおけ。雑用を頼まれたら断るな。だが、こなしすぎるな。使える、が目立たない。その細い線を歩け。……テオは飲み込みが早かった。もともと観察する目を持った少年だ。演じることも、すぐに覚えた。


 その数日は、緊張の連続だった。シンは台帳の雑用のたびに、テオの評価欄をそっと確かめた。数字が少しずつ、良い方へ動いていく。採血の量に対して、テオの血の質が"持ち直している"と記録が語り始める。看守の一人がテオを「使える番号だ」と別の看守にこぼすのを、シンは聞いた。狙い通りだった。


 テオも変わっていった。


 演じることに慣れると、テオの目にあの光が戻ってきた。「出られると思うか」と囁いた、あの夜の光が。生きられるかもしれない、という細い光。点呼を待つ闇の中で、テオはシンに囁いた。「……お前の言う通りにしたら、看守の目が変わった。おれを見る目が」テオの囁きは弾んでいた。「なあ、シン。……頭を使えば、本当に変えられるんだな。ここでも」


 シンは答えなかった。だが胸の奥が、久しぶりに温かかった。ロルフを救えなかった。だがテオは。今度こそ。


 その温かさが、油断だった。


 数日で、テオの評価欄の回送候補の印が、いったん薄くなった。


 ――効いた。


 シンは胸の奥で、小さく拳を握った。間に合った。ロルフの時とは違う。今度は動かせた。テオをあの扉の手前で押し留めた。この頭を使えば、まだ救えるものがある。


 だがシンは、一つ見落としていた。


 あの若い研究員のことを。


 数字の裏を読む男。人の"型"を読む男。……その男が、テオの評価欄の不自然な持ち直しを見逃すはずがなかった。痩せていくはずの身体が、急に良い血を出す。その不自然を。


 シンがそれに気づいたのは、また台帳の前でだった。


 研究員がシンのすぐ後ろに立っていた。いつからそこにいたのか。気配を殺して。シンがテオの評価欄を確かめる、その手元をじっと見下ろしていた。


 シンは凍りついた。だが顔には出さなかった。ただの雑用の、番号を数える退屈な奴隷の顔。そう演じた。心臓の音まで隠すように。


 研究員は何も言わなかった。ただ、手にした帳面に視線を落とした。そしてシンにも見えるように、わざと見せつけるように、帳面に一本、線を引いた。


 その線は、テオの番号の隣ではなかった。


 もっと別の場所。台帳の余白。そこに男は、新しい括りを書いた。シンには逆さまだったが読めた。長くこの台帳を見てきた目には、逆さの字でも読めた。


 ――"評価が、不自然に持ち直した個体"。


 男はテオの番号を、その括りの下に書き加えた。それからその二つ上に、もう一つ番号を書いた。


 シンの番号だった。


 男は帳面を閉じた。そして初めて口を開いた。声は若く、静かで、少しの好奇心が滲んでいた。まるで、珍しい虫でも見つけたような。


「……面白い番号だな。お前は」


 それだけ言って、男は去った。足音も立てずに。


 シンは台帳の前に立ち尽くした。心臓が冷たく、速く鳴っていた。


 演じることで、テオを救おうとした。だが、その"演じ"そのものが、この男には見えていた。かつて自分の回送を遅らせたときと、同じ手。同じ癖。……男はその癖を読んでいた。シンのいちばんの武器を。武器の形を、覚えられた。


 賢さは、隠せなければ読まれる。読まれた瞬間、それは武器ではなくなる。……尻尾になる。同じ手を二度使えば、それは署名と同じだった。ここにあの賢い奴隷がいる、という署名。


 シンは初めて、自分の"賢さ"がテオを危うくしているのではないかと、震えた。


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