第24話「予測する男」
その研究員は、ある日から施設の廊下に、目立つようになった。
若い男だった。白衣の裾がまだ真新しい。ほかの白衣たちのように奴隷を番号としてすら見ない、その冷たさとは少し違った。この男は、見ていた。奴隷を。まるでシンやテオが周りを観察するのと、同じ目で。
シンはすぐに警戒した。
白衣が奴隷を"見る"。それはこの地獄では異質なことだった。ほかの研究員は、鑑定の数字と採血の量しか見ない。個体が何を考え、次に何をするか、などということには一切、関心がない。数字がすべてだった。奴隷は血を出す器でしかなかった。器の気持ちなど、誰も覗かない。
だが、この若い男は違った。
シンは幾日か、その男を遠くから観察した。男が何を見ているのか。そして気づいた。
男は、記録を読んでいた。
ただの採血記録ではない。誰と誰がいつも近くにいるか。どの個体がいつ、どう動いたか。過去の記録の中から、"型"を読み取っていた。この番号はこういう時にこう動く。この二つの番号はつるみ始めている。次に何が起きるか。……男はそれを当てにいっていた。まだ起きていないことを。人の、次の一手を。
――数字じゃ、ない。
シンの背に、冷たいものが走った。
これまでシンが相手にしてきた敵は、鑑定の数字を絶対視する連中だった。額の印。首の番号。台帳の評価欄。すべては数字だった。だからシンは数字を演じることで、彼らを欺けた。数字の側から動けた。台帳の穴を突けた。数字しか見ない敵は、数字を操られていることに気づかない。それがシンの、生き延びる術の根っこだった。
だが、この男は数字の裏を読む。
人がどう動くか。なぜ動くか。……数字には現れない、その"人の動き"を読もうとしている。
シンは思い出した。あの脱走を。第一章のあの夜。観察の地図でも読めなかった、たった一つの変数。人間の裏切り。密告。……人の心は、地図に描けない。あの時、シンが初めて突きつけられた限界。頭の中の地図がどれだけ精巧でも、人の心の動きだけは、そこに描けなかった。
この男は、その"地図に描けないもの"を描こうとしている。
「……厄介だ」
シンはテオに囁いた。点呼を待つ闇の中で。
「あの新しい白衣。……数字を見てない。おれたちの"動き"を見てる。誰と誰がつるんでるか。次に何をするか。……あいつの前では、いつも通りに動くな。型を読まれる」
テオは怪訝そうに囁き返した。
「型?」
「癖だ。……人には癖がある。同じ状況で、同じように動く。腹が減れば同じ場所を探す。怯えれば同じ奴の陰に隠れる。おれにも、お前にもある」シンは言った。「あいつはその癖を集めてる。集めて、次を当てにくる。……だから時々、崩せ。いつもと違う動きを混ぜろ。読ませるな。規則正しい奴が、いちばん読まれる」
テオはしばらく黙って、それから小さく頷いた。理屈は分かった、という頷きだった。だがその目には、まだ実感の薄さがあった。読まれるということの本当の恐ろしさを、テオはまだ知らなかった。シンも、この時はまだ頭でしか知らなかった。
その夜、サイレント・ルームの闇の中で、シンはダンにその男のことを話した。
「新しい白衣がいる」シンは囁いた。「……そいつは数字を見てない。おれたちの動きを見て、次を当ててくる。……こういう敵は初めてだ。どうやり過ごせばいい」
ダンはしばらく黙っていた。それから低く言った。
「……いちばん厄介なやつだ」ダンの声には、警戒が滲んでいた。「数字しか見ん奴は、数字を演じれば騙せる。だが動きを読む奴は、その"演じ"まで動きとして読む。お前が賢く立ち回れば立ち回るほど、その立ち回りの癖を覚えられる。賢さがそのまま、目印になる」
シンの背が冷えた。
「じゃあ、どうすれば」
「二つある」ダンは、指を闇の中で立てた気配がした。「一つ。癖を崩す。時々わざと、馬鹿な動きを混ぜる。読み手を迷わせる。……だがこれは、その場しのぎだ。ずっとはもたん」ダンは間を置いた。「もう一つ。……いちばん賢い者が、いちばん間抜けに見えるように振る舞う。頭をいちばん深くに隠す。表に立つのは別の顔だ。……だがそれは、今のお前にはまだできん。表に立たせる、別の顔がない。お前は独りだからな」
シンはその言葉を胸に刻んだ。頭を隠す。別の顔を立てる。……今はできない。だが、いつか。
「今は」ダンは言った。「……目立つな。それだけだ。あの男の帳面に載る回数を、一回でも減らせ。載らん者は読まれん」
言いながら、シンは自分の内側に、冷たい緊張が張るのを感じた。
初めての、"同じ土俵"の敵だった。
これまでの敵はシンより上の高さから、数字だけで奴隷を切り分けていた。シンはその足元の、数字の泥の中を這って掻い潜ってきた。相手は下を見ていなかった。だがこの男は、シンと同じ地面に立っている。観察し、記録し、次を読む。シンがしてきたことを、敵の側からしてくる。頭の使い方が同じ種類だった。だからこそ、恐ろしかった。
シンの武器は、観察と台帳と演技だった。だがその武器は、"読まれなければ"武器だった。読まれた瞬間、それはシンの尻尾に変わる。追う者の目印に変わる。
――隠せ。おれの、賢さを。
シンは初めて、そう思った。これまでは賢さを静かに使ってきた。だが"隠す"とまでは考えていなかった。むしろ賢く動けることが、シンのひそかな誇りだった。この男の登場で初めて、シンは自分の賢さそのものが、危険になりうると感じた。切れる刃ほど、鞘に収めておかねばならない。
その予感は、遠からずいちばん痛い形で現実になる。
ある日の点呼の時だった。
若い研究員が帳面を手に、列の前をゆっくりと歩いていた。その視線が列をなぞっていく。番号を確かめるように。……いや、番号ではない。何か別のものを数えるように。誰と誰のあいだの、目に見えない糸を確かめるように。
その視線が、ふ、と止まった。
シンとテオの、二人の上で。
男は何も言わなかった。ただ、二人の間を視線がす、と通り過ぎた。まるで二つの点を線で結ぶように。二つの番号が"繋がっている"ことを確かめるように。
そして男は帳面に目を落とした。何かを書き込んだ。ほんの一筆。
シンはうつむいたまま、その一瞬を見ていた。心臓が冷たく鳴った。
――見られた。
テオと、自分が繋がっていることを。あの男はもう、数え始めている。二つの番号のあいだに引かれた、見えない糸を。




