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第23話「テオ」

その少年にシンが気づいたのは、配給の列の中でだった。


 列の二つ前。痩せた背中の少年だった。歳はシンより、一つか二つ上に見えた。首の番号はシンとそう遠くない。つまり搬入された時期が近い。額に刻まれた鑑定の結果も、シンと同じ低い区分の印だった。ハズレの印。


 シンがその少年に目を留めたのは、額の印のせいではなかった。


 少年の目のせいだった。


 列に並びながら、その少年は周りを見ていた。看守の位置。椀の中身。誰がどれだけ弱っているか。誰の足取りが昨日より重いか。……観察していた。感情を殺し、気配を消して、ただ見ている。それはシンが自分に課してきたのと、同じ目の使い方だった。


 ――こいつも、見てる。


 この地獄で周りを"見る"者は少ない。多くはうつむき、耐え、ただその日をやり過ごす。見ることは力を使う。飢えた身体には、その余力すら惜しい。それでも見ることをやめない者。それはまだ、諦めていない者だった。この施設の中で、自分の頭を殺していない、数少ない者。……シンはその少年に、奇妙な近さを感じた。


 二人が言葉を交わすようになったのは、それからしばらく後だった。


 夜の作業のあと、番号を壁際に並ばされて点呼を待つ、その僅かな時間。看守の目が列の反対の端に向いた一瞬。少年が口をほとんど動かさずに囁いた。


「……七番の椀、今日、多かった」


 シンは前を向いたまま答えた。同じように、唇をほとんど動かさずに。


「知ってる。三日続いてる。……あいつは"上げられてる"」


 少年の目がちらと動いた。驚きと、それから、面白がるような光。


「上げられてる?」


「配給をわざと良くされてる。次の大きい採血の前だ」シンは言った。「太らせてから抜く。痩せた身体からは良い血が出ん。だからいっとき、餌を増やす。……ここのやり方だ」


 少年はしばらく黙った。それからまた囁いた。


「……お前、面白いな」


 それが、テオという名の少年との始まりだった。名を教え合うことすら、この施設では禁じられていた。番号しかない。それでも二人は、看守に悟られぬ小声で名を交換した。テオ。シン。……奪われた、人間の名前を。番号ではない名を呼び合うことは、それだけで小さな反逆だった。


 その日から、二人は静かに情報を交換し始めた。


 誰がどれだけ抜かれたか。誰の椀が上げられ、誰の椀が減らされたか。どの番号が動けなくなってきたか。看守の巡回の、その日の癖。……一人では見きれないものを、二つの目で見る。テオの見たものがシンの棚に加わる。シンの見たものがテオに渡る。二つの観察が重なると、施設の姿がこれまでより、はっきりと像を結んだ。


 だがシンにとって、テオが本当に大きかったのは、別の理由だった。


 テオは、シンには決して見られないものを見せてくれた。


 他人の身体の、"戻り方"を。


 シンが観察できるのは、自分の身体だけだった。自分がどれだけ抜かれ、翌朝どれだけ戻るか。それは掘れる。だが他人の身体がどう戻るかは、外からは分からない。ふらついているかどうかは見えても、その内側で何が起きているかは覗けない。血がどう戻っているのか。シンには、他人の身体は閉じた箱だった。


 テオはその"もう一つの身体"を、言葉にして渡してくれた。


「昨日、大きく抜かれた」ある夜、テオは囁いた。「今朝は立てなかった。目の前が白くて。……昼を過ぎて、やっと動けた。夜には、もうけろっとしてる。不思議だよな。あんなに空だったのに」


 シンはその言葉を、自分の身体の記録と並べた。


 自分は大きく抜かれた翌朝、どうだったか。テオはどうか。似ているところ。違うところ。戻る、その速さ。戻る、その順番。……初めて記録に、"比較対象"が生まれた。一つの点では線は引けない。だが二つの点があれば、そこに線の影が見え始める。二つの身体が同じように動けば、それは偶然ではない。身体の法則かもしれない。


 観察の解像度が上がった。


 そしてシンは気づいた。ロルフを失って以来、自分の中で固く閉じていた何かが、テオと囁きを交わすたびに、ほんの少しずつ開いていくのを。誰かと同じものを見る。それがこれほど身体を温めるものだと、シンは忘れていた。


 ある夜、点呼を待つ闇の中で、テオがふいに言った。


「なあ」テオの囁きは、いつもより少し幼かった。「お前、頭いいな。……本当に。おれなんかより、ずっと。おれは見るだけで精一杯だ。でもお前は、見て、その先を考えてる」


 シンは答えなかった。


「なあ、シン」テオは続けた。その声にシンは、覚えのある光を聞いた。ロルフがいつか向けてくれた、あの光を。「……いつか、ここ、出られると思うか?」


 シンの喉が詰まった。


 出る。……その言葉を、シンは自分の中では幾度も噛んできた。無力では終わらせない。おれは化ける。だがそれはいつも、自分の胸の内だけの言葉だった。誰にも言ったことはなかった。声にすれば壊れそうな、危うい火だった。


 初めて、他人の口からその言葉を聞いた。


「……分からない」シンは正直に答えた。囁きは掠れた。「分からない。……でも」


 でも、の先を、シンは言えなかった。


 言えば、それは約束になる。ロルフにできなかった約束に。「その頭、いつか、俺たちを助けてくれよ」。あの言葉にシンは頷けなかった。頷く前に、ロルフは消えた。……同じ約束をまたするのが、怖かった。シンはその言葉を、闇の中に飲み込んだ。


 テオはそれ以上、聞かなかった。ただ闇の中で、小さく笑った気配がした。責める色はなかった。


 ――出る、という言葉が、シンの頭の中の新しい棚に、そっとしまわれた。まだどこにも繋がらない、一つの言葉として。だがその言葉は、他人の声をまとっていた。自分だけの火では、なくなっていた。



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