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第21話「変数」

最初の仮説は、単純なものだった。


 ――多く抜かれた翌日ほど、ふらつく。


 これは掘るまでもなく、身体がとっくに知っていた。血をいつもより多く抜かれた朝は、立ち上がると視界の隅が白く滲む。廊下を歩けば、足が遠くにあるように頼りない。逆に抜かれる量が少なかった翌朝は、その滲みが薄い。誰でも身をもって感じることだ。


 だがシンが掘りたかったのは、その先だった。


 ――なら、そのふらつきは消せるのか。


 もしふらつきの正体が、抜かれて減った血の"戻り"の遅さにあるのなら。戻りを早めてやれば、ふらつきは減るはずだ。そして戻りを早めるものがあるとすれば、食う物しか思いつかなかった。空になった身体に何かを入れてやれば、それが血に変わる。子どもなりの、素朴な理屈だった。


 シンはダンの教えを思い出した。


 ――変えるのは、一つだけ。


 だから、その一つを食う量に決めた。ほかはすべて昨日と同じにする。寝る長さも、採血の受け方も、身体の動かし方も。変えるのは、口に入れる残渣スープの量だけ。


 問題は、その量をどうやって増やすかだった。


 配給は番号ごとに決まっている。多く盛れと言えば、看守の記憶に残る。だからシンは、隣の弱った番号が饐えたスープを半分も残すのを待った。看守が背を向けた一瞬、その残りを自分の椀にそっと移す。数日それを続けて、いつもの一・五倍を腹に入れた。ほかは何も変えていない。


 そうして迎えた翌朝。


 シンは慎重に立ち上がった。頭の中の身体の棚に、その日の"翌朝のふらつき"を書き込むために。


 ……軽い気がした。


 昨日より視界の滲みが薄い。足がいつもより近い。


 ――効いた。


 胸の奥で、小さな火が点った。仮説が当たった。食えば戻りが早まる。ふらつきが減る。ならば"血が戻る"のは、食った物が血に変わるからだ。掘るべき場所のいちばん浅いところに、鍬が当たった気がした。


 シンはその手応えを確かめたかった。だから翌日も、同じことをした。前日とまったく同じだけ余分に食う。ほかは同じ。同じ結果がもう一度出れば、それはまぐれではない。


 だが翌朝、身体はシンを裏切った。


 同じだけ食ったはずなのに、ふらつきは消えなかった。それどころか、前々日よりも視界が白く滲んだ。足が遠い。同じことをしたのに。


 シンは暗い天井を見上げて、動けなかった。


 ――なぜだ。


 同じ量を食った。ほかは変えていない。条件は揃えたはずだ。それなのに結果が違う。当たったはずの仮説が、二日目で崩れた。


 シンはその日から、しつこく食う量を動かし続けた。多くした日。少なくした日。まったく食わなかった日。一つずつ変える。ほかは変えない。ダンの言うとおりに。棚を分けてしまう。あとで並べて見比べる。


 だが並べても、何も見えなかった。


 多く食った翌朝、軽い日もあれば、重い日もあった。ほとんど食わなかった翌朝、動けないほど重い日もあれば、なぜかけろりと立てる日もあった。食う量と、翌朝のふらつき。二つの棚をいくら並べても、そこにまっすぐな線は引けなかった。点はばらばらに散っていた。


 シンは狙いを変えた。


 食う物で駄目なら、眠る長さはどうだ。長く眠った翌朝と、短く眠った翌朝で、あの"軽さ"の出方は変わるか。あの採血の一瞬、首の刻印がふっとゆるむ、あの感覚。もしそれが身体の戻りと繋がっているなら、よく眠って身体が満ちた朝の採血は、あの軽さが強く出るかもしれない。


 シンは眠りを削った。夜、サイレント・ルームの闇の中で、わざと目を開けていた。翌日の採血で、あの軽さを探る。次の夜は逆に、疲れ果てて深く眠ってから採血に臨む。


 ――違いがあるはずだ。


 だが、あの軽さは気まぐれだった。よく眠った朝にはっきり感じられる日もあれば、まるでなかったように素通りする日もあった。ろくに眠れなかった朝に限って、指先が妙に冴える日さえあった。眠りの棚と、軽さの棚。並べても、また点は散った。


 仮説が片端から外れていった。


 食えば戻る、は外れた。眠れば軽い、も外れた。多く抜かれた翌日ほど重い、といういちばん確からしい最初の一本さえ、よく見れば例外だらけだった。多く抜かれても平気な朝がある。少ししか抜かれていないのに動けない朝がある。


 ――何もかも、ばらつく。


 同じことをしているのに。同じだけ食い、同じだけ眠り、同じように抜かれても、日によって身体は違う顔を見せる。まるでシンの知らないところで、誰かが勝手に盤面を動かしているように。


 焦りが喉元まで上がってきた。


 掘れと言われて、鍬を握った。掘る場所も決めた。教わったとおりに、一つずつ条件を変えて試した。それなのに答えは遠ざかるばかりだった。むしろ掘れば掘るほど、分からないことが増えていく。当たったと思った浅い層は、二日で崩れ落ちた。


 シンは頭の中の帳面をめくった。


 そこには外れた仮説が、いくつも並んでいた。"食えば戻る――外れ"。"眠れば軽い――外れ"。外れ。外れ。外れ。並べれば、外れの山だ。


 ――消してしまおうか。


 一瞬、そう思った。当たらなかったものをいつまでも抱えていて、何になる。見るたびに、自分の空振りを突きつけられるだけだ。


 だが、その手をシンは止めた。


 ――外れても、消すな。


 ダンのあの声が、闇の底から聞こえた気がした。外れたということも、立派な答えの一つだ。"これは違う"と分かった。それは正解に一歩近づいたということだ。……そう、あの老人は言った。


 シンは消さなかった。


 外れた仮説の一つ一つに、頭の中でそっと印をつけた。"食う量だけでは決まらない"。"眠りだけでは決まらない"。消すのではなく、そう書き足した。外れの山を崩さずに、積み直した。


 積み直しながら、シンはひとつのことに気づいた。


 外れた仮説には、共通点があった。どれもシンが"これで決まる"と、たった一つの原因に賭けた仮説だった。食う量で決まる。眠りで決まる。一つを動かせば答えが出ると、思い込んでいた。


 だが身体は、そう答えなかった。一つを揃えたつもりでも、結果は散った。


 ――ということは。


 シンの背筋を、冷たいものがゆっくりと這い上がった。それは恐れではなかった。むしろ暗がりの中で、一つだけ形の見えかけた輪郭だった。


 揃えたはずの条件が、揃っていない。自分では一つしか動かしていないつもりで、その裏でもう一つ、いや、いくつか、勝手に動いているものがある。自分がまだ名前をつけられていないもの。棚にすら分けられていないもの。それが結果を散らしている。


 シンは暗い天井に目を凝らした。


「合ってるはずなのに、合わない」シンは低く、自分に言い聞かせるように呟いた。「……食う量でも、眠りでもない。両方揃えても散る。ということは――おれは、まだ」


 言葉が途中で止まった。


 それからシンは、その先をはっきりと口にした。誰にも聞こえない闇の中で。それでも確かに、自分の耳に刻みつけるように。


「――何かの変数を、見落としてる」


 その一言は答えではなかった。むしろ、これまででいちばん深い問いだった。


 だがシンは知っていた。掘る場所を間違えていたのではない。掘り方が、まだ粗いのだ。動かしているつもりの一本の裏で、見えない何本かが絡み合って、身体を揺らしている。その見えない何本かに、一つずつ名前をつけていく。棚を増やす。もっと細かく。もっとしつこく。


 外れの山は崩さない。積んだまま、その隣に新しい鍬を入れる。


 十一歳の春が、いつのまにか夏の匂いに変わりつつあった。窓のない地獄の中で、季節だけがシンの空振りを、静かに数えていた。


 それでもシンは、やめなかった。


 見落とした変数の名を探して。砂粒をまた一つ、闇の帳面に積んだ。


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