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第20話「五年目の春」

白い地獄にも、季節はあった。


 窓のない施設の中で、外の春を直接見ることはできない。それでもシンには、分かった。採血のあと、身体の戻りがほんの少し早くなる。配給の残渣スープの、饐えた匂いがわずかに強くなる。廊下を渡る空気から、冷たさの棘が抜ける。……そうした小さな徴のひとつひとつを、シンはこの地獄で、もう幾度も数えてきた。


 また、春が巡っていた。


 シンは十一歳。揺り籠に落とされて、五年が過ぎていた。搬入されたときより、背が指四本ぶんは伸びた。腕は相変わらず細いが、骨は少しだけ太くなった気がする。声も、以前より低い。子どもの身体が、ゆっくりと別のものへ変わりつつあった。


 だが、変わったのは身体だけではなかった。


 ――掘れ。お前自身を。


 冬の終わりにダンに言われた、その一言。それがシンの中で、消えずに燃え続けていた。生き延びる作法は、もう身についた。逆らわず、数字を演じ、観察する。時間を稼ぐ。……だが、それだけでは、いつか演じる余地を失って消える。ロルフのように。生き延びるだけでは足りない。この身体のいちばん奥にある"なぜ"を、掘り当てなければ。


 決意だけは、あった。


 だが、いざ鍬を握ってみて、シンは途方に暮れた。


 ――どこを、どう掘ればいい。


 頭の中には、三つの"なぜ"が、ばらばらに転がっていた。採血の一瞬、首の刻印がゆるむこと。スープを食っても、身体がそれを活かせないこと。そして――これだけ多くが死ぬのに、自分がまだ生きていること。


 どれも確かに、不思議だった。だが、不思議だと思うことと、それを"掘る"ことの間には、深い、暗い溝があった。シンは、その溝の縁に立って動けずにいた。ただ眺めているだけでは、いつまでも何も変わらない。


 その夜、サイレント・ルームの中で、シンはダンに正直に打ち明けた。


「掘れって、言われても」シンは低く言った。「……やり方が分からない。何を、どうすれば掘ったことになるんだ」


 ダンは、暗がりの中でしばらく黙っていた。


 それから、落ちくぼんだ目をわずかに細めた。あの、面白がるような目だった。


「……そうだ」ダンは言った。「それを"分からん"とまっすぐ聞けるようになっただけで、お前はもう、たいていの奴より先にいる。分からんことを分かったふりをする奴は、そこで止まる。お前は、止まらなかった」


 ダンは、痩せた背を壁から少しだけ起こした。


「いいか、小僧。掘り方ってのは、こういうことだ」


 そうしてダンは、シンに"研究のやり方"を授け始めた。


「まず――いっぺんに、たくさんのことを変えるな」ダンは言った。「腹が減ったから、いつもより多く食って、ついでに長く寝て、おまけに採血のとき、いつもと違うことを試す。……それで翌朝、身体が軽かったとして、だ。何が効いた。食ったのか、寝たのか、採血か。全部いっぺんに変えたら、何が正解か、永久に分からん」


 シンは、頷いた。それは、分かる気がした。


「変えるのは、一つだけ。ほかはぜんぶ、同じにしろ」ダンは、指を一本立てた。「今日は、食う量だけ変える。寝る長さも、採血の受け方も、昨日とまったく同じにする。そうして初めて、"食う量"が何をするか見えてくる。……面倒か。面倒だ。だが、その面倒を省いた奴から間違える」


 ――条件を、揃える。


 シンは、頭の中の帳面に、その言葉を刻んだ。


「それから、覚え方だ」ダンは続けた。「ごちゃまぜに覚えるな。"抜かれた血の量"は、血の量の棚。"食った物"は、食い物の棚。"翌朝の身体"は、身体の棚。別々の棚に分けてしまえ。あとで、二つの棚を並べて見比べる。……片方が動いたとき、もう片方がどう動くか。それが見える。掘るってのは、その"並べて見比べる"ことだ」


 シンには、それができた。


 もともと、廊下の陰りを数え、看守の癖を覚え、台帳の番号を頭に流し込んできた。頭の中にいくつもの棚を作り、そこに見たものを分けてしまう。それはシンが、この地獄でいちばん得意にしてきたことだった。


 ただ――これまで、その棚にしまってきたのは、"外の世界"のことだった。看守。巡回。台帳。施設という、自分の外側にある謎。


 今度しまうのは、違う。


 自分の、身体だ。


「最後に、ひとつ」ダンは、声を低くした。「外れても、消すな」


「……外れても」


「仮説を立てて、試して、外れる。当たり前だ。むしろ、たいていは外れる」ダンは言った。「だが、その"外れた"ってことも、立派な答えの一つだ。"これは違う"と分かった。それは、正解に一歩近づいたってことだ。外れの山を捨てる奴は、同じ間違いを何度も繰り返す。……外れを大事にしまっておける奴だけが、最後に掘り当てる」


 シンは、その言葉を深く受け取った。


 そして、ふと気づいた。ダンは"やり方"は教えてくれる。だが――"答え"は、一度も口にしない。


「爺さんは」シンは静かに問うた。「……その"答え"は、知ってるのか。おれの身体の、"なぜ"の答えを」


 ダンは、少しの間、黙った。


 それから、ゆっくりと首を横に振った。


「知らん」ダンは言った。妙に、正直な声だった。「俺も長いこと、ここにいる。採血のときの、あの妙な感じ。血を抜かれると、力の感じが揺れること。……それには気づいてた。だが、その先が俺にはなかった。なぜ、そうなるのか。……分からんまま、俺は年を取った」


 ダンの落ちくぼんだ目が、暗がりの奥で静かに光った。


「俺は、掘り方は知ってる。だが、その鍬で掘り当てる力はない。血を操れんからな」ダンは言った。「お前は操れる。数ミリ、だがな。……だから、俺が行けなかった場所へ、お前は行けるかもしれん。俺は、道の途中で力尽きた。お前に渡せるのは、掘り方までだ。その先は――お前が、独りで掘れ」


 その先は、独りで掘れ。


 シンは、その言葉の重さを噛みしめた。


 この老人は、伴走者だった。答えを持つ者ではない。同じ謎の縁まで来て、しかし、そこで止まった先達だった。答えは、この地獄の誰も持っていない。ダンも、看守も、白衣の男たちも。……誰も。


 ならば、掘り当てるのは、自分しかいない。


 その夜から、シンの本当の観察が始まった。


 頭の中の帳面に、シンは新しい棚をいくつも作った。"抜かれた血の量"の棚。"食った物"の棚。"寝た長さ"の棚。"翌朝のふらつき"の棚。"あの軽さの出方"の棚。……別々に分けてしまう。あとで、並べて見比べるために。


 そして、シンは観察のいちばん太い軸を、一つ定めることにした。


 これまでシンが見ていたのは、"血を抜かれる、その瞬間"だった。刻印がゆるむ、あの一瞬。だが、ダンの教えで棚を分けて並べようとして、シンはふと思った。


 ――抜かれた"あと"は、どうなんだ。


 抜かれて、減って、空になった身体は、そのあと必死に血を戻そうとする。だるさが引き、翌朝には、また採血に耐えられる身体に戻っている。その"戻る"あいだのことを、シンはこれまで、まともに見ていなかった。抜かれる瞬間ばかりを見ていた。


 血が、戻る時。身体が、失った血を作り直している、その時。


 そこに、まだ誰も覗いていない棚があるのではないか。


 確信は、なかった。ただの勘だった。だが、掘る場所を一つ決められた。それだけで、シンの目の奥に、微かな光が点った。


 ――誰も、やらないことをやる。


 奴隷が、自分の身体を実験台にする。一日に、たった一つ条件を変えて、翌朝の自分を観察する。外れれば、その外れを棚にしまう。そんなことを、この白い地獄でしている者は、シンのほかに一人もいなかった。看守も、白衣の男たちも、シンをただのはずれの番号だと思っている。まさか、その番号が、自分自身を相手に、世界の誰もやらない"実験"を始めているとは、夢にも思っていない。


 その最初の夜、シンは頭の中の新しい頁に、最初の一行を記録した。


 "今日、抜かれた量――多め。食った物――いつも通り。寝た長さ――短い。翌朝――要観察"。


 たった、それだけだった。並べても、まだ何も見えない。一日ぶんの記録は、砂粒一つ。答えなど、どこにも浮かんでこない。


 だが、シンは、もう焦らなかった。


 サイレント・ルームの闇の中で、ダンがぽつりと言った。


「一日で見えるものは、誰にでも見える」ダンの声は、静かだった。「お前が掘るのは、一年見て。……いや、何年も見て、やっと見えてくるものだ。砂粒を、一つずつ積め。積んだ山が、ある日ふいに、形を持つ。その日まで――やめるな」


 何年も。


 その言葉に、シンはひるまなかった。むしろ、静かに頷いた。


 時間なら、この地獄には腐るほどある。奪われ続ける毎日の中で、たった一つ、シンが自分の意思で使えるもの。それが、時間だった。ならば、その時間を全部、この一つの鍬に注ぎ込む。


 砂粒を、一つずつ。何年かかっても。


 その春の夜、シンは暗い天井を見上げながら、頭の中の新しい頁を、そっと閉じた。まだ、砂粒一つぶんの、白紙に近い頁を。


 だが、その頁のいちばん上には、もう、掘るべき場所の名前が記されていた。


 ――血が、戻る時。


 シンの本当の掘削は、この一行から始まる。


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