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第19話「烙印の下で」

その日から、シンの夜が変わった。


 これまで、サイレント・ルームの時間は、ダンに教わり、外の世界を掘るための時間だった。看守の癖。巡回の穴。台帳の仕組み。……施設という、外側の謎を少しずつ剥がしていく時間。


 だが、いまは違った。


 シンは、自分自身を掘り始めた。


 頭の中の帳面に、新しい頁を一枚、開く。そこに書き込むのは、廊下のことでも、看守のことでもない。自分の身体のことだった。


 採血のあと、翌朝のふらつきはどれくらいか。何を食べた日が軽いか。多く抜かれた日と少ない日で、身体の戻り方はどう違うか。あの指先の"軽さ"は、どんな日にいちばんはっきり来るか。……これまで、ばらばらに拾ってきた三つの"なぜ"。それをシンは、一冊の頁に並べて書き込んでいった。


 血。採血のゆるみ。食べても活かせない身体。妙に粘る身体。


 並べてみると、それらは確かに、どこかで繋がっているように見えた。全部、"血が抜かれること"と、"身体がそれをどう扱うか"の話だった。だが、その繋がりの真ん中にある一本の線が、どうしても見えない。あと少し。あと少しで届きそうなのに、届かない。


 それでも、並べたことで、一つだけはっきりしたことがあった。三つの謎はどれも、"血を抜かれたあと"に起きている。採血のゆるみも、粘る身体も、あの指先の軽さも。血が身体から出ていく――その瞬間にこそ、何かが起きている。まるで、血を失うことが、この身体の隠された何かを、一瞬だけ表に引き出しているかのように。


 なぜ、失うことでそれが表に出る。抜かれて、減って、空いた――その"空き"に、何か意味があるのか。……そこまで考えて、シンはまた行き止まった。わからない。だが、問いは確実に深くなっていた。


 それでも、シンは書き続けた。


 わからないなら、書いて、並べて、見比べる。ダンにいちばん最初に教わったこと。掘り方の基本。……いま、その鍬をシンは、自分自身に向けていた。


 ――ここに、何かがある。


 確信だけはあった。この痩せた、"はずれ"の身体の中に、答えが埋まっている。採血の一瞬、あの扉がゆるむ理由。この身体が粘る理由。血を、数ミリとはいえ操れる理由。……その全部を貫く一本の何かが、きっとある。


 まだ、その正体は見えない。掘り当てるのが明日か、一年後か、十年後かもわからない。


 だが、シンはもう迷わなかった。


 烙印は、消えなかった。


 額の鑑定は、【血液操作/下級】のまま。首の番号は、回送候補の印をつけたまま。この施設で、シンはいまも"はずれ"で、"ゴミ"で、いつ回送されてもおかしくない、値打ちの微妙な個体だった。それは何一つ変わっていない。


 だが、その烙印の下で。


 誰にも知られず、シンは世界の誰もやらない研究を始めていた。奴隷が、自分の身体を掘る。血を操るはずれの子どもが、その血のいちばん深い"なぜ"を暴こうとする。……この白い地獄の中で、そんなことをしている者は、シンのほかに一人もいなかった。ダンでさえ辿り着けなかった場所に、シンは一人、鍬を入れていた。


 烙印は消えない。ならば、その下で掘る。


 それが、この一年でシンが辿り着いた答えだった。ただ耐えるのでも、ただ生き延びるのでもない。烙印を背負ったまま、その下で静かに、誰も知らない鉱脈を掘り続ける。


 ある夜、シンは採血の一瞬の、あの"軽さ"の中で、いつものように血を数ミリ動かしてみた。


 何も変わらなかった。いつも通り、数ミリ。扉は閉ざされたまま。


 だが、その夜、シンは初めてこう考えた。


 ――この一瞬に、血を"動かす"んじゃなくて。この一瞬に、血を"止められた"ら、どうなる。あるいは、この一瞬に、首の痣そのものに、この血を届かせられたら。


 できるとは思わなかった。血を数ミリ動かすのが精一杯の自分に。止めることも、痣に届かせることも、できるはずがない。


 だが――"できないか"と考えたこと自体が、これまでとは違った。


 これまでは、ただあの一瞬を"捉える"ことしか頭になかった。捉えて、どうする、と途方に暮れるだけだった。だが、いまは、その先を考え始めていた。この一瞬で、何をするか。血をどうするか。あの閉ざされた扉に、どう手をかけるか。


 扉の前に立つだけの段階は、終わった。


 シンはいま、初めてその扉の取っ手に、指を伸ばそうとしていた。届くかどうかはわからない。だが、伸ばそうとする発想が、この夜、確かに芽生えた。


 その夜、サイレント・ルームの中で、ダンがぽつりと言った。


「小僧。……お前を見てると、なんだか妙な気分になる」


 シンは、顔を上げた。


「生き延びる作法は、もう教えることがない」ダンは静かに言った。「逆らわず、演じ、観察する。時間を稼ぐ。……その全部を、お前はもう自分のものにした。俺がこの一年で教えたことは、もう、お前の中に全部ある」


 ダンの落ちくぼんだ目が、暗がりの中で静かにシンを見た。


「だから、次は俺の出番じゃない」ダンは言った。「次は――お前が、お前自身を暴く番だ」


 シンは、その言葉を胸の奥で受け止めた。


 お前が、お前自身を暴く。


 これまでシンは、外を暴いてきた。施設を、看守を、台帳を。ダンという先達の背中を追って。だが、これから掘る鉱脈は、地図にはない。誰も掘ったことのない場所。ダンにも答えられない場所。自分自身の身体の、いちばん深いところ。


 そこには、もう先達はいない。


 シンは、一人で掘るのだ。


「……ああ」シンは言った。声は静かだったが、掠れてはいなかった。「掘るよ。……おれ自身を。何年かかっても」


 ダンは、満足そうに目を閉じた。あの、面白がるような笑みを、口の端にわずかに残して。


 その夜、シンは暗い天井を見上げながら、頭の中の新しい頁を、そっと閉じた。


 まだ、白紙に近い頁だった。三つの"なぜ"が、ばらばらに並んでいるだけ。答えは、どこにもない。


 だが、その頁のいちばん上に、シンは見えない字で、一つの言葉を記した。


 ――なぜ、おれは、生きてる。


 その問いの答えが、いつかこの白い地獄そのものを、そして、この世界の"当たり前"そのものを、根こそぎ覆すことになるとは。


 烙印の下で、静かに鍬を握った、この夜のシンは、まだ知らなかった。


 冬は、とうに明けていた。


 白い地獄に、また新しい季節が巡ろうとしている。


 そして、シンの本当の"掘削"は――ここから始まる。


――第2章「烙印」了

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