第18話「なぜ、生きてる」
時間を稼いだ。その事実は、シンに猶予と焦りを、同時に与えた。
次の選別まで、どれくらいか。わからない。ひと月か、ふた月か。あるいは、もっと短いか。その間に、あの扉を掘り進めなければ。そう思うほど、扉は頑なに閉ざされたままだった。
採血の一瞬。狙って捉えられる、あの"軽さ"。そこで、血を数ミリ動かしてみる。強く、弱く、速く。……何をしても変わらない。ゆるんだ一瞬は、ただゆるんでいるだけ。開け方は、まるで見えなかった。
行き詰まっていた。
その夜、サイレント・ルームの中で、シンは珍しく弱音を漏らした。
「……わからない」シンは、膝を抱えて言った。「掘っても掘っても、何も出ない。あの一瞬に何かがあるのは、わかる。でも、それが何なのか。おれの力で何ができるのか。……何も見えないんだ」
ダンは、しばらく黙って聞いていた。
それから、いつもとは違う問いを、静かに投げた。
「小僧。……一つ、聞くぞ」
シンは、顔を上げた。
「お前、なぜ、自分が生きてると思う」
シンは、その問いの意味がわからなかった。
「生きてる……?」
「そうだ」ダンは言った。「この施設に、お前と同じ頃搬入された子どもが、何人いた。あの檻に乗せられてきた、六人。……いま、何人残ってる」
シンは、答えられなかった。
あの、鉄の匂いのする檻。膝を抱えた、六人の子ども。……そのうち、いま、どれだけが生きているか。シンは知らなかった。だがこの一年で、どれほどの子どもが藁の上から運び出されていったかは、見てきた。あの最初の冬だけでも、房のあちこちから、歯の鳴る音が一つ、また一つと消えていった。
残っているのは、たぶん、ほとんどいない。
「弱い者から消えていく」ダンは言った。「毎日、血を抜かれ、屑を食わされ、凍える。……その中で、消えなかった。お前は生きてる。なぜだ」
「……逆らわなかったから」シンは言った。「観察して、演じて、うまく立ち回ったから。爺さんに教わった通りに」
「それもある」ダンは頷いた。「頭で生き延びた。それは確かだ。……だが、小僧。頭だけか」
シンは、口をつぐんだ。
「頭でどれだけうまく立ち回っても、身体が保たなきゃ意味がない」ダンは静かに続けた。「毎朝、血を抜かれる。同じだけ抜かれる。……なのに、ある子はひと冬で消えて、ある子は生き延びる。その違いは、頭の良さだけか。……身体そのものにも、違いがあるんじゃないか」
シンの胸の奥で、何かが静かにざわついた。
身体そのものにも、違いが。
「お前は、よく保ってるほうだ」ダンは言った。「気づいてないだろうがな。……同じだけ抜かれても、翌朝のふらつきが、ほかの子より少し軽い。回復が少し速い。俺は長いこと、大勢の奴隷を見てきた。だからわかる。……お前の身体は、この採血に妙に粘る」
シンは、思い返した。
言われてみれば――採血のあとの、あの目眩。ほかの子どもが床にへたり込んでいるとき、自分は壁に手をつけば、なんとか歩けた。ロルフに「立て」と言われて、ゆっくりでも歩けた。それをシンは、"うまく食べて、うまく休んだから"だと思っていた。工夫のおかげだと。
だが、工夫だけだろうか。
同じ工夫を、ロルフにも教えた。なのに、ロルフは弱っていった。シンは保った。……その違いは、本当に工夫の差だけなのか。
「なぜ、おれの身体は粘るんだ」シンは、思わず口にした。
ダンは、首を横に振った。
「わからん。俺には答えられん」ダンは言った。「だが、いいか小僧。……いま、お前はまた一つ、"なぜ"を拾った。採血の一瞬の謎。食べても弱る謎。……そして今度は、"なぜ、この身体は粘るのか"だ」
シンは、はっとした。
三つの"なぜ"。頭の隅で、埃をかぶって転がっていた、二つの問い。そこにいま、三つ目がはっきりと加わった。……いや、三つ目は、前からあった気がする。あの最初の冬の朝。採血の指先の、あの軽さを寒さのせいだと流したとき。あのとき確かに、何かが頭の隅に転がり込んだ。
三つの問いが、暗がりの中でゆっくりと、こちらを向いた。
採血のゆるみ。食べても活かせない身体。そして、この妙に粘る身体。……ばらばらの、三つの謎。だがその三つが、いま初めて、シンの中で"同じ一つのもの"の別々の顔かもしれないと、うっすら思えた。
全部、"血"と"身体"の話だ。
繋がらない。まだ、何も繋がらない。だが確かに、同じ暗がりの中に、三つともあった。
「爺さん」シンは言った。「……おれはこれまで、外ばかり掘ってた。採血の仕組み。台帳の仕組み。施設の仕組み。……でも」
シンは、自分の右手を見た。血を数ミリ動かすだけの、その手を。
「いちばん近い不思議は、これだったのかもしれない」シンは静かに言った。「おれの身体だ。おれ自身が、いちばん近い不思議なんだ」
ダンの口の端が、ほんの少し上がった。
「……そこに辿り着いたか」ダンは言った。「小僧。俺がお前に、"いちばん近い不思議を掘れ"と言ったとき。……本当は、それを言いたかった」
シンは、顔を上げた。
「採血じゃない。台帳でもない。……お前自身だ」ダンは、痩せた指でシンの胸を、こつ、と指した。「なぜ、お前の血は操れる。なぜ、お前の身体は粘る。なぜ、お前は生きてる。……その答えは、廊下にも帳面にもない。お前の、この中にある」
シンは、自分の胸に置かれた、その指の重みを、じっと感じていた。
これまでシンは、世界を掘ろうとしていた。世界の"当たり前"に埋まった、嘘を。だが――その嘘のいちばん深いところは、外の世界ではなく、自分自身の身体の中に埋まっているのかもしれない。
"はずれ"と呼ばれた身体。血を数ミリ動かすだけの、ゴミの身体。……その身体こそが、掘るべき鉱脈なのかもしれない。
まだ、掘り方はわからない。答えは、遠い。
だが、掘るべき場所が、また一つはっきりした。今度は、いちばん近く。いちばん遠ざけていた場所。自分自身。
「聞かせてくれ、じゃ、ないんだな」シンは、ぽつりと言った。「今度は、おれが、おれに聞くんだ」
ダンは、静かに笑った。
その夜、シンは自分の腕を、暗がりの中でじっと見つめた。
この身体が、答えを持っている。採血の謎も、粘る理由も、血を操れる理由も。全部、この痩せた、小さな身体の内側に。
なぜ、おれは、生きてる。
その問いは、これまでのどの"なぜ"よりもシンのいちばん近くにあって――そして、いちばん深かった。




