表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/33

第18話「なぜ、生きてる」

 時間を稼いだ。その事実は、シンに猶予と焦りを、同時に与えた。


 次の選別まで、どれくらいか。わからない。ひと月か、ふた月か。あるいは、もっと短いか。その間に、あの扉を掘り進めなければ。そう思うほど、扉は頑なに閉ざされたままだった。


 採血の一瞬。狙って捉えられる、あの"軽さ"。そこで、血を数ミリ動かしてみる。強く、弱く、速く。……何をしても変わらない。ゆるんだ一瞬は、ただゆるんでいるだけ。開け方は、まるで見えなかった。


 行き詰まっていた。


 その夜、サイレント・ルームの中で、シンは珍しく弱音を漏らした。


「……わからない」シンは、膝を抱えて言った。「掘っても掘っても、何も出ない。あの一瞬に何かがあるのは、わかる。でも、それが何なのか。おれの力で何ができるのか。……何も見えないんだ」


 ダンは、しばらく黙って聞いていた。


 それから、いつもとは違う問いを、静かに投げた。


「小僧。……一つ、聞くぞ」


 シンは、顔を上げた。


「お前、なぜ、自分が生きてると思う」


 シンは、その問いの意味がわからなかった。


「生きてる……?」


「そうだ」ダンは言った。「この施設に、お前と同じ頃搬入された子どもが、何人いた。あの檻に乗せられてきた、六人。……いま、何人残ってる」


 シンは、答えられなかった。


 あの、鉄の匂いのする檻。膝を抱えた、六人の子ども。……そのうち、いま、どれだけが生きているか。シンは知らなかった。だがこの一年で、どれほどの子どもが藁の上から運び出されていったかは、見てきた。あの最初の冬だけでも、房のあちこちから、歯の鳴る音が一つ、また一つと消えていった。


 残っているのは、たぶん、ほとんどいない。


「弱い者から消えていく」ダンは言った。「毎日、血を抜かれ、屑を食わされ、凍える。……その中で、消えなかった。お前は生きてる。なぜだ」


「……逆らわなかったから」シンは言った。「観察して、演じて、うまく立ち回ったから。爺さんに教わった通りに」


「それもある」ダンは頷いた。「頭で生き延びた。それは確かだ。……だが、小僧。頭だけか」


 シンは、口をつぐんだ。


「頭でどれだけうまく立ち回っても、身体が保たなきゃ意味がない」ダンは静かに続けた。「毎朝、血を抜かれる。同じだけ抜かれる。……なのに、ある子はひと冬で消えて、ある子は生き延びる。その違いは、頭の良さだけか。……身体そのものにも、違いがあるんじゃないか」


 シンの胸の奥で、何かが静かにざわついた。


 身体そのものにも、違いが。


「お前は、よく保ってるほうだ」ダンは言った。「気づいてないだろうがな。……同じだけ抜かれても、翌朝のふらつきが、ほかの子より少し軽い。回復が少し速い。俺は長いこと、大勢の奴隷を見てきた。だからわかる。……お前の身体は、この採血に妙に粘る」


 シンは、思い返した。


 言われてみれば――採血のあとの、あの目眩。ほかの子どもが床にへたり込んでいるとき、自分は壁に手をつけば、なんとか歩けた。ロルフに「立て」と言われて、ゆっくりでも歩けた。それをシンは、"うまく食べて、うまく休んだから"だと思っていた。工夫のおかげだと。


 だが、工夫だけだろうか。


 同じ工夫を、ロルフにも教えた。なのに、ロルフは弱っていった。シンは保った。……その違いは、本当に工夫の差だけなのか。


「なぜ、おれの身体は粘るんだ」シンは、思わず口にした。


 ダンは、首を横に振った。


「わからん。俺には答えられん」ダンは言った。「だが、いいか小僧。……いま、お前はまた一つ、"なぜ"を拾った。採血の一瞬の謎。食べても弱る謎。……そして今度は、"なぜ、この身体は粘るのか"だ」


 シンは、はっとした。


 三つの"なぜ"。頭の隅で、埃をかぶって転がっていた、二つの問い。そこにいま、三つ目がはっきりと加わった。……いや、三つ目は、前からあった気がする。あの最初の冬の朝。採血の指先の、あの軽さを寒さのせいだと流したとき。あのとき確かに、何かが頭の隅に転がり込んだ。


 三つの問いが、暗がりの中でゆっくりと、こちらを向いた。


 採血のゆるみ。食べても活かせない身体。そして、この妙に粘る身体。……ばらばらの、三つの謎。だがその三つが、いま初めて、シンの中で"同じ一つのもの"の別々の顔かもしれないと、うっすら思えた。


 全部、"血"と"身体"の話だ。


 繋がらない。まだ、何も繋がらない。だが確かに、同じ暗がりの中に、三つともあった。


「爺さん」シンは言った。「……おれはこれまで、外ばかり掘ってた。採血の仕組み。台帳の仕組み。施設の仕組み。……でも」


 シンは、自分の右手を見た。血を数ミリ動かすだけの、その手を。


「いちばん近い不思議は、これだったのかもしれない」シンは静かに言った。「おれの身体だ。おれ自身が、いちばん近い不思議なんだ」


 ダンの口の端が、ほんの少し上がった。


「……そこに辿り着いたか」ダンは言った。「小僧。俺がお前に、"いちばん近い不思議を掘れ"と言ったとき。……本当は、それを言いたかった」


 シンは、顔を上げた。


「採血じゃない。台帳でもない。……お前自身だ」ダンは、痩せた指でシンの胸を、こつ、と指した。「なぜ、お前の血は操れる。なぜ、お前の身体は粘る。なぜ、お前は生きてる。……その答えは、廊下にも帳面にもない。お前の、この中にある」


 シンは、自分の胸に置かれた、その指の重みを、じっと感じていた。


 これまでシンは、世界を掘ろうとしていた。世界の"当たり前"に埋まった、嘘を。だが――その嘘のいちばん深いところは、外の世界ではなく、自分自身の身体の中に埋まっているのかもしれない。


 "はずれ"と呼ばれた身体。血を数ミリ動かすだけの、ゴミの身体。……その身体こそが、掘るべき鉱脈なのかもしれない。


 まだ、掘り方はわからない。答えは、遠い。


 だが、掘るべき場所が、また一つはっきりした。今度は、いちばん近く。いちばん遠ざけていた場所。自分自身。


「聞かせてくれ、じゃ、ないんだな」シンは、ぽつりと言った。「今度は、おれが、おれに聞くんだ」


 ダンは、静かに笑った。


 その夜、シンは自分の腕を、暗がりの中でじっと見つめた。


 この身体が、答えを持っている。採血の謎も、粘る理由も、血を操れる理由も。全部、この痩せた、小さな身体の内側に。


 なぜ、おれは、生きてる。


 その問いは、これまでのどの"なぜ"よりもシンのいちばん近くにあって――そして、いちばん深かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ