第17話「時間を稼ぐ」
やると決めてから、シンはまず、敵の"手順"を洗い直した。
回送候補の印を"回送"に変えるのは、誰か。台帳の作業で、シンはもうその流れを掴んでいた。判断を下すのは、あの選別の日に来る上の人間。だがその判断は、ゼロから下されるわけではない。彼らは帳面の"数字"を見て決める。抜けた血の量。採血の効率。区分の記録。……その数字が"採算が合わない"と告げていれば回送、合っていれば保留。
つまり判断そのものには手が届かない。だが、判断の"材料"になる数字には届く。
――数字を、演じきればいい。
シンはそう結論した。回送候補をはずさせるのではない。回送候補のまま、"まだ使い道がある個体"に見せる。もう少し置いておこうと上の人間に思わせるだけの数字を、作る。
難しいのは、そこだった。
採血で抜ける血の量は、自分では増やせない。それは身体が決めることだ。だが"効率"は、血の量だけで測られてはいなかった。台帳には、ほかにも欄があった。作業への従順さ。手のかからなさ。雑用での使い勝手。……上の人間が"採算"を計るとき、そうした細かな評価も、わずかに天秤に乗る。
シンは、そのわずかな重みを狙った。
まず、採血だ。
これまでシンは、あの"軽さ"を捉えるために、意識を張りつめて台に乗っていた。だが、それをやめた。掘るのは夜の分だけにする。昼の採血では、ただ"良い個体"を演じることに徹した。針を刺されても微塵も抗わない。むしろ腕を、抜きやすい角度に自分から差し出す。技士が扱いやすいように。手間をかけさせないように。
小さなことだ。だが毎日、同じ技士に同じように扱いやすさを見せ続ければ、技士の頭に"あの番号は手がかからない"という印象が、少しずつ積もる。そして技士は、台帳の"使い勝手"の欄に、無意識に少しだけ良い印をつけるようになる。
次に、台帳の雑用だ。
シンは、あの屈辱的な番号の棚卸しを、進んで引き受けた。誰よりも正確に、誰よりも文句を言わず、しかし決して賢く見えない程度に。速すぎず、遅すぎず。読み書きができるとは、絶対に悟らせない。ただ"数を数えるだけはそこそこ使える、おとなしい個体"。その像を丁寧に演じ続けた。
白衣の男は、面倒な雑用を押しつけられる相手を失いたくない。使い勝手のいい道具は、手元に置いておきたい。……人は、そういうものだ。ダンに教わった、人の心のいちばん単純な部分だった。
そして、いちばん際どいのが、番号のからくりだった。
台帳には、評価を更新する周期があった。ある欄は毎日、ある欄は数日おきに、担当の男が書き替える。だがその更新は、完璧ではなかった。忙しい日には飛ばされ、あとでまとめて処理される。そこに、わずかな"隙"があった。シンは、その隙を読んだ。自分の評価がいつ、どの男の手で更新されるか。どの日なら、良い印象が新しいまま選別の判断に持ち込まれるか。
――選別の日から逆算して、"良く見える瞬間"を合わせにいく。
それは、賭けだった。読み違えれば、何の意味もない。下手に動けば、"妙に目立つ個体"として逆に警戒される。ダンの言葉が、頭の隅で光っていた。しくじれば、目をつけられる。慎重にやれ。
だからシンは、慎重にやった。何ひとつ、不自然なことはしない。ただ従順で、手がかからず、そこそこ使える、おとなしいはずれの子ども。その像を日々、少しずつ濃くしていく。誰の目にも"演じている"とは映らないように。
そうして、選別の日が来た。
あの白衣の男たちが、また台のわきに並んだ。帳面を繰り、番号を確かめ、指で線を引いていく。回送候補の個体が、一人、また一人と呼び出されていく。呼ばれた者は、あの別の扉の向こうへ連れられていった。
シンは、列の中で目を伏せていた。
従順な番号を演じながら。心臓だけが、静かに速かった。台帳に積み上げた、あの小さな印象の数々。読み切った、更新の隙。……それが、いま、この瞬間、天秤に乗る。役に立つのか。それとも、何の意味もなかったのか。
男の指が、帳面の上を滑っていく。
シンの番号の欄で、止まった。
シンは、息を殺した。
男はしばらく、その欄を見ていた。抜けた血の量。採血の効率。……そしてそのわきに、こまごまと積もった良い印。手がかからない。使い勝手が悪くない。棚卸しの雑用もこなす。
男は、退屈そうにこう言った。
「……この個体、回送候補だが。血の出は悪くない。雑用にも使えてる」男は、隣の男に言った。「まだ置いといていいだろう。次の選別まで保留だ」
線は、引かれなかった。
男の指は、シンの番号を通り過ぎた。次の番号へ。
シンは、それでも顔を上げなかった。声も乱さなかった。ただ目を伏せたまま、列の後ろへ下がっていく。何事もなかったように。おとなしいはずれの番号として。
だが、その内側で。
シンの胸の奥の、あの重い石が、静かに震えていた。
やった。
回送を止めた。看守にも研究員にも逆らわず。誰にも疑われず。ただ、見て、覚えて、数字を演じただけで。
あの空っぽの寝床の前で、拳を握るだけだった自分が。帳面の線一本の前で、何もできなかった自分が。……いま、その帳面の線を、自分の手で引かせなかった。
小さな勝利だった。誰にも気づかれない、ごく小さな。だがそれは、シンが初めて、自分の力で自分の運命を動かした瞬間だった。頭を使えば、環境どころか、自分の生き死にすら少しは動かせる。ロルフのときにはできなかったことが。
その夜、サイレント・ルームの中で、シンはダンに報告した。
淡々と、事実だけを。回送を保留に持ち込めたことを。
ダンは、黙って聞いていた。
聞き終えると、その落ちくぼんだ目が、暗がりの中でほんの少しだけ細くなった。あの、面白がるような――だが今夜は、それよりもっと深いところで、静かに光る目だった。
「……よくやった」ダンは低く言った。「本当に、よくやった、小僧。ここに来て、自分の回送を自分で止めた奴を、俺は初めて見た」
シンは、その言葉を黙って受けた。
ほんの一瞬、胸の奥があたたかくなった。誰かに"よくやった"と言われたのは、いつぶりだろう。ロルフに頭を撫でられて以来かもしれない。
だが、ダンはそこで言葉を切った。
そして、その温もりを静かに断ち切るように続けた。
「……だがな、小僧。一つだけ言っておく」
シンは、顔を上げた。
「お前が止めたのは、"今回"だけだ」ダンは言った。「次の選別が来れば、また同じことになる。血の出は、いつまでも"悪くない"ままじゃいられん。お前も、いつか弱る。演じる余地がなくなる日が来る。……そのとき、お前はどうする」
シンは、答えられなかった。
わかっていた。今夜止めたのは、"今回"だけだ。買ったのは、時間だけ。回送候補の印は、まだ自分の番号のわきについたままだ。消えてはいない。ただ、少しだけ先延ばしにした。それだけのこと。
「お前は、時間を稼いだ」ダンは静かに言った。「稼いだ時間で、何をする。……いつまでも演じ続けられると思うなよ。演じるのは、時間を稼ぐためだ。稼いだ時間で、根っこを掘れ。演じることが目的になったら、お前はただの、上手な奴隷で終わる」
演じるのは、時間を稼ぐため。
その言葉が、勝利の熱を、冷たく締め直した。
そうだ。今夜のことは、勝ちではない。ただの時間稼ぎだ。この稼いだわずかな時間で、あの閉ざされた扉を――採血の一瞬の、あの謎を、掘り進めなければ。演じ続けることは、生き延びること。だが、生き延びるだけでは、いつか演じる余地を失って、消える。ロルフのように。
「わかってる」シンは言った。「これは、勝ちじゃない。……時間だ。掘るための時間だ」
ダンは、満足そうに目を閉じた。
シンは、暗がりの中で右手の指を、そっと握った。血を数ミリ動かすだけの、その手を。
時間は、買った。だが砂時計は、もう逆さに置かれている。
――急がなければ。
次の選別が来るまでに。この身体が"悪くない"と言われなくなる前に。あの扉の開け方を、見つけなければ。




