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第16話「危険区分の影」

台帳で得た知識は、シンの中で静かに根を張っていた。


 番号の体系。区分の分け方。印の意味。そのどれもが、いまやシンの頭の帳面に収まっている。だが、いちばんシンが知りたかったこと。いちばん恐ろしかったことは、まだ輪郭の曖昧なままだった。


 危険区分。


 ロルフが送られた、あの先。回送候補の印が、自分の番号にもついている、あの場所。そこが実際、どういう場所なのか。シンはそれを知らなければならなかった。敵を知らずに抗うことはできない。ダンの教えだった。


 シンは観察を、そこへ向けた。


 台帳の作業で顔を覚えられた白衣の男の動きを追った。配給の列で、区分ごとの奴隷の様子を盗み見た。そして、ときおり廊下のあの別の扉から運ばれていく者たちの姿を、目の端で拾い集めた。


 少しずつ、危険区分の輪郭が像を結んでいった。


 ある日、シンは廊下のあの別の扉が開くのを見た。


 中から二人の看守が、一人の奴隷を抱えるようにして運び出してきた。まだ若い男だった。だが、その顔には生気がなかった。目は開いているのに、何も映していない。手足は力なく垂れ、引きずられるまま。まるで、身体だけが残って、中身が抜き取られたあとのようだった。


 殺されてはいない。息はある。だが、それは"生きている"と呼べるものだろうか。シンにはわからなかった。ただ、その空っぽの目だけが、まぶたの裏に焼きついた。あそこへ行けば、ああなる。ロルフも、いまごろ、あんな目をしているのかもしれない。


 そこへ送られた奴隷は、戻らない。それは知っていた。だが、なぜ戻らないのか。殺されるのではなかった。この施設は、無駄には殺さない。シンはそれも、もう知っていた。では、何をされるのか。


 答えは、断片から組み上がった。


 より過酷な実験。生還率の低い実験。通常の採血では"採算が合わなくなった"個体をそこへ回し、最後の一滴まで使い切る。血だけではない。身体そのものを。命そのものを。死ぬまで使う。いや、死んでも、なお使う。


 殺すのではなく、使い尽くす。


 その言葉の本当の重さが、いまになって、シンの胸に沈んだ。ロルフは――あの、へへ、と笑う男は。菓子の思い出を語った男は。いまもどこかで、そうやって使われているのかもしれない。あるいは、もう使い切られて。


 シンは拳を握った。


 握って、握って、そしてゆっくりと開いた。


 感情のまま暴れても、意味はない。それはロルフの死で、痛いほど学んだ。怒りは殺さない。殺さずに観察に回す。だが、今度はそれだけでは終わらせない。


 なぜなら、その危険区分の影は、いまやシン自身に迫っていたからだ。


 自分の番号の、回送候補の印。それが次の選別で"回送"に変われば、シンもあの別の扉の向こうへ運ばれていく。ロルフと同じ場所へ。掘りかけの扉を置き去りにして。まだ、開け方もわからない、あの扉を。


 ――冗談じゃない。


 シンの中で、冬のあの夜の誓いが、静かに燃えた。次は、無力では終わらせない。あのとき、空っぽの寝床の前で、胸の石の上に置いた誓い。


 だが、どうやって。


 シンは考えた。


 正面から抗うことはできない。看守に逆らえば消される。研究員に直談判しても、鼻で笑われて終わりだ。脱走は、あの賢い狼たちの罠にはまるだけ。第七話で思い知った。力では、この選別を止められない。


 力では。


 シンの思考が、そこで止まった。


 ――力では止められない。なら。


 シンはその日、台帳の部屋で見たものを思い出した。回送候補の印。それを"回送"に変える、その仕組み。あの選別の判断。それは、誰が、どうやって下していたか。


 番号だ。


 あの白衣の男たちは、シンを見ていなかった。ロルフを見ていなかった。誰の顔も見ていなかった。彼らが見ていたのは、帳面の上の番号と、そのわきの数字だけだった。抜けた血の量。採血の効率。区分。それらの数字を照らし合わせて、"採算"を計算する。そして印をつける。回送に。


 彼らは、人を選別しているのではなかった。数字を選別していた。


 なら。


 シンの胸の奥で、何かが冷たく澄んでいくのを感じた。


 正面から"人"には抗えない。だが、"数字"になら手が届くかもしれない。彼らがシンを、数字としてしか見ていないのなら。その数字のほうを変えてやればいい。回送候補の印がつくような数字ではなく、もう少し置いておこうと思わせる数字に。


 できるのか。


 わからなかった。だが、台帳の仕組みは頭に入っている。番号のからくりも。どの数字が、どう"採算"に響くのかも。少なくとも、掘る場所はある。あの閉ざされた採血の扉とは違う。こちらは、いますぐ掘れる。


 その夜、サイレント・ルームの中で、シンはダンに告げた。


「爺さん。おれ、たぶん、危険区分に回される」


 ダンの目が鋭くなった。だが、シンは続けた。


「でも、正面から抗っても無理だ。力じゃ止められない。だから、"数字"の側から動かす」


 シンは台帳で得た、あの冷たい理解をダンに語った。彼らは人ではなく、数字を選別している。なら、抗う場所も数字だ。回送候補の印をはずさせるほどの数字を、演じきる。


 ダンはしばらく黙って聞いていた。


 それから、ふっと笑った。あの、面白がるような目だった。だが、その奥に、これまでとは違う、何か熱いものが灯っていた。


「……ようやく、だな」ダンは言った。「お前はいま、初めて"抗おう"としてる。ただ耐えるんじゃない。ただ観察するんじゃない。観察したものを武器にして、自分の運命を動かそうとしてる」


 ダンは痩せた指で、シンの胸をこつ、と指した。


「やってみろ、小僧。ただし、しくじれば、逆に目をつけられる。"数字を操る、面倒な個体"だとな。慎重にやれ」


 シンは頷いた。


 危険区分の影は、確かに迫っていた。時間は限られていた。掘りかけの扉は、まだ閉ざされたまま。


 だが、今度のシンは、立ち尽くしてはいなかった。


 空っぽの寝床の前で、拳を握るだけだった、あの子どもは、もういない。


 シンは"数字"という新しい戦場に、静かに足を踏み入れた。


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