第15話「間違えた男」
扉の前に立ったまま、シンは開け方を探し続けた。
だが、答えは出なかった。狙って捉えた一瞬の中で、血を数ミリ動かしてみる。強く、弱く、速く、遅く。何をしても変わらなかった。ゆるんだ一瞬は、ただゆるんでいるだけで、シンの数ミリを特別なものにはしてくれなかった。
空振りの日々だった。
だが、シンは以前ほど焦らなかった。扉の前に立てただけで、進んだのだ。ダンがそう言った。焦って闇雲に叩いても、扉は開かない。たぶん、これは何年もかかる。シンはそう、腹を括り始めていた。
その夜、サイレント・ルームの中で。
シンはふと、昼間の台帳のことを思い出した。あの古い、褪せた番号。生き残った者の中で飛び抜けて古い、ダンの番号を。
「爺さん」シンは聞いた。「あんた、どれくらいここにいるんだ」
ダンの乾いた手が、一瞬止まった。
結界の中の静寂が、いつもより深く感じられた。
「なぜ、そんなことを聞く」
「台帳を見た」シンは正直に言った。「あんたの番号、桁が少なかった。生きてる奴の中でいちばん古かった。同じ頃の番号は、みんな罰の印がついてた」
ダンはしばらく黙っていた。
それから、乾いた笑いを漏らした。
「よく見てるな」ダンは言った。「そうだ。長い。お前が生まれるよりずっと前から、俺はここにいる」
シンは黙って、次の言葉を待った。
ダンは壁にもたれたまま、落ちくぼんだ目を、暗がりのどこか遠くへ向けた。ここではない、どこか。ずっと昔のどこかを見ているような目だった。
「昔の話をしてやる」ダンは静かに言った。「前に少し話したな。仲間を守れず、全部失った男の話を」
シンは頷いた。第三話のあの夜。ダンがぽつりと漏らした断片。
「あれは、俺の話だ」
シンは驚かなかった。もうわかっていた。あの夜からずっと。
「俺は昔、大きな組織にいた」ダンは言った。「どういう組織かは言わん。言っても、お前にはまだわからん。ただ、大きかった。人が大勢いた。金も力もあった。俺はその中で、そこそこ上のほうにいた。頭が回ったからな。お前と少し似ていたかもしれん」
ダンの声に、遠い懐かしさと、それよりずっと大きな苦さが滲んでいた。
「俺は賢いつもりだった。誰よりも先を読めると思っていた。敵の動きも、罠も、全部読み切れると。実際、たいていのことは読めた」ダンは言った。「だが、な。たった一つ、読めなかったものがあった」
「……なにが」
「内側だ」
ダンの声が低くなった。
「敵は外から来なかった。俺の内側から来た。信じていた男が、俺たちを売った。組織の何もかもを。気づいたときには、もう遅かった。外の敵と、内側の裏切りに挟まれて、組織は一晩で崩れた。仲間はみんな死んだ。俺だけが、こんな形で生き残った」
シンは息を呑んだ。
脱走を密告で潰された、あの夜。第七話のあの賢い狼のことが、シンの頭をよぎった。仲間の中の裏切り者。褒美で買われた男。シンの地図に描けなかった、あの変数。
人の心は、地図に描けない。
「俺は外ばかり見ていた」ダンは言った。「敵を、罠を、力を。だが、いちばん大事なものを見ていなかった。隣にいる仲間が、本心で俺と共にいるのか。それとも、いつか俺を売る気で笑っているのか。そのいちばん近くの、いちばん大事な問いを、俺は読もうともしなかった」
ダンは痩せた手で、自分の顔を覆った。ほんの一瞬。それから、また手を下ろした。
「賢いだけでは足りん」ダンは絞り出すように言った。「どれだけ頭が回っても。どれだけ先を読めても。信じられる者が隣にいなければ、組織は内側から崩れる。俺はそれを間違えた。信じちゃならん奴を信じた。信じるべき奴を、たぶん見誤った」
シンは何も言えなかった。
この乾いた、無害に見える老人が背負ってきたものの重さ。台帳のあの、褪せた番号の意味。生き残った、というより、一人だけ取り残された、というその長い長い時間の重さが、初めてシンの前に、その輪郭を現していた。
「小僧」ダンはシンを見た。「お前はいつか、仲間を持つ。一人では世界は変えられん。前にそう言ったな。組織が要る。人が要る」
シンは頷いた。
「だが、そのとき」ダンの声に、これまでにない切実さがあった。「お前は、俺の間違いを繰り返すな。賢くあれ。だが、それ以上に、人を見抜け。誰が本心でお前と共にいるのか。誰がそうでないのか。それを見抜く目を持て。それがなければ、どれだけ賢くても、いつか内側から崩される」
人を見抜く目。
シンはその言葉を、頭の帳面に深く刻んだ。
だが、どうやって。人の心は、地図に描けない。第七話で、シンはそれを思い知った。表情も、言葉も、嘘をつく。褒美一つで、人は裏切る。そのいちばん読めない変数を、どうやって見抜けというのか。
その問いに、この夜、答えは出なかった。
ダンにも、シンにも。
ただ、シンの中で、二つの"読めないもの"が静かに並んだ。採血の、あの閉ざされた扉と、人の心という、閉ざされた扉。
どちらも、いまのシンには開け方がわからない。
だが、いつか。
シンは暗がりの中で、そう思った。この二つの扉を、両方開けなければ、自分はダンのようにはなれない。賢いだけの男は、必ず潰される。そうダンは、身をもって教えていた。
その夜、ダンはそれきり、何も語らなかった。
組織の名も。潰した敵の正体も。裏切った男のその後も。語らなかった。まだシンには早い。ダンはそう決めているようだった。
シンも聞かなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この乾いた老人は、かつて、シンがこれから歩もうとしている道を、先に歩いた男だった。そして、その道のいちばん危険な場所で足を踏み外した男だった。
その踏み外しの痛みを、ダンはいま、シンに渡そうとしている。
――同じ場所で、転ぶな、と。




