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第14話「条件」

台帳の作業は、数日で終わった。


 だが、シンがそこで手に入れたものは消えなかった。施設の管理の骨組み。番号の体系。そして、自分に残された時間の短さ。


 回送候補の印は、まだ"回送"には変わっていない。次の選別が来るまでは、時間がある。だが、それがいつ来るのかは、シンにもわからなかった。


 だから、シンは急いだ。


 急ぎながら、しかし焦りは殺した。焦って闇雲に掘っても、何も出ない。それはあの再現の空振りで、骨身に染みていた。仮説を立て、試し、覚えて、見比べる。ダンの教えの通りに。


 シンにはもう、二十日ぶんの記録があった。


 あの"軽さ"を感じた日と、感じない日。その日ごとの条件。丸と罰。その隣にびっしりと書き込まれた状況。頭の中のその帳面を、シンは来る日も来る日も、繰り返し繰り返し繰った。


 感じた日には、何か共通するものがあるはずだった。第十一話の終わりにうっすら見えた、あの偏り。それをもっとはっきりと掴みたかった。


 シンは、丸のついた日だけを頭の中で抜き出して並べた。


 技士は、律儀な男の日も、面倒くさがりの男の日もあった。関係ない。列の位置もばらばらだった。前の夜、眠れたかどうかもまちまち。腹の減り具合も。どれも、丸の日に共通していなかった。


 シンは一つずつ、可能性を潰していった。


 これも違う。これも違う。一つ、また一つと条件を消していく。ダンが言った"見比べる"とは、こういうことだった。何が"同じ"かを探すのと同じくらい、何が"関係ないか"を消していくこと。


 そして、ほとんどの条件を消し終えたとき。


 最後に一つだけ、残った。


 抜かれた血の量だった。


 丸のついた日――あの"軽さ"をはっきり感じた日は、決まって、血を多く抜かれた日だった。面倒くさがりの技士ではなく、律儀な技士に当たり、しかも瓶が二本目まで満たされたような、そんな日。たくさん抜かれた日ほど、あのたわみは強かった。


 シンの心臓が、静かに跳ねた。


 ――そうか。


 まだ、"なぜ"かはわからない。なぜ、たくさん抜かれるとあの感覚が強くなるのか。それは皆目、見当もつかなかった。だが、"いつ"来るかがわかった。条件が掴めた。たくさん抜かれたとき。そのときに、あのたわみは来る。


 シンはそれを、試すことにした。


 仮説は立った。あとは試す番だった。


 次に、律儀な技士に当たり、血を多く抜かれる日。その日、シンはこれまでのようにただ待つのではなく、狙ってその瞬間を捉えにいった。


 針が肘に沈む。血が抜かれていく。一本目の瓶が満ちる。二本目。身体の奥から力が抜けていく。目眩の白い滲み。


 シンはその、抜けていく感覚のいちばん深いところに、意識を集めた。まだだ。まだ。もっと抜かれてから。骨の髄まで軽くなるような、その瞬間を――。


 来た。


 首の痣。締めつけが、ふっとたわむ。指の先が奇妙に軽くなる。あの感覚。まぼろしでも、気のせいでもなかった。確かに来た。狙ったその瞬間に。


 シンはそれを逃さなかった。今度こそ、意識の真ん中でその一瞬を捉えきった。


 捉えた。


 ついに捉えた。逃げ水は、もう逃げなかった。


 だが。


 シンはその、捉えた一瞬の真ん中で、呆然とした。


 捉えて、どうする。


 その一瞬に、確かに何かがゆるんでいる。何かがいつもと違っている。それはわかる。掴める。だが、そのゆるんだ一瞬に、シンができることは何もなかった。


 血を数ミリ動かす。それがシンの力のすべてだった。ゆるんだ一瞬に、その数ミリを動かしてみる。動いた。いつも通り、数ミリ動いた。それだけだった。ゆるんでいようがいまいが、シンにできるのは、血を数ミリ動かすことだけ。


 その一瞬が何なのか。そのゆるみで何ができるのか。何もわからなかった。扉の前に立ったのは、わかる。だが、その扉の開け方を、シンは知らなかった。そもそも、それが扉なのかどうかすら。


 その夜、サイレント・ルームの中で、シンはダンに告げた。


「……捉えられた」


 ダンが顔を上げる。


「あの感覚が来る条件が、わかった。たくさん血を抜かれた日だ。狙えば、その瞬間を捉えられる。もう逃げない」


 言いながら、しかしシンの声は弾んでいなかった。


「でも、爺さん」シンはうつむいた。「捉えて、どうするんだ。捉えられた。それだけだ。その一瞬で、おれに何ができる。血を数ミリ動かすことしかできない。ゆるんでても、ゆるんでなくても同じだ。これが何なんだ。この一瞬が、いったい何だっていうんだ」


 シンは掘り当てた。掘り当てたのに、そこにあったのは、答えではなく、もっと大きな"なぜ"だった。


 ダンはしばらく黙って、シンを見ていた。


 それから、静かに言った。


「小僧。お前はいま、すごいことを言ってる。気づいてるか」


 シンは顔を上げた。


「"捉えられる。でも、どうすればいいかわからない"。それは行き詰まりじゃない。それは"次の問い"だ」ダンは言った。「掘り当てた奴だけが立てられる問いだ。お前より前に、この一瞬を狙って捉えられた奴が、この施設に一人でもいたと思うか」


 シンは答えなかった。


「いない」ダンは断じた。「俺もできなかった。お前はいま、誰も立ったことのない場所に立ってる。扉の前にな。開け方はまだわからん。だが、扉の前に立たなきゃ、開け方を探すこともできん」


 シンはその言葉を、暗がりの中で受け止めた。


 扉の前。開け方はわからない。だが、確かに立った。


 まだ、答えは出ない。この一瞬が何なのかは。血を数ミリしか動かせないこの手で、その扉をどうやって開けるのかは。


 ただ、シンは決めた。


 この扉の前から、もう動かない。開くまで。何年かかっても。


 その日から、シンの採血は変わった。


 ただ耐える時間でも、なくなった。あの"軽さ"を探す時間でもなくなった。いまやそれは、狙って捉えた一瞬の中で、閉ざされた扉を必死に手探りする時間になった。


 開け方は、まだ見えない。


 だが、扉はそこにある。


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