第12話「烙印」
記録をつけ始めて、ひと月ほどが過ぎた頃だった。
その日、いつもの採血の列が、様子が違った。
台のわきに、白衣の男がいつもより多く立っていた。手にそれぞれ、帳面や黒い石の板を持っている。奴隷たちは採血のあと、すぐには房へ戻されず、一列に並ばされた。
選別だ、とシンはすぐに悟った。
この施設では時折、こうして奴隷が"評価"される。番号を一人ずつ確かめ、身体を検め、鑑定の板をかざす。そして、使える個体か、使えなくなった個体かを選り分けていく。ロルフがあの危険区分へ送られたのも、こうした選別のあとだった。
シンは列の中で、目を伏せ、背を丸めた。従順な番号を演じる。誰の記憶にも、帳面にも残らないように。だが、その内側で、シンの目だけはいつものように伏せていなかった。
白衣の男たちが、一人ずつ奴隷を検めていく。
番号を読み上げる。板を額にかざす。淡い光が走る。文字が浮かぶ。それを帳面と照らし合わせる。手つきはどれも、荷物の検分と変わらなかった。
シンの番が来た。
黒い石の板が、額の前にかざされる。冷たい石の気配。板の表面に光が走り、文字が浮かぶ。
シンはそれを盗み見た。
浮かんだのは、いつかと同じ、あの文字だった。
【血液操作】。下級。戦闘能力なし。
鑑定の結果は、あの搬入の日から何一つ変わっていなかった。当たり前だ。スキルは生まれつきで、一生変わらない。それがこの世界の常識だった。血を数ミリ動かすだけ。はずれ。ゴミ。
白衣の男は、その文字を一瞥した。
そして、退屈そうに、隣の同僚に言った。
「またこいつか。【血液操作】。使い道がないな」
「ああ。前の選別でもそうだった」もう一人が帳面を繰りながら答える。「区分としては"低"だ。採血の効率も良くはない。正直、飼っておく値打ちがあるのか、微妙な個体だ」
飼っておく値打ち。
その言葉が、シンの胸の奥の石に冷たく触れた。だがシンは、顔色を変えなかった。ただ目を伏せ、聞いていた。聞いて、覚えていた。
最初の男が、鑑定の板を軽く振った。そして、面倒そうにこう漏らした。
「……まったく。この板も、不便なものだ」
「不便?」
「そうだろう。これは、いまの力しか映さん」男は板をうんざりしたように見た。「この子どもが五年後、十年後、どう化けるか。そんなことは何一つ映さん。"将来性"ってやつは、この板には測れんのだ。俺たちは"いま"の数字だけで選り分けるしかない」
シンの、伏せた目の奥が――ぴくり、と動いた。
この板は、いまの力しか映さない。将来性は測れない。
その言葉を、男はただの仕事の愚痴として口にした。この鑑定器の不便さをこぼしただけだった。だが、その何気ない一言が、シンの頭の中の、埃をかぶった何かをかすかに揺らした。
鑑定は、"いま"しか映さない。
――なら。
まだ、その先は繋がらなかった。ただ、その言葉が、頭の帳面のどこか奥の棚に、そっとしまい込まれた。いつか使えるかもしれない。そんな予感だけを残して。
「で、こいつはどうする」もう一人が言った。「区分"低"のまま置いとくか。それとも……」
最初の男が、シンの番号を帳面で確かめた。それから、少し考えるように間を置いた。
「……いや」男は言った。「効率の落ちた個体は、そろそろ整理の時期だ。この番号も"回送候補"に入れておけ。次の選別までに、上が判断するだろう」
回送候補。
その言葉の意味を、シンは知っていた。
危険区分への回送。ロルフが送られた、あの先へ。
あの、空っぽになったロルフの寝床。あの、へへ、という力ない笑い。「菓子だぞ、ちび。忘れんなよ」。あれと同じ場所へ。今度はシン自身が、送られようとしていた。
次は、無力では終わらせない。冬のあの夜、シンが胸の石の上にそっと置いた誓い。その誓いを試される時が、思っていたよりもずっと早く迫っていた。まだ、何の力もないうちに。まだ、何も掘り当てていないうちに。
シンの心臓が、静かに速くなった。だが、顔は動かさなかった。動かせば覚えられる。覚えられれば、面倒な個体だと思われる。いまはただの、おとなしいはずれの子どもでいなければならなかった。
「よし。次」
シンは選別の列から押し出された。
押し出される間際、最初の男が思い出したように、シンを呼び止めた。
「おい、そこの。そうだ、お前、ちょうどいい」男は、面倒な雑用を思い出した顔だった。「手が足りてなくてな。番号の棚卸しだ。台帳の整理を手伝え。読み書きは……まあ、できなくても、数は数えられるだろう」
シンは黙って頷いた。
逆らう理由はなかった。それに、番号の台帳。それが何なのかは、まだわからなかった。ただ、いつもと違うものは覚えておくべきだと、頭のどこかが告げていた。
その夜、サイレント・ルームの中で、シンはダンにその日のことを話した。回送候補に入れられたことも。鑑定の男の愚痴のことも。
ダンはしばらく黙って聞いていた。
回送候補、と聞いたとき、その落ちくぼんだ目がほんの一瞬鋭くなったのを、シンは見た。だがダンは、その話にはすぐには触れなかった。
代わりに、ダンはこう聞いた。
「その、鑑定の男の愚痴。もう一度言ってみろ」
「え……?」
「"将来性は測れん"。そう言ったんだな」
シンは頷いた。
ダンの口の端が、ほんの少し上がった。あの、面白がるような目だった。
「小僧。お前、いま、とんでもなく大事なことを、あの男からタダでもらったぞ」
シンは、意味がわからなかった。
「まだわからんでいい」ダンは言った。「だが覚えとけ。その言葉は、お前という人間の"値打ち"を、そっくりひっくり返す鍵になるかもしれん」
シンは暗がりの中で、その言葉を頭の帳面にしまい込んだ。
回送候補。飼っておく値打ち。将来性は測れない。
その日、シンが持ち帰ったものは三つ。
迫りくる危険区分の影と、まだ意味のわからない一つの鍵と、そして――明日から手をつける、番号の台帳という、正体不明の雑用だった。




