第11話「再現」
次の朝から、シンの採血が変わった。
いや、変わったのは採血ではない。抜かれる血の量も、針の冷たさも、目眩の白さも、何一つこれまでと同じだった。
変わったのは、シンの意識だった。
これまでシンは、採血の台ではただ目を閉じていた。抜かれ終えるまで耐える。それが生き延びる作法だった。だが、いまは違った。
シンは目を閉じたまま、全身の神経を研ぎ澄ませていた。
針が肘に沈む。血が抜かれていく。あの太いものが身体の奥を這っていく感覚。その一瞬。首の痣。締めつけがたわむ、あの瞬間を。
――来い。
シンは待った。息を殺し、指の先まで意識を張りつめて、あの"軽さ"が訪れるその瞬間を待った。
だが。
何も起きなかった。
その日は、ただ血を抜かれただけだった。痣はいつも通り、重く締めつけていた。あのたわむ感覚も、指先の軽さも、何一つ来なかった。
シンは房に戻ってから、天井を見上げた。
おかしい、と思った。あの感覚は確かにあった。何度も感じた。第九話のあの朝も――いや、それよりずっと前から、シンはそれを感じていたはずだった。気のせいだと流してきた、あの感覚を。
なのに、いざ捕まえようと意識を張ると、消える。
次の日も同じだった。シンは全神経を張りつめて待った。だが、来なかった。その次の日も、また次の日も。
――なんでだ。
シンは焦り始めた。
毎日、同じように血を抜かれている。同じ台で、同じように針を刺され、同じくらいの量を。条件は何一つ変わっていないはずだった。なのに、あの感覚はある日は来て、ある日は来ない。いや、意識して待つようになってからは、一度も来ていない。
まるで、こちらが身構えているのを見透かしているみたいに。
三日、四日と空振りが続くうちに、シンの中に、いやな考えが芽生え始めた。
――もしかして、最初から"気のせい"だったんじゃないか。
あの"軽さ"など、なかったのかもしれない。疲れと、寒さと、目眩が見せた、ただのまぼろし。それをシンが勝手に、"何かある"と思い込んだだけ。そう考えると、掘るという行為そのものが、ひどく馬鹿げたことに思えてくる。血を数ミリ動かすだけのはずれの子どもが、世界の"嘘"を掘る。笑い話だ。
それでも、シンは台に乗り続けた。意識を張り続けた。理由はうまく言えなかった。ただ、あの、ロルフのいない空っぽの寝床のことを思うと、やめるという選択肢だけは、なぜかそこにはなかった。
掘れ、とダンは言った。だが、掘る前に、その"不思議"そのものが指の間からこぼれ落ちていく。捕まえようとすると逃げる。逃げ水のようだった。
その夜、サイレント・ルームの中で、シンはうつむいて言った。
「……だめだ。捕まえられない」
ダンは黙って聞いていた。
「あの感覚は確かにあった。何度も感じたんだ。なのに、いざ待つと来ない。毎日、同じに抜かれてるのに。条件は何も変わってないのに」
シンの声には焦りが滲んでいた。せっかく掘る場所が決まったのに。せっかく方法を教わったのに。その入り口で、もうつまずいている。
ダンはしばらく間を置いて、それから静かに言った。
「小僧。一つ聞くぞ」
シンは顔を上げた。
「"条件は何も変わってない"。それは本当か」
「え……」
「お前は"毎日、同じに抜かれてる"と言った」ダンは言った。「だが、それはお前がそう思ってるだけじゃないか。本当に、毎日寸分たがわず同じか。抜かれる量は。時刻は。その日のお前の身体の具合は。前の日、どれだけ眠れたかは。全部同じだと言い切れるか」
シンは言葉に詰まった。
言い切れなかった。
抜かれる量。あれは技士によって違った。律儀な技士と、面倒くさがりの技士。ロルフのために、それを利用していたではないか。なら、量は日によって違う。時刻も、列の位置で前後する。その日の身体の具合。眠れたかどうか。何一つ"同じ"ではなかった。
シンは"同じ"だと思い込んでいただけだった。
「わかったか」ダンは言った。「お前は、"変わらない条件"の中で"変わる感覚"を捕まえようとして焦ってる。だが本当は、条件のほうも毎日変わってる。なら、やることは一つだ」
「……覚える」シンは掠れた声で言った。「感じた日と、感じない日。その日の条件を全部覚えて、見比べる」
ダンは初めて、小さく頷いた。
「そうだ。それが"掘る"ってことだ」
その夜から、シンの頭の中の帳面が動き始めた。
毎朝の採血で、シンは二つのことを同時にやった。一つは、あの"軽さ"が来るかどうかを待つこと。もう一つは、その日の"条件"を片端から覚えることだ。
どちらの技士に当たったか。列の何番目だったか。抜かれた血は多かったか、少なかったか。前の夜、眠れたか。腹は減っていたか。身体はだるかったか、そうでなかったか。
シンはそれを毎日、頭の帳面に書き込んだ。感じた日には丸を。感じない日には罰を。そして、その日の条件をその隣に。
最初の十日ほどは、何も見えなかった。丸と罰がばらばらに並んでいるだけだった。規則も、偏りも、何もない。ただの無意味な、記録の羅列。
シンはそれでも続けた。
二十日を過ぎた頃。
ある夜、頭の中の帳面をいつものように繰っていて、シンの指が止まった。
丸のついた日。あの"軽さ"をかすかにでも感じた日。それらの日に一つだけ、うっすらと共通しているものがあるような気がした。
まだ確信はなかった。気のせいかもしれなかった。偶然かもしれなかった。
だが確かに、そこに、かすかな偏りがあった。
シンは暗い天井を見上げた。心臓が静かに速くなっていた。
まだ、それが何なのかはわからない。あの"軽さ"が何なのかも。掘り当てたとは、とても言えない。
ただ、逃げ水だと思っていたものに、初めてうっすらと輪郭が見えた気がした。
条件がある。あれは気まぐれじゃない。何かの条件で来る。
シンはそっと右手の指を握った。
まだ、掘り始めたばかりだった。




