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スダマの鬼  作者:
8/31

理由

 いつものように、祀煙(しえん)は膳を運んでいた。

 決められた時間に、決められた場所へ。それは、もう日課になっていた。

 座敷牢へ続く廊下を進む。

 その先に、人影があった。祀煙はわずかに眉を寄せる。

 乱霧(らんぎり)だった。

 あの場所に、理由もなくいるような者ではない。

 座敷牢の前に立ち、固く閉ざされた格子戸を見つめている。

「何をしている」

 祀煙が声を掛ける。乱霧は振り返らなかった。

「近くで見ようと思って」

 何でもないことのように答える。そして、躊躇うことなく扉へ手を伸ばした。

 指先が引き手に触れる。

 その瞬間。

 ——がしゃん。

 廊下に、器の割れる音が響いた。

 膳が床に落ちていた。汁が板張りの床へ広がり、器の欠片が散らばる。

 祀煙は、それを見ていなかった。

 気付けば、乱霧の手首を掴んでいた。自分でも驚くほど、自然な動きだった。

 乱霧はゆっくりと視線を落とす。

 掴まれた手首。

 そして、床に落ちた膳。

 四つの目が細められる。

 祀煙は、そこで初めて自分が何をしたのか理解した。

 膳を落とした。今まで、一度もなかったことだった。

 届けるべきものは必ず届ける。

 それが祀煙だった。

 けれど、乱霧が扉へ手をかけたその瞬間。思考よりも先に、身体が動いた。

「開ける必要はない」

 祀煙は言った。乱霧は手首を掴まれたまま、祀煙を見る。

「中を見たいだけよ」

「必要ない」

「触れるつもりはないわ」

「必要ない」

 同じ言葉だった。けれど、今度はその言葉に迷いが混じっていた。

 乱霧はしばらく祀煙を見ていた。やがて、扉から手を離す。

「そう」

 乱霧は抵抗しなかった。それを確認して、祀煙もようやく手を離した。

 乱霧は床へ視線を落とす。

 割れた器。散らばった食事。

「あら」

 乱霧は呟いた。

「届けるはずだったものが、届かなかったわね」

 祀煙は何も言わず、床に散らばった膳を見ていた。

「ねえ、祀煙」

 乱霧が言う。

「今のも、必要だから?」

 祀煙は答えなかった。

 いつもなら、必要だからと、そう言えば済む。

 けれど、その言葉が、すぐには出てこなかった。




 夜。

 祀煙は自室へ戻っていた。

 余計なものは置かれていない部屋だった。灯火が一つ、静かに揺れている。

 祀煙は座したまま、その火を見つめていた。

 ——割れた器。床へ散らばった食事。そして、乱霧の手首を掴んだ自分の手。

 あの瞬間だけ、身体が先に動いた。何度思い返しても、その理由だけは分からない。

「入るぞ」

 声とほぼ同時に、遣戸が静かに開いた。

 乱霧だった。祀煙は視線だけを向ける。

「何の用だ」

「少し話をしましょう」

 乱霧は当然のように部屋へ入り、祀煙の向かいへ腰を下ろした。断りを入れることも、返事を待つこともない。

 それを咎めることも、祀煙はしなかった。

 昔からそうだった。

 しばらく、静かな時間が流れる。灯火の明かりだけが、二人の間を照らしていた。

「祀煙」

 乱霧が口を開く。

「お前は、あれを何だと思っている?」

 祀煙は乱霧を見る。

「あれとは」

「キミコ」

 その名を聞いても、祀煙の表情は変わらない。

「鬼だ」

 迷いのない答えだった。乱霧は小さく息を吐く。

「そう答えると思った」

「何が言いたい」

「お前はいつもそうね」

 乱霧は静かに祀煙を見る。

「分からないものを、分かる形にしてしまう」

「曖昧にしておく理由がない」

「そう」

 乱霧は頷いた。

「なら聞くわ」

 四つの瞳が祀煙を見据える。

「なぜ、一族の鬼どもはあれを恐れる?」

「異形だからだ」

「それだけ?」

 祀煙は答えない。

「なぜ、お前はあの座敷牢へ通い続ける?」

「必要だからだ」

 即答だった。乱霧は目を細める。

「また、それ」

「事実だ」

「ええ。お前にとっては、そうなのでしょうね」

 祀煙の眉がわずかに動く。

「……何が言いたい」

「その言葉は便利だということよ」

「……」

「何でも片付けられる。考えなくて済む」

「違う」

「そう?」

 乱霧は祀煙を見つめる。

「なら、答えて」

「あれがただの鬼ではないと分かっても、お前は、本当にそれだけで済ませられる?」

 沈黙が落ちた。

「あれは、鬼の形をしているだけ」

 乱霧は静かに言う。

「……山に宿るものに近い」

 祀煙は何も言わない。

「神性を持つもの」

 ——その言葉を聞いても、すぐには否定できなかった。

 一族があれを遠ざけた理由。

 座敷牢へ閉じ込められた理由。

 そして、自分があの場所へ向かい続けている理由。

 それらすべてが、別の意味を持つように思えた。

「お前は」

 乱霧が言う。

「あれに惹かれている」

「違う」

 祀煙は即座に否定する。

「必要だからだ」

 乱霧は少し黙った。

「……本当に、そればかりね」

「事実だ」

「そう」

 乱霧は目を伏せる。

「お前は嘘をついているつもりがない。だから厄介なのよ」

 祀煙は黙る。

「もし、それがただの本能なら?」

 乱霧の声は穏やかだった。

「もし、お前が自分の意思で選んでいると思っているものが、ただの眷属としての性質によるものなら?」

 祀煙の表情がわずかに揺らぐ。

「お前は、それでも納得するの?」

 答えはすぐには出なかった。

 いつもなら。

 必要だから。

 そう言えば済む。

 けれど、その言葉では、もう足りなかった。

「俺は」

 祀煙は静かに口を開く。

「ただ従っているだけのものではない」

 乱霧は何も言わない。

「俺があれの側にいる理由が、俺自身の意思ではないのなら」

 祀煙は拳を握る。

「それは、認められない」

 部屋に沈黙が落ちる。

 灯火が小さく揺れ、その影が二人の間を揺らした。

 祀煙は初めて、「必要」という言葉の外にあるものを探していた。

 乱霧は、何も言わなかった。

 灯火だけが、静かに揺れていた。


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