理由
いつものように、祀煙は膳を運んでいた。
決められた時間に、決められた場所へ。それは、もう日課になっていた。
座敷牢へ続く廊下を進む。
その先に、人影があった。祀煙はわずかに眉を寄せる。
乱霧だった。
あの場所に、理由もなくいるような者ではない。
座敷牢の前に立ち、固く閉ざされた格子戸を見つめている。
「何をしている」
祀煙が声を掛ける。乱霧は振り返らなかった。
「近くで見ようと思って」
何でもないことのように答える。そして、躊躇うことなく扉へ手を伸ばした。
指先が引き手に触れる。
その瞬間。
——がしゃん。
廊下に、器の割れる音が響いた。
膳が床に落ちていた。汁が板張りの床へ広がり、器の欠片が散らばる。
祀煙は、それを見ていなかった。
気付けば、乱霧の手首を掴んでいた。自分でも驚くほど、自然な動きだった。
乱霧はゆっくりと視線を落とす。
掴まれた手首。
そして、床に落ちた膳。
四つの目が細められる。
祀煙は、そこで初めて自分が何をしたのか理解した。
膳を落とした。今まで、一度もなかったことだった。
届けるべきものは必ず届ける。
それが祀煙だった。
けれど、乱霧が扉へ手をかけたその瞬間。思考よりも先に、身体が動いた。
「開ける必要はない」
祀煙は言った。乱霧は手首を掴まれたまま、祀煙を見る。
「中を見たいだけよ」
「必要ない」
「触れるつもりはないわ」
「必要ない」
同じ言葉だった。けれど、今度はその言葉に迷いが混じっていた。
乱霧はしばらく祀煙を見ていた。やがて、扉から手を離す。
「そう」
乱霧は抵抗しなかった。それを確認して、祀煙もようやく手を離した。
乱霧は床へ視線を落とす。
割れた器。散らばった食事。
「あら」
乱霧は呟いた。
「届けるはずだったものが、届かなかったわね」
祀煙は何も言わず、床に散らばった膳を見ていた。
「ねえ、祀煙」
乱霧が言う。
「今のも、必要だから?」
祀煙は答えなかった。
いつもなら、必要だからと、そう言えば済む。
けれど、その言葉が、すぐには出てこなかった。
夜。
祀煙は自室へ戻っていた。
余計なものは置かれていない部屋だった。灯火が一つ、静かに揺れている。
祀煙は座したまま、その火を見つめていた。
——割れた器。床へ散らばった食事。そして、乱霧の手首を掴んだ自分の手。
あの瞬間だけ、身体が先に動いた。何度思い返しても、その理由だけは分からない。
「入るぞ」
声とほぼ同時に、遣戸が静かに開いた。
乱霧だった。祀煙は視線だけを向ける。
「何の用だ」
「少し話をしましょう」
乱霧は当然のように部屋へ入り、祀煙の向かいへ腰を下ろした。断りを入れることも、返事を待つこともない。
それを咎めることも、祀煙はしなかった。
昔からそうだった。
しばらく、静かな時間が流れる。灯火の明かりだけが、二人の間を照らしていた。
「祀煙」
乱霧が口を開く。
「お前は、あれを何だと思っている?」
祀煙は乱霧を見る。
「あれとは」
「キミコ」
その名を聞いても、祀煙の表情は変わらない。
「鬼だ」
迷いのない答えだった。乱霧は小さく息を吐く。
「そう答えると思った」
「何が言いたい」
「お前はいつもそうね」
乱霧は静かに祀煙を見る。
「分からないものを、分かる形にしてしまう」
「曖昧にしておく理由がない」
「そう」
乱霧は頷いた。
「なら聞くわ」
四つの瞳が祀煙を見据える。
「なぜ、一族の鬼どもはあれを恐れる?」
「異形だからだ」
「それだけ?」
祀煙は答えない。
「なぜ、お前はあの座敷牢へ通い続ける?」
「必要だからだ」
即答だった。乱霧は目を細める。
「また、それ」
「事実だ」
「ええ。お前にとっては、そうなのでしょうね」
祀煙の眉がわずかに動く。
「……何が言いたい」
「その言葉は便利だということよ」
「……」
「何でも片付けられる。考えなくて済む」
「違う」
「そう?」
乱霧は祀煙を見つめる。
「なら、答えて」
「あれがただの鬼ではないと分かっても、お前は、本当にそれだけで済ませられる?」
沈黙が落ちた。
「あれは、鬼の形をしているだけ」
乱霧は静かに言う。
「……山に宿るものに近い」
祀煙は何も言わない。
「神性を持つもの」
——その言葉を聞いても、すぐには否定できなかった。
一族があれを遠ざけた理由。
座敷牢へ閉じ込められた理由。
そして、自分があの場所へ向かい続けている理由。
それらすべてが、別の意味を持つように思えた。
「お前は」
乱霧が言う。
「あれに惹かれている」
「違う」
祀煙は即座に否定する。
「必要だからだ」
乱霧は少し黙った。
「……本当に、そればかりね」
「事実だ」
「そう」
乱霧は目を伏せる。
「お前は嘘をついているつもりがない。だから厄介なのよ」
祀煙は黙る。
「もし、それがただの本能なら?」
乱霧の声は穏やかだった。
「もし、お前が自分の意思で選んでいると思っているものが、ただの眷属としての性質によるものなら?」
祀煙の表情がわずかに揺らぐ。
「お前は、それでも納得するの?」
答えはすぐには出なかった。
いつもなら。
必要だから。
そう言えば済む。
けれど、その言葉では、もう足りなかった。
「俺は」
祀煙は静かに口を開く。
「ただ従っているだけのものではない」
乱霧は何も言わない。
「俺があれの側にいる理由が、俺自身の意思ではないのなら」
祀煙は拳を握る。
「それは、認められない」
部屋に沈黙が落ちる。
灯火が小さく揺れ、その影が二人の間を揺らした。
祀煙は初めて、「必要」という言葉の外にあるものを探していた。
乱霧は、何も言わなかった。
灯火だけが、静かに揺れていた。




