必要
それから祀煙は、食事を運ぶ役目を自分で引き受けるようになった。
以前ならば、人間に任せていたことだった。
決められた時間に膳を運び、座敷牢の前に置く。それだけの役目。
けれど、あの日、その役目を担う人間はいなくなった。
廊下に残された膳。板張りの床に残った血の跡。
祀煙は、人間が死んだことを悲しんだわけではない。
ただ、届けるべきものが届かなかった。そのことが、気に入らなかった。
だから、自分が運ぶことにした。
「珍しいことをするのね」
渡殿の方から、声がした。祀煙は足を止める。
庭に面した渡殿に、乱霧がいた。
華美な衣を纏った女の鬼。
深い緑、紫、紅。鮮やかな色を重ねた衣には、金糸の刺繍が施されている。髪には、翡翠を連ねた飾り。
二本の角には、翡翠と金細工の飾りが施されていた。四つの瞳と同じ、深い緑色が朝日を受けて光る。
その装いは、人間の職人に作らせたものだった。けれど、乱霧は人間を好いているわけではない。
ただ、美しいものを好むだけだった。
「自分で膳を運ぶなんて」
乱霧の視線が、祀煙の手元へ落ちる。
「人間にさせればいいでしょう」
「できる者がいない」
乱霧は少し黙った。
「……そう」
祀煙が歩き出そうとする。
「随分と妙な言い方ね」
足を止める。
「何がだ」
乱霧は祀煙を見る。
「もう、誰も手を出さないでしょう」
乱霧は続ける。
「あれを見て、また同じことをする者がいるとは思えない」
「……」
「それでも、自分で運ぶのね」
「必要だからだ」
迷いのない答えだった。
乱霧は眼を細め、しばらく祀煙を見ていた。
その言葉を予想していたような、けれど、どこか確かめるような視線だった。
そして、わずかに息を漏らす。
「必要だから動く」
「必要だから選ぶ」
「必要だから切り捨てる」
四つの瞳が、祀煙を見る。
「お前はいつも、それで終わらせる」
責めるような声ではなかった。
ただ、長く祀煙を見てきた者だけが持つ、静かな確信があった。
「それ以外に何がある」
祀煙は答えた。乱霧は否定しなかった。
ただ、興味深そうに眺めていた。
祀煙が何かを隠しているわけではないことを、乱霧は知っていた。
本当に、それで納得しているのだ。
暫しの沈黙。
庭から風が抜ける。
木々の葉が揺れる音だけが、二人の間に残った。
ふと、乱霧が口を開く。
「あの鬼を潰したときは、少し驚いたわ」
祀煙の表情は変わらない。けれど、その言葉の先に何が続くのかを待っていた。
「お前が一族の者を手にかけるとは思わなかった」
「必要だった」
短い答え。
乱霧が小さく笑う。
「また、それ」
乱霧はわずかに口元を緩める。
眉を下げ、悲しみに暮れているような顔を作ってみせる。
「ああ、かわいそうに」
わざとらしい声だった。
「一族の鬼が一匹、潰されてしまった」
「……」
「悲しいことね」
「思ってもいないことを」
乱霧は答えなかった。ただ、口元に浮かべた笑みは消えなかった。
祀煙の言葉に、怒りも疑いもない。
本当に、必要だったから。ただそれだけだと思っている。
「ねえ、祀煙」
「何だ」
乱霧はすぐには続けなかった。視線を、祀煙の持つ膳へ落とす。
「お前は、いつまでそれを必要だと言い張るつもり?」
祀煙は眉を寄せる。
「何の話だ」
乱霧は答えず、膳を見つめた。
「食べもしないものを」
わずかな間。
「毎日運ぶというのに?」
祀煙は答えなかった。
ほんの僅かな沈黙。けれど、乱霧はそれを見逃さなかった。
「必要だからだ」
返ってきた答えは、いつもと同じだった。
乱霧は何も言わなかった。
「もう行く」
祀煙は歩き出した。
「ええ」
乱霧は渡殿に残った。
座敷牢に向かっていく背中を、静かに見送る。
自分でも気づいていないものを。
いつもの言葉で片付けようとしている。
それが、ひどく可笑しかった。
乱霧はわずかに目を細めた。
面白い。
そう思った。




