届かなかったもの
膳を抱えた人間は、静かな廊下を歩いていた。
決められた時間。決められた役目。
食事を作り、座敷牢の前まで膳を運び、その鬼がそこにいることを自らの目で確かめる。
それだけのことだった。
けれど、その役目を望む者はいない。
人間にとって、鬼は恐ろしい存在だった。人の姿に似ていても、人とは異なるもの。強大な力を持ち、気まぐれに人の命を奪うもの。
ただでさえ恐ろしい鬼たち。その彼らが、閉じ込める必要があると判断したものなど、人間には想像もつかないほど恐ろしかった。
それでも、決められた役割を果たすため、人間は毎日そこへ向かった。
廊下の角を曲がった時だった。
「また、あれに運ぶのか」
背後から声がした。
人間の足が止まる。
振り返ると、一体の鬼が立っていた。
人の姿に似てはいる。けれど、その身体は人のものより遥かに大きく、額には角があり、いくつもの瞳がこちらを見下ろしていた。
その視線が、膳へと落ちる。
「毎日毎日、ご苦労なことだ」
鬼は嗤った。
人間は膳を抱えたまま、頭を下げる。
「祀煙様からのご命令です」
鬼の目が細められる。
「そうか」
短い返事だった。
「あの鬼へ、毎日食事を運ばせているとはな」
人間は答えなかった。
鬼の手が伸びる。膳へ向かって。
「お待ちください」
人間は反射的に膳を抱え直した。その腕は、わずかに震えていた。
恐ろしかった。
それでも、手を放すことはできなかった。
「届けなければなりません」
「命令だからか」
人間は、震える声で答えた。
「……はい」
鬼はしばらく人間を見つめた。
鬼の命令に従うことは、この屋敷では当然のことだった。
けれど、祀煙が、あの鬼へ毎日食事を運ばせ続けていることが、この鬼には不思議だった。
次の瞬間。鬼の手が、人間へ伸びた。
悲鳴は、長くは続かなかった。
抱えていた膳が床へ落ちる。
器が割れ、白い飯が散らばる。
汁が板張りの床へ広がった。
鬼は気にする様子もなく、人間を喰らった。
やがて、廊下に静けさが戻る。
そこには、もう人の姿はなかった。
ただ、床に落ちた膳だけが、そこに残されていた。
その日の夕刻、祀煙はいつものように座敷牢へ向かった。
けれど、格子の外に置かれているはずの膳がなかった。
キミコは変わらず、畳の上に座っていた。背を伸ばし、正面を見つめている。何も変わった様子はない。
祀煙は、しばらくその場に立っていた。
食事が届いていない。それだけのことだった。
けれど、毎日同じ時間に運ばれていたものが、今日はない。その違和感を、祀煙は見過ごせなかった。
食事を運ぶ人間には、決められた役目があった。
座敷牢の前まで膳を運ぶこと。そして、その鬼がそこにいることを自らの目で確かめること。
誰も、格子の中へ手を入れようとはしなかった。キミコを恐れていたからだ。
祀煙だけは違った。
人間が恐れることに興味はない。気にかかったのは、果たされるはずの役目が途切れたことだけだった。
祀煙は座敷牢を離れ、屋敷の中を探った。
やがて、廊下の途中で、それを見つけた。
落とされた膳。こぼれた食事。割れた器。板張りの床に残る血の跡。
その傍らには、引き裂かれた衣服の切れ端が落ちていた。
祀煙は、廊下の先へ視線を向けた。そして、歩き出した。
ほどなくして、屋敷の一角で、一体の鬼を見つけた。
そこは、鬼たちが酒宴に使う広間だった。
並べられた酒器。広間に漂う酒の香り。壁際に置かれた調度品。
周囲では、他の鬼たちが酒を酌み交わしていた。
笑い声が響く中。柱や床には、消えきらぬ血の跡が残っていた。
それは、この場所で繰り返されてきたことを物語っていた。
その広間の中で見つけた鬼は、何事もなかったかのように座っていた。
祀煙の姿を見ると、口元を歪める。
「どうした。お前も呑むか」
祀煙は答えなかった。ただ、その鬼を見つめる。
「お前か」
鬼は首を傾げた。
「何の話だ」
「人間を殺したな」
一瞬の沈黙。
やがて鬼は笑った。
「それがどうした」
悪びれる様子はなかった。
「少し遊んだだけだ」
その言葉に、祀煙の表情が消える。
「遊んだ」
低い声が落ちる。
「たかが人間だろう」
鬼がそう続けた瞬間。
部屋の空気が変わった。
どこからともなく、薄い煙が流れ込んでくる。
白くも黒くもない。ただ、そこにあるだけの煙。
けれど、その場にいた鬼たちは誰も動けなかった。
息苦しいわけではない。視界を奪われているわけでもない。
それでも、本能が告げていた。
これは、触れてはいけないものだと。
祀煙が一歩踏み出した。
ただ、それだけだった。
次の瞬間、鬼の身体は巨大な何かに圧し潰されたように床へ叩き伏せられた。
畳が軋む。同時に、鬼の身体から骨の軋む音が響いた。
膝が砕け、腕はあらぬ方向へ折れ曲がる。
喉の奥から溢れた血が、畳へ滴り落ちる。
指先が畳を掻く。
それでも、身体を起こすことはできない。
畳には、深く刻まれた異様な跡が残っていた。
大きな身体を誇る鬼が、まるで抗う術もないかのように床へ沈んでいく。
祀煙の表情は変わらなかった。
ただ、静かにその鬼を見下ろしていた。
何が起きたのか。その場にいた誰にも分からなかった。
祀煙だけが、それを知っていた。
「二度と」
静かな声だった。
「キミコのもとへ届くものを、奪うな」
部屋に満ちていた煙が、ゆっくりと薄れていく。
後に残ったのは、畳ごと圧し潰された鬼の亡骸と、その場に佇む祀煙だけだった。
広間から、音が消えていた。
酒を酌み交わしていた鬼たちは、誰ひとり言葉を発しない。
祀煙が一族の者へその力を向けることなど、今までなかった。
まして、その理由が座敷牢に閉じ込められた小さな鬼のためだとは。
祀煙自身にも、まだ分かっていなかった。
なぜ、これほどまでに怒りが湧いたのか。
人間が一匹殺されたからではない。
それだけならば、祀煙は怒ることなどなかった。
毎日同じ場所に運ばれていたもの。キミコへ届くはずだったもの。
それが、何の意味もない戯れによって壊された。
そのことだけが、どうしようもなく許せなかった。




