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スダマの鬼  作者: 肉
51/52

明日

 声のした方へ向かう。

 さっきまで足音を忍ばせていたのに、歩みが速くなる。

 格子を一つ通り過ぎる。

 その先。

 壁際に、人影があった。

「銀秋」

 銀秋は膝を立てて座っていた。

 壁へ背を預け、こちらを見ている。

 顔には疲れが浮かんでいた。

 それでも、顔に傷はない。

 血も見えない。

 キミコは格子の前で足を止めた。

「……何で来た」

「会いに来た」

「帰れ」

 キミコは帰らなかった。

 格子に手を添え、銀秋を見る。

「怪我してない?」

「してねえよ」

「本当?」

「本当だ」

「殴られてない?」

「ない」

 顔。

 首元。

 袖から出た手。

 見えるところを、順に確かめる。

 銀秋は眉を寄せたが、目を逸らさなかった。

「良かった」

 ようやく、少し息が吐けた。

 銀秋が額を押さえる。

「良くねえよ」

「何で?」

「お前、どうやって入った」

「塀、越えた」

「……お前な」

「昼は入れてくれなかった」

「昼も来たのか」

「うん」

「何してんだよ……」

「会わせてって言った」

「断られただろ」

「うん」

「だからって忍び込むなよ」

「会いたかった」

 銀秋の口が閉じた。

「捕まったって聞いたから」

「……」

「店にもいなかった」

「……」

「どこにいるか分からなかった」

 銀秋が目を伏せる。

「餅屋のおばちゃんに、ここにいるって聞いた」

「……そうか」

「昼、門にいた人が、怪我してないって言った」

「してねえよ」

「でも、見ないと分からない」

 キミコはもう一度、銀秋の顔を見た。

 銀秋はしばらく黙っていた。

 それから、通路へ目を向ける。

「誰かに見られたか」

「見られてない」

「なら、見つかる前に帰れ」

「一緒に帰ろう」

 銀秋の目が戻った。

「……何?」

「店に帰る」

「駄目だ」

「ここ、開けられる」

 キミコは格子を握った。

 太い木だった。

 けれど、壊すだけなら難しくない。

 一言でも済む。

 手に力を込めてもいい。

「壊すなよ」

 銀秋が言った。

 キミコはその顔を見る。

「まだ壊してない」

「その手を離せ」

「銀秋も一緒に来て」

「行かねえ」

「何で?」

 銀秋は膝の上で手を握った。

「昨日のこと、忘れたのか」

「忘れてない」

「俺は子供を攫った」

「うん」

「お前に食わせようとした」

「うん」

「そのせいで捕まったんだ。分かるだろ」

「分かる」

 キミコは格子の向こうを見る。

 狭い場所だった。

 店の奥とは違う。

 銀秋の隣に座ることもできない。

「でも、ここ開けたら帰れる」

「帰れりゃいいって話じゃねえんだよ」

「帰りたくないの?」

「……」

 銀秋は答えなかった。

「銀秋」

「俺はここにいる」

「店に帰りたくない?」

 銀秋の眉が寄った。

 口を開き、また閉じる。

「帰りてえよ」

 低い声だった。

「帰りてえに決まってるだろ」

 キミコの指が少し緩んだ。

「じゃあ」

「それでも、帰っちゃ駄目なんだ」

 銀秋は顔を上げた。

「俺がやったことだ。逃げて、なかったことにはできねえ」

「なかったことにはならない」

「そうだ」

「私も覚えてる」

「……」

「嫌だった」

 銀秋の目が伏せられた。

「分かってる」

「でも、銀秋は好き」

 銀秋は動かなかった。

「一緒にいたい」

 顔が歪んだ。

 ほんの少しだった。

 それでも、キミコには分かった。

「……言うな」

「昨日も言った」

「分かってる」

「銀秋も、一人は嫌でしょう」

「キミコ」

「前に言ってた」

「覚えてるよ」

 銀秋は息を吐いた。

 顔を伏せたまま、しばらく何も言わなかった。

 キミコは待った。

 格子からは、手を離さなかった。




「捕まったって聞いて、嫌だった」

 銀秋が顔を上げる。

「店にいなくて」

「……」

「呼んでも返事がなくて」

「……悪かった」

「何で謝るの?」

「心配させたからだよ」

「だったら、一緒に帰って」

 銀秋はゆっくり首を振った。

「それはできねえ」

「できる」

「俺が帰らねえんだ」

 キミコは黙った。

 銀秋を見る。

 それから、二人の間にある格子を見た。

「……こんなもの」

 指に力が入る。

「おい」

 木が小さく軋んだ。

「壊せる」

「やめろ」

 銀秋が立ち上がった。

 格子へ近づき、向こう側から手を伸ばす。

 キミコの手首を掴んだ。

「やめろ」

 声は低かった。

 手に力が入っている。

 キミコはその手を見た。

「一緒に帰りたい」

「……俺も、お前といたかったよ」

「だったら」

「だから、こんなことになったんだろ」

 キミコが顔を上げる。

 銀秋は手首を掴んだまま、俯いていた。

「お前がいなくなるのが怖くなって」

「うん」

「どこにも行かせたくなくなって」

「うん」

「最後には、子供を攫った」

 銀秋の指が、キミコの手首へ食い込む。

「泣いてたんだ」

「……」

「放せって、もがいてた」

「うん」

「それでも連れてきた。お前が食うかもしれねえって、分かってて」

 キミコは銀秋を見る。

「食べなかった」

「お前が止めたからだろ」

 銀秋が顔を上げた。

「助かったのは、お前が帰したからだ」

「うん」

「俺は、差し出したんだよ」

 その声が、僅かに震えた。

「子供を帰したから、それで済んだことにしちゃ駄目なんだ」

「……」

「俺が、そう思っちゃ駄目なんだよ」

 キミコは少し考えた。

「もうしないでしょう」

 銀秋は答えなかった。

「銀秋」

「……したくねえよ」

「じゃあ」

「けど、昨日までだって、するつもりなんかなかった」

 キミコの口が閉じる。

 銀秋は目を逸らさなかった。

「それでもやった」

「……」

「また怖くなった時に、何もしねえって言い切れねえんだ」

「私、いるよ」

 銀秋の顔がまた歪む。

「いるって言ってるだろうが。お前は、ずっと」

 声が少し大きくなった。

 銀秋は口を閉じ、通路へ目を向けた。

 しばらく待つ。

 誰も来ない。

 次に口を開いた時には、声を落としていた。

「お前が言ってくれてたのに、俺は勝手に怖くなったんだよ」

 キミコは黙った。

「お前が悪かったわけじゃねえ」

「……」

「俺が、駄目にした」

 銀秋は額を格子へ寄せた。

 掴んでいた手から、少し力が抜ける。

「だから、俺はここにいる」

「いつまで?」

 銀秋が動かなくなった。

「いつ帰るの?」

「……帰らねえ」

「ずっと?」

 銀秋は答えなかった。

 キミコはその顔を見ていた。

「ずっと、ここにいるの?」

 銀秋は目を伏せた。

「お前は、もう来るな」

「嫌」

「キミコ」

「また会いに来る」

「もう、俺に構うな」

「嫌」

「他のとこへ行け」

「嫌」

「お前なら、どこへでも行けるだろ」

「銀秋といる」

 銀秋が顔を上げた。

 キミコはまっすぐ見ていた。

 一つしかない目が、少しも逸れない。

「一緒に帰ろう」

 銀秋は何も言わなかった。

「帰って、また一緒にいる」

 格子を握る手に、力が戻る。

 これさえなければ、銀秋に触れられる。

 腕を引いて、連れて帰れる。

 店へ戻れる。

 木が軋んだ。

「キミコ、やめろ!」

 銀秋が手首を強く引いた。

 キミコの手が止まる。

 声が、暗い通路へ響いていた。

 外で物音がした。

「何だ?」

 銀秋が顔を向ける。

 足音がする。

 もう一人、何か言った。

「こっちだ」

 キミコも戸の方を見る。

 足音が近づいてくる。

「行け」

 銀秋が囁いた。

「嫌」

「見つかる」

「捕まらない」

「分かってる。お前なら逃げられる」

 銀秋はキミコの手首を掴み直した。

「だから、誰にも何もせずに帰れ」

「銀秋は」

「俺は残る」

「嫌」

「頼む」

 キミコは銀秋を見た。

「格子も壊すな。俺を連れ出そうとするな」

「……」

「俺が嫌だって言ってるんだ」

 キミコの指が緩んだ。

 銀秋はその手を格子から外した。

 戸の隙間から、灯りが差した。

 細い光が揺れていた。

「誰かいるのか」

 キミコは戸を見る。

 声は外からだった。

 まだ、男たちは中へ入っていない。

「早く」

 銀秋が手を離す。

 キミコは動かなかった。

「また来る」

「来るな」

「来る」

「キミコ」

「また会いに来る」

 銀秋が何か言おうとした。

 その顔を見たまま、キミコは一歩下がる。

「死なないで」

 返事はなかった。

「銀秋」

「……行け」

 キミコはようやく背を向けた。

 来た道を戻る。

 格子を通り過ぎる。

 入ってきた戸が見えた。

 外から足音が近づいている。

 キミコは戸を開け、外へ出た。

 こちらへ向かってくる男たちの灯りが見えた。

 すぐに建物の陰へ駆け込む。

「おい!」

 後ろで声がした。

 キミコは振り返らなかった。

 庭を横切る。

 塀へ手をかけ、一息で越えた。

 通りへ降りる。

 そのまま走った。

 背後で、人を呼ぶ声がしていた。




 銀秋は、格子の前に立っていた。

 キミコの姿はもう見えない。

 灯りを持った男が近づいてくる。

「今、誰かいたな」

 銀秋は答えなかった。

 男は格子の向こうを照らす。

 銀秋の顔。

 手元。

 牢の中。

 それから、格子へ灯りを寄せた。

「何をしていた」


 銀秋は格子から手を離した。

「……俺は出てねえよ」

「誰が来た」

「……」

 男が声を強めた。

 銀秋は黙っていた。

 外から別の声がする。

 塀を越えた。

 姿を見失った。

 そんな言葉が聞こえた。

 男は銀秋を睨み、格子と戸締まりを確かめた。

 もう一度問い詰めても、銀秋は答えなかった。

 やがて、男は舌打ちをして離れていった。

 灯りが遠ざかる。

 外では、まだ人が動いていた。

 銀秋は壁際へ戻った。

 腰を下ろし、膝を立てる。

 格子の向こうを見る。


 さっきまで、キミコがいた。


 会いたかったと言った。

 一緒に帰ろうと言った。

 死なないでと言った。

 帰りたいと、何度も。

「……」

 銀秋は顔を伏せた。

 帰りたかった。

 あの店へ、キミコと。

 朝になれば戸を開ける。

 隣にキミコがいる。

 客が来る。

 飯を食う。

 夜になれば、一緒に眠る。

 そんな日が、また来るような気がした。

 格子の向こうから声をかけられた時、一緒に帰ろうと言われた時、ほんの少しだけ。

 銀秋は膝の上で手を握った。

 まだ、キミコの手首に触れた感触が残っていた。

 しばらくして、顔を上げる。

 通路には誰もいなかった。

 キミコも、もういない。

 聞かれることはない。

 銀秋は小さく息を吐いた。

「……幸せだったよ」

 返事はなかった。




 屋敷から離れたところで、キミコは足を止めた。

 振り返る。

 塀の向こうに、灯りが見えた。

 人の声がしている。

 銀秋はあの中にいる。

 自分からは出てこない。

 一緒には帰らないと言った。

 キミコは自分の手首に触れた。

 もう、銀秋の手はない。

「銀秋」

 小さく呼ぶ。

 返事はなかった。

 それでも、すぐには離れなかった。




 翌日も、キミコは屋敷へ行った。

 昼間、門で会いたいと言った。

 男はキミコを見るなり、顔を険しくした。

「昨日の奴か」

「銀秋に会いたい」

「帰れ」

 門の奥から、別の男も出てきた。

 キミコはその向こうを見る。

 銀秋は見えなかった。

 夜になって、屋敷の裏手へ回った。

 前に越えた塀の下に、男が二人立っていた。

 通りを見張っている。

 キミコは物陰で足を止めた。

 しばらく待つ。

 一人が塀に沿って歩き出した。

 けれど、もう一人は残っている。

 これでは、塀へ近づけば見つかる。

「動くな」

 そう言えば、二人とも止められる。

 その間に塀を越えればいい。

 けれど、銀秋は言った。

『誰にも何もせずに帰れ』

 また騒ぎになれば、銀秋は嫌がる。

 キミコは物陰に留まった。

 誰もいなくなるのを待った。

 夜が深くなっても、そこには人がいた。




 その次の日も行った。

 昼は門で断られた。

 夜には、違う場所から近づいた。


 塀へ手をかけようとした時、中から声がした。

「誰かいるのか」

 キミコは手を下ろした。

 足音が近づいてくる。

 見つかる前に離れた。




 また次の日。

 昼から寺の大木にいた。

 夜になるのを待った。

 人が減る。

 通りが静かになる。

 塀のそばにいた男が、屋敷の奥へ歩いていく。

 もう少し。

 もう少し待てば。

 枝へ手をついたところで、別の男が来た。

 キミコは動きを止める。

 その男は塀の近くに立ち、辺りを見回した。

「……銀秋」

 声は届かなかった。




 それから、昼は山で過ごすようになった。

 銀秋の店には戻らなかった。

 銀秋がいないと分かっている場所へ、帰る気にはなれなかった。

 屋敷の門へも、行かなくなった。

 何度頼んでも、会わせてはもらえなかった。

 日が暮れれば、また行く。

 それまでは、木の根元に座っていた。

 木々の隙間から空を見て、暗くなるのを待った。

 夜になると京へ下りた。

 屋敷の裏手へ回る。

 人がいれば待つ。

 近づけなければ、次の夜を待った。

 いつまで牢にいるのかは知らなかった。

 何日経てば出てくるのかも、分からなかった。

 銀秋は、帰らないと言った。

 ずっと、あの牢にいるのだと思っていた。

 店には帰らない。

 けれど、会いに行けば、そこにいる。


 病気になれば治せばいい。

 怪我をしても治せばいい。

 だから、会わなければならなかった。


 今日会えなくても、明日また行く。

 明日も駄目なら、その次の日に行く。


 今度会えたら、もう一度聞こうと思った。

 本当に帰らないのか。

 一緒に帰っては駄目なのか。


 銀秋はあそこにいる。

 話すことは、まだできる。

 そう思っていた。




 何日目だったのか。

 キミコ自身も、もう数えていなかった。

 その日も、キミコは山にいた。

 木々の間に差す光が、少しずつ傾いていく。

 そろそろ下りようと思った。

 立ち上がる。

 そこで、違和感があった。

 キミコは自分の手を見た。

 指が長い。

 さっきまでより、少し。

「……?」

 手を開く。

 握る。

 見慣れた手と違う。

 顔を上げた。

 目線が高い。

 立ち上がった時より、地面が遠くなっている。


「嫌だ」


 声が漏れた。


 肩が広くなる。

 腕が伸びる。

 脚も。

 身体が少しずつ大きくなっていく。


「いやだ」


 キミコは自分の腕を掴んだ。

 強く。

 変わっていく身体を押さえようとした。


「いやだ」


 指に力が入る。

 爪が皮膚へ食い込んだ。

 けれど、止まらない。


「戻らないで」


 声が低かった。


 キミコは自分の身体を抱きしめた。

 小さくなるように。

 縮むように。

 腕で強く締めつける。


 爪の下から血が滲んだ。

 白い小袖に落ちる。


「嫌だ」

「いやだ」


 それでも、背が伸びる。

 身体つきが変わる。

 銀秋と暮らし始めてから、少しずつ小さくなった身体。

 銀秋より小さくなった身体。


 それが戻っていく。


 最初に会った頃のように。

 上背のある、男の姿へ。


「銀秋」


 キミコは腕を抱いたまま、名前を呼んだ。


「銀秋」


 返事はなかった。


 やがて、変化が止まった。

 白い小袖も、身体に合わせて大きくなっていた。

 長い手足。

 大きな身体。

 銀秋が見上げていた頃と、よく似た姿だった。


 キミコは自分の手を見る。


「……嫌だ」


 もう一度言った。

 キミコは自分の身体を抱いたまま立っていた。


 銀秋に会えば、戻るかもしれない。

 一瞬、そう思った。


 今日。

 今から、牢へ行けばいい。

 銀秋はそこにいる。

 顔を見て、声を聞いて。

 触ってもらえば。


 けれど、分かっていた。


 離れていても、この身体は変わらなかった。

 山にいた夜も。

 会えずに待っていた間も。

 銀秋が望んだ姿のままだった。


 それが、今、戻った。


 もう、この姿を望む銀秋がいない。


「……いやだ」


 キミコは首を振った。


 帰らないと、銀秋は言った。

 それでも、会えると思っていた。

 今日会えなくても、明日には会えると思っていた。


 その明日が、もうない。


 キミコは京のある方を見た。


「銀秋」


 呼んでも、届かない。

 塀があるからではない。

 遠いからでもない。


 もう、返事をする銀秋がいない。

 自分の手を見る。

 大きいままだった。


 分かっていた。

 分かりたくなかった。


 キミコは身体を抱く腕に、もう一度力を込めた。

 涙は出なかった。





 夜になってから、キミコは歩き出した。

 山を下り、京へ入る。

 向かったのは、銀秋の店だった。

 何日も近づかなかった道を歩く。

 通りには誰もいない。

 見慣れた店が見えた。

 戸は閉まっていた。

 誰が閉めたのか、キミコには分からなかった。

 その前で足を止める。

 しばらく見ていた。

「銀秋」

 呼んだ。

 返事はない。

 戸へ手をかけ、開けた。

 中は暗かった。

 誰もいない。

 帳場がある。

 棚がある。

 奥には、いつも二人でいた座敷がある。

 銀秋だけがいない。

 キミコは店へ入った。

 帳場の横を通る。

 今の目の高さから見ると、何もかも少し低かった。

 奥へ行く。

 衣を置いていた場所に膝をついた。

 何枚も、きちんと畳まれて積まれている。

 祀煙が買ってくれたものだった。

 その一番上に、一枚だけ違う色がある。

 淡い薄紅の小袖。

 銀秋が買ってくれたものだった。

 キミコはそれを手に取った。

 広げてみる。

 今の身体には小さい。

 ずっと前に、銀秋が選んだものだった。

 キミコはしばらく見ていた。

 それから、胸元へ引き寄せた。

「銀秋」

 また呼んだ。

 返事はなかった。

 キミコは薄紅の小袖を抱いたまま、残った衣を見る。

 祀煙が買ってくれた衣。

 何枚もある。

 キミコは薄紅の小袖をもう一度畳んだ。

 積まれている衣の一番上へ戻す。

 それから、全部まとめて抱えた。

 片手の人差し指で、ゆっくりと空間を裂く。

 そこに開いた何もないところへ、一歩踏み出す。

 

 白い空間だった。

 どこまでも白い。

 空も壁もない。

 キミコは衣を抱えたまま、その中を歩いた。

 しばらくして、足を止める。

 しゃがみ込んだ。

 抱えていた衣を、そっと下ろす。

 崩れかけたところを手で直した。

 一枚ずつ、端を揃える。

 最後に、一番上にある薄紅の小袖へ触れた。

 布を撫でる。

 袖の端を整える。

 キミコはしばらく、その前に座っていた。

「銀秋」

 白い空間にも、返事はなかった。

 手を離す。

 立ち上がった。

 もう一度、積まれた衣を見る。


 祀煙が買ってくれたものも。

 銀秋が買ってくれたものも。


 全部、そこにある。


 キミコは白い空間を出た。



 店の奥へ戻る。

 衣を置いていた場所には、もう何もなかった。

 キミコはそこを見た。

 店の中を見回す。


 八年。

 ここで暮らした。


 飯を食べた。

 眠った。

 口付けをした。

 喧嘩もした。

 銀秋に怒られた。

 銀秋が笑った。


 いつも銀秋がいた。


 キミコは表へ戻った。

 戸口に、藤の鉢がある。

 花房が垂れていた。

 いつもと同じ藤色だった。

 キミコはその前で止まった。

 片手を伸ばす。

 花房に触れる。

 花が僅かに揺れた。

 それから、手を離した。

 何も言わなかった。

 店を出る。

 夜の京を歩いていく。

 一度も振り返らなかった。

 やがて、その姿も暗がりに消えた。




 銀秋も、キミコも、店には戻らなかった。

 戸口には藤の鉢が残った。

 春も。

 夏も。

 秋も。

 冬も。

 それまで何年もの間、絶えることなく花をつけていた藤だった。

 数日して、花が一つ落ちた。

 それから、また一つ。

 藤色の花房は少しずつ減っていった。

 新しい花はつかなかった。

 葉も落ちた。

 枝も乾いた。


 やがて、藤は枯れた。

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