明日
声のした方へ向かう。
さっきまで足音を忍ばせていたのに、歩みが速くなる。
格子を一つ通り過ぎる。
その先。
壁際に、人影があった。
「銀秋」
銀秋は膝を立てて座っていた。
壁へ背を預け、こちらを見ている。
顔には疲れが浮かんでいた。
それでも、顔に傷はない。
血も見えない。
キミコは格子の前で足を止めた。
「……何で来た」
「会いに来た」
「帰れ」
キミコは帰らなかった。
格子に手を添え、銀秋を見る。
「怪我してない?」
「してねえよ」
「本当?」
「本当だ」
「殴られてない?」
「ない」
顔。
首元。
袖から出た手。
見えるところを、順に確かめる。
銀秋は眉を寄せたが、目を逸らさなかった。
「良かった」
ようやく、少し息が吐けた。
銀秋が額を押さえる。
「良くねえよ」
「何で?」
「お前、どうやって入った」
「塀、越えた」
「……お前な」
「昼は入れてくれなかった」
「昼も来たのか」
「うん」
「何してんだよ……」
「会わせてって言った」
「断られただろ」
「うん」
「だからって忍び込むなよ」
「会いたかった」
銀秋の口が閉じた。
「捕まったって聞いたから」
「……」
「店にもいなかった」
「……」
「どこにいるか分からなかった」
銀秋が目を伏せる。
「餅屋のおばちゃんに、ここにいるって聞いた」
「……そうか」
「昼、門にいた人が、怪我してないって言った」
「してねえよ」
「でも、見ないと分からない」
キミコはもう一度、銀秋の顔を見た。
銀秋はしばらく黙っていた。
それから、通路へ目を向ける。
「誰かに見られたか」
「見られてない」
「なら、見つかる前に帰れ」
「一緒に帰ろう」
銀秋の目が戻った。
「……何?」
「店に帰る」
「駄目だ」
「ここ、開けられる」
キミコは格子を握った。
太い木だった。
けれど、壊すだけなら難しくない。
一言でも済む。
手に力を込めてもいい。
「壊すなよ」
銀秋が言った。
キミコはその顔を見る。
「まだ壊してない」
「その手を離せ」
「銀秋も一緒に来て」
「行かねえ」
「何で?」
銀秋は膝の上で手を握った。
「昨日のこと、忘れたのか」
「忘れてない」
「俺は子供を攫った」
「うん」
「お前に食わせようとした」
「うん」
「そのせいで捕まったんだ。分かるだろ」
「分かる」
キミコは格子の向こうを見る。
狭い場所だった。
店の奥とは違う。
銀秋の隣に座ることもできない。
「でも、ここ開けたら帰れる」
「帰れりゃいいって話じゃねえんだよ」
「帰りたくないの?」
「……」
銀秋は答えなかった。
「銀秋」
「俺はここにいる」
「店に帰りたくない?」
銀秋の眉が寄った。
口を開き、また閉じる。
「帰りてえよ」
低い声だった。
「帰りてえに決まってるだろ」
キミコの指が少し緩んだ。
「じゃあ」
「それでも、帰っちゃ駄目なんだ」
銀秋は顔を上げた。
「俺がやったことだ。逃げて、なかったことにはできねえ」
「なかったことにはならない」
「そうだ」
「私も覚えてる」
「……」
「嫌だった」
銀秋の目が伏せられた。
「分かってる」
「でも、銀秋は好き」
銀秋は動かなかった。
「一緒にいたい」
顔が歪んだ。
ほんの少しだった。
それでも、キミコには分かった。
「……言うな」
「昨日も言った」
「分かってる」
「銀秋も、一人は嫌でしょう」
「キミコ」
「前に言ってた」
「覚えてるよ」
銀秋は息を吐いた。
顔を伏せたまま、しばらく何も言わなかった。
キミコは待った。
格子からは、手を離さなかった。
「捕まったって聞いて、嫌だった」
銀秋が顔を上げる。
「店にいなくて」
「……」
「呼んでも返事がなくて」
「……悪かった」
「何で謝るの?」
「心配させたからだよ」
「だったら、一緒に帰って」
銀秋はゆっくり首を振った。
「それはできねえ」
「できる」
「俺が帰らねえんだ」
キミコは黙った。
銀秋を見る。
それから、二人の間にある格子を見た。
「……こんなもの」
指に力が入る。
「おい」
木が小さく軋んだ。
「壊せる」
「やめろ」
銀秋が立ち上がった。
格子へ近づき、向こう側から手を伸ばす。
キミコの手首を掴んだ。
「やめろ」
声は低かった。
手に力が入っている。
キミコはその手を見た。
「一緒に帰りたい」
「……俺も、お前といたかったよ」
「だったら」
「だから、こんなことになったんだろ」
キミコが顔を上げる。
銀秋は手首を掴んだまま、俯いていた。
「お前がいなくなるのが怖くなって」
「うん」
「どこにも行かせたくなくなって」
「うん」
「最後には、子供を攫った」
銀秋の指が、キミコの手首へ食い込む。
「泣いてたんだ」
「……」
「放せって、もがいてた」
「うん」
「それでも連れてきた。お前が食うかもしれねえって、分かってて」
キミコは銀秋を見る。
「食べなかった」
「お前が止めたからだろ」
銀秋が顔を上げた。
「助かったのは、お前が帰したからだ」
「うん」
「俺は、差し出したんだよ」
その声が、僅かに震えた。
「子供を帰したから、それで済んだことにしちゃ駄目なんだ」
「……」
「俺が、そう思っちゃ駄目なんだよ」
キミコは少し考えた。
「もうしないでしょう」
銀秋は答えなかった。
「銀秋」
「……したくねえよ」
「じゃあ」
「けど、昨日までだって、するつもりなんかなかった」
キミコの口が閉じる。
銀秋は目を逸らさなかった。
「それでもやった」
「……」
「また怖くなった時に、何もしねえって言い切れねえんだ」
「私、いるよ」
銀秋の顔がまた歪む。
「いるって言ってるだろうが。お前は、ずっと」
声が少し大きくなった。
銀秋は口を閉じ、通路へ目を向けた。
しばらく待つ。
誰も来ない。
次に口を開いた時には、声を落としていた。
「お前が言ってくれてたのに、俺は勝手に怖くなったんだよ」
キミコは黙った。
「お前が悪かったわけじゃねえ」
「……」
「俺が、駄目にした」
銀秋は額を格子へ寄せた。
掴んでいた手から、少し力が抜ける。
「だから、俺はここにいる」
「いつまで?」
銀秋が動かなくなった。
「いつ帰るの?」
「……帰らねえ」
「ずっと?」
銀秋は答えなかった。
キミコはその顔を見ていた。
「ずっと、ここにいるの?」
銀秋は目を伏せた。
「お前は、もう来るな」
「嫌」
「キミコ」
「また会いに来る」
「もう、俺に構うな」
「嫌」
「他のとこへ行け」
「嫌」
「お前なら、どこへでも行けるだろ」
「銀秋といる」
銀秋が顔を上げた。
キミコはまっすぐ見ていた。
一つしかない目が、少しも逸れない。
「一緒に帰ろう」
銀秋は何も言わなかった。
「帰って、また一緒にいる」
格子を握る手に、力が戻る。
これさえなければ、銀秋に触れられる。
腕を引いて、連れて帰れる。
店へ戻れる。
木が軋んだ。
「キミコ、やめろ!」
銀秋が手首を強く引いた。
キミコの手が止まる。
声が、暗い通路へ響いていた。
外で物音がした。
「何だ?」
銀秋が顔を向ける。
足音がする。
もう一人、何か言った。
「こっちだ」
キミコも戸の方を見る。
足音が近づいてくる。
「行け」
銀秋が囁いた。
「嫌」
「見つかる」
「捕まらない」
「分かってる。お前なら逃げられる」
銀秋はキミコの手首を掴み直した。
「だから、誰にも何もせずに帰れ」
「銀秋は」
「俺は残る」
「嫌」
「頼む」
キミコは銀秋を見た。
「格子も壊すな。俺を連れ出そうとするな」
「……」
「俺が嫌だって言ってるんだ」
キミコの指が緩んだ。
銀秋はその手を格子から外した。
戸の隙間から、灯りが差した。
細い光が揺れていた。
「誰かいるのか」
キミコは戸を見る。
声は外からだった。
まだ、男たちは中へ入っていない。
「早く」
銀秋が手を離す。
キミコは動かなかった。
「また来る」
「来るな」
「来る」
「キミコ」
「また会いに来る」
銀秋が何か言おうとした。
その顔を見たまま、キミコは一歩下がる。
「死なないで」
返事はなかった。
「銀秋」
「……行け」
キミコはようやく背を向けた。
来た道を戻る。
格子を通り過ぎる。
入ってきた戸が見えた。
外から足音が近づいている。
キミコは戸を開け、外へ出た。
こちらへ向かってくる男たちの灯りが見えた。
すぐに建物の陰へ駆け込む。
「おい!」
後ろで声がした。
キミコは振り返らなかった。
庭を横切る。
塀へ手をかけ、一息で越えた。
通りへ降りる。
そのまま走った。
背後で、人を呼ぶ声がしていた。
銀秋は、格子の前に立っていた。
キミコの姿はもう見えない。
灯りを持った男が近づいてくる。
「今、誰かいたな」
銀秋は答えなかった。
男は格子の向こうを照らす。
銀秋の顔。
手元。
牢の中。
それから、格子へ灯りを寄せた。
「何をしていた」
銀秋は格子から手を離した。
「……俺は出てねえよ」
「誰が来た」
「……」
男が声を強めた。
銀秋は黙っていた。
外から別の声がする。
塀を越えた。
姿を見失った。
そんな言葉が聞こえた。
男は銀秋を睨み、格子と戸締まりを確かめた。
もう一度問い詰めても、銀秋は答えなかった。
やがて、男は舌打ちをして離れていった。
灯りが遠ざかる。
外では、まだ人が動いていた。
銀秋は壁際へ戻った。
腰を下ろし、膝を立てる。
格子の向こうを見る。
さっきまで、キミコがいた。
会いたかったと言った。
一緒に帰ろうと言った。
死なないでと言った。
帰りたいと、何度も。
「……」
銀秋は顔を伏せた。
帰りたかった。
あの店へ、キミコと。
朝になれば戸を開ける。
隣にキミコがいる。
客が来る。
飯を食う。
夜になれば、一緒に眠る。
そんな日が、また来るような気がした。
格子の向こうから声をかけられた時、一緒に帰ろうと言われた時、ほんの少しだけ。
銀秋は膝の上で手を握った。
まだ、キミコの手首に触れた感触が残っていた。
しばらくして、顔を上げる。
通路には誰もいなかった。
キミコも、もういない。
聞かれることはない。
銀秋は小さく息を吐いた。
「……幸せだったよ」
返事はなかった。
屋敷から離れたところで、キミコは足を止めた。
振り返る。
塀の向こうに、灯りが見えた。
人の声がしている。
銀秋はあの中にいる。
自分からは出てこない。
一緒には帰らないと言った。
キミコは自分の手首に触れた。
もう、銀秋の手はない。
「銀秋」
小さく呼ぶ。
返事はなかった。
それでも、すぐには離れなかった。
翌日も、キミコは屋敷へ行った。
昼間、門で会いたいと言った。
男はキミコを見るなり、顔を険しくした。
「昨日の奴か」
「銀秋に会いたい」
「帰れ」
門の奥から、別の男も出てきた。
キミコはその向こうを見る。
銀秋は見えなかった。
夜になって、屋敷の裏手へ回った。
前に越えた塀の下に、男が二人立っていた。
通りを見張っている。
キミコは物陰で足を止めた。
しばらく待つ。
一人が塀に沿って歩き出した。
けれど、もう一人は残っている。
これでは、塀へ近づけば見つかる。
「動くな」
そう言えば、二人とも止められる。
その間に塀を越えればいい。
けれど、銀秋は言った。
『誰にも何もせずに帰れ』
また騒ぎになれば、銀秋は嫌がる。
キミコは物陰に留まった。
誰もいなくなるのを待った。
夜が深くなっても、そこには人がいた。
その次の日も行った。
昼は門で断られた。
夜には、違う場所から近づいた。
塀へ手をかけようとした時、中から声がした。
「誰かいるのか」
キミコは手を下ろした。
足音が近づいてくる。
見つかる前に離れた。
また次の日。
昼から寺の大木にいた。
夜になるのを待った。
人が減る。
通りが静かになる。
塀のそばにいた男が、屋敷の奥へ歩いていく。
もう少し。
もう少し待てば。
枝へ手をついたところで、別の男が来た。
キミコは動きを止める。
その男は塀の近くに立ち、辺りを見回した。
「……銀秋」
声は届かなかった。
それから、昼は山で過ごすようになった。
銀秋の店には戻らなかった。
銀秋がいないと分かっている場所へ、帰る気にはなれなかった。
屋敷の門へも、行かなくなった。
何度頼んでも、会わせてはもらえなかった。
日が暮れれば、また行く。
それまでは、木の根元に座っていた。
木々の隙間から空を見て、暗くなるのを待った。
夜になると京へ下りた。
屋敷の裏手へ回る。
人がいれば待つ。
近づけなければ、次の夜を待った。
いつまで牢にいるのかは知らなかった。
何日経てば出てくるのかも、分からなかった。
銀秋は、帰らないと言った。
ずっと、あの牢にいるのだと思っていた。
店には帰らない。
けれど、会いに行けば、そこにいる。
病気になれば治せばいい。
怪我をしても治せばいい。
だから、会わなければならなかった。
今日会えなくても、明日また行く。
明日も駄目なら、その次の日に行く。
今度会えたら、もう一度聞こうと思った。
本当に帰らないのか。
一緒に帰っては駄目なのか。
銀秋はあそこにいる。
話すことは、まだできる。
そう思っていた。
何日目だったのか。
キミコ自身も、もう数えていなかった。
その日も、キミコは山にいた。
木々の間に差す光が、少しずつ傾いていく。
そろそろ下りようと思った。
立ち上がる。
そこで、違和感があった。
キミコは自分の手を見た。
指が長い。
さっきまでより、少し。
「……?」
手を開く。
握る。
見慣れた手と違う。
顔を上げた。
目線が高い。
立ち上がった時より、地面が遠くなっている。
「嫌だ」
声が漏れた。
肩が広くなる。
腕が伸びる。
脚も。
身体が少しずつ大きくなっていく。
「いやだ」
キミコは自分の腕を掴んだ。
強く。
変わっていく身体を押さえようとした。
「いやだ」
指に力が入る。
爪が皮膚へ食い込んだ。
けれど、止まらない。
「戻らないで」
声が低かった。
キミコは自分の身体を抱きしめた。
小さくなるように。
縮むように。
腕で強く締めつける。
爪の下から血が滲んだ。
白い小袖に落ちる。
「嫌だ」
「いやだ」
それでも、背が伸びる。
身体つきが変わる。
銀秋と暮らし始めてから、少しずつ小さくなった身体。
銀秋より小さくなった身体。
それが戻っていく。
最初に会った頃のように。
上背のある、男の姿へ。
「銀秋」
キミコは腕を抱いたまま、名前を呼んだ。
「銀秋」
返事はなかった。
やがて、変化が止まった。
白い小袖も、身体に合わせて大きくなっていた。
長い手足。
大きな身体。
銀秋が見上げていた頃と、よく似た姿だった。
キミコは自分の手を見る。
「……嫌だ」
もう一度言った。
キミコは自分の身体を抱いたまま立っていた。
銀秋に会えば、戻るかもしれない。
一瞬、そう思った。
今日。
今から、牢へ行けばいい。
銀秋はそこにいる。
顔を見て、声を聞いて。
触ってもらえば。
けれど、分かっていた。
離れていても、この身体は変わらなかった。
山にいた夜も。
会えずに待っていた間も。
銀秋が望んだ姿のままだった。
それが、今、戻った。
もう、この姿を望む銀秋がいない。
「……いやだ」
キミコは首を振った。
帰らないと、銀秋は言った。
それでも、会えると思っていた。
今日会えなくても、明日には会えると思っていた。
その明日が、もうない。
キミコは京のある方を見た。
「銀秋」
呼んでも、届かない。
塀があるからではない。
遠いからでもない。
もう、返事をする銀秋がいない。
自分の手を見る。
大きいままだった。
分かっていた。
分かりたくなかった。
キミコは身体を抱く腕に、もう一度力を込めた。
涙は出なかった。
夜になってから、キミコは歩き出した。
山を下り、京へ入る。
向かったのは、銀秋の店だった。
何日も近づかなかった道を歩く。
通りには誰もいない。
見慣れた店が見えた。
戸は閉まっていた。
誰が閉めたのか、キミコには分からなかった。
その前で足を止める。
しばらく見ていた。
「銀秋」
呼んだ。
返事はない。
戸へ手をかけ、開けた。
中は暗かった。
誰もいない。
帳場がある。
棚がある。
奥には、いつも二人でいた座敷がある。
銀秋だけがいない。
キミコは店へ入った。
帳場の横を通る。
今の目の高さから見ると、何もかも少し低かった。
奥へ行く。
衣を置いていた場所に膝をついた。
何枚も、きちんと畳まれて積まれている。
祀煙が買ってくれたものだった。
その一番上に、一枚だけ違う色がある。
淡い薄紅の小袖。
銀秋が買ってくれたものだった。
キミコはそれを手に取った。
広げてみる。
今の身体には小さい。
ずっと前に、銀秋が選んだものだった。
キミコはしばらく見ていた。
それから、胸元へ引き寄せた。
「銀秋」
また呼んだ。
返事はなかった。
キミコは薄紅の小袖を抱いたまま、残った衣を見る。
祀煙が買ってくれた衣。
何枚もある。
キミコは薄紅の小袖をもう一度畳んだ。
積まれている衣の一番上へ戻す。
それから、全部まとめて抱えた。
片手の人差し指で、ゆっくりと空間を裂く。
そこに開いた何もないところへ、一歩踏み出す。
白い空間だった。
どこまでも白い。
空も壁もない。
キミコは衣を抱えたまま、その中を歩いた。
しばらくして、足を止める。
しゃがみ込んだ。
抱えていた衣を、そっと下ろす。
崩れかけたところを手で直した。
一枚ずつ、端を揃える。
最後に、一番上にある薄紅の小袖へ触れた。
布を撫でる。
袖の端を整える。
キミコはしばらく、その前に座っていた。
「銀秋」
白い空間にも、返事はなかった。
手を離す。
立ち上がった。
もう一度、積まれた衣を見る。
祀煙が買ってくれたものも。
銀秋が買ってくれたものも。
全部、そこにある。
キミコは白い空間を出た。
店の奥へ戻る。
衣を置いていた場所には、もう何もなかった。
キミコはそこを見た。
店の中を見回す。
八年。
ここで暮らした。
飯を食べた。
眠った。
口付けをした。
喧嘩もした。
銀秋に怒られた。
銀秋が笑った。
いつも銀秋がいた。
キミコは表へ戻った。
戸口に、藤の鉢がある。
花房が垂れていた。
いつもと同じ藤色だった。
キミコはその前で止まった。
片手を伸ばす。
花房に触れる。
花が僅かに揺れた。
それから、手を離した。
何も言わなかった。
店を出る。
夜の京を歩いていく。
一度も振り返らなかった。
やがて、その姿も暗がりに消えた。
銀秋も、キミコも、店には戻らなかった。
戸口には藤の鉢が残った。
春も。
夏も。
秋も。
冬も。
それまで何年もの間、絶えることなく花をつけていた藤だった。
数日して、花が一つ落ちた。
それから、また一つ。
藤色の花房は少しずつ減っていった。
新しい花はつかなかった。
葉も落ちた。
枝も乾いた。
やがて、藤は枯れた。




