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スダマの鬼  作者: 肉
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呼び声

 銀秋は、眠っていなかった。

 表の戸は、昨夜から開いたままだった。

 閉める気になれなかった。

 帳場のそばに座り、壁へ背を預ける。

 何をするでもない。

 帳簿も開かない。

 暗い戸口を見ていた。

 キミコは戻らなかった。

 当然だった。

 自分で追い出した。

 行けと言った。

 それでも、夜の間に、何度も足音がした気がした。

 通りの向こう。

 店の前。

 戸口のすぐ近く。

 そのたびに銀秋は顔を上げた。

 キミコかと思った。

 だが、誰もいなかった。

 風が通っただけだった。

 どこかで戸が鳴っただけだった。

 夜更けに帰る誰かの足音が、遠くを通り過ぎただけだった。

 それでも、しばらく戸口を見ていた。




 やがて空が白み始めた。

 夜が明ける。

 通りの向こうの家々が、薄暗い中から少しずつ形を現す。

 近くの店で戸を開ける音がした。

 人の声がする。

 桶を持って歩く者。

 荷を運ぶ者。

 朝の京が動き始める。

 銀秋はまだ座っていた。

 帳簿も開いていない。

 飯も食っていない。

 水すら飲んでいなかった。

 戸口には、藤の鉢がある。

 何も知らないように、今日も花を咲かせていた。

 藤色の花房が朝の風に揺れる。

 ずっと変わらない。

 枝は伸びない。

 花だけが増える。

 キミコが「育つな」と言った藤。

 銀秋はそれをしばらく見ていた。

 それから目を逸らした。

「……」

 喉が渇いていた。

 けれど、立つ気にはならなかった。




 足音がした。

 一人ではなかった。

 何人かいる。

 揃って、こちらへ近づいてくる。

 銀秋が顔を上げる。

 男たちが店の前で足を止めた。

 四人いた。

 そのうちの一人が戸口から中を見る。

 眠っていない銀秋の顔を見て、少し眉をひそめた。

「銀秋ってのはお前か」

「ああ」

 銀秋は立ち上がらなかった。

 男は少し間を置いた。

「昨夜、子供を攫ったな」

 銀秋は黙った。

 昨夜の子供の顔が浮かぶ。

 泣いていた。

 怯えていた。

 自分の腕の中でもがいていた。

「違うのか」

「違わねえよ」

 男たちの間に、わずかな沈黙が落ちた。

 もっと言い逃れをすると思っていたらしい。

「認めるんだな」

「認める」

「理由は」

「……」

 銀秋は答えなかった。

 理由を言えば、キミコのことまで話さなければならない。

 あれが何者なのか、何を食べていたのか、何ができるのか。

 そこまで話す気はなかった。

 男が銀秋を見る。

「立て」

 銀秋はようやく腰を上げた。

 長く同じ姿勢でいたせいで、足が痺れている。

 一歩踏み出したところで、僅かに身体が揺れた。

 それでも何も言わない。

 店の外へ出る。

 一人の男が銀秋の腕を取った。

 銀秋は抵抗しなかった。

 縄をかけられても、そのままだった。

「逃げようとは思わなかったのか」

 男が聞く。

「逃げてどうすんだよ」

「……」

「やったのは俺だ」

 銀秋は振り返った。

 開け放した店の中を見る。

 帳場。

 座敷へ続く奥。

 昨夜までキミコがいた場所。

 どこにもいない。

 当たり前だった。

「戸、閉めなくていいのか」

 男に言われる。

 銀秋は少し考えた。

「……閉める」

 縄の端を握られたまま、一度だけ店へ戻った。

 戸口に立つ。

 藤が目に入る。

 花房が揺れている。

 銀秋は一瞬だけ手を止めた。

 それから何も言わず、表の戸を閉めた。

 店の中が暗くなる。

「行くぞ」

「……ああ」

 銀秋は連れていかれた。




 昼頃。

 キミコは山にいた。

 昨夜店を出てから、そのまま山へ戻っていた。

 けれど、自分のいた場所へ帰ったわけではない。

 何をするでもなく、山の中を歩き続けていた。

 木の間を抜ける。

 斜面を上がる。

 また下る。

 沢の近くを通る。

 鳥が鳴く。

 風が葉を揺らす。

 キミコは昨夜から眠っていなかった。

 夜が明け、日が高くなっても、歩き続けていた。

 銀秋の言葉が頭に残っている。

『行け』

 それだけではない。

『食っていいから、行かないでくれ』

 キミコは足を止める。

 近くの木を見る。

 幹に触れる。

 何も言わず、少しして、また歩き出す。




 銀秋のしたことは嫌だった。

 子供を連れてきたことも、泣いている子供を押さえていたことも、自分に差し出して、食べろと言ったことも。

 嫌だった。

 銀秋があんなことをするとは思わなかった。

 だから怒った。

 嫌だと言った。

 それでも、銀秋まで嫌になったわけではない。

 それが、キミコには少し難しかった。


 嫌なことをした銀秋。


 餅を買ってくれた銀秋。

 箸を教えた銀秋。

 衣を買ってくれた銀秋。

 喧嘩した銀秋。

 迎えに来た銀秋。

 一緒に寝た銀秋。

 口付けした銀秋。

 自分がいなくなるのを嫌がった銀秋。


 全部、同じ銀秋だった。

 どれかだけ別にすることができない。

「……」

 キミコは歩く。

 どこへ行くのか、自分でも分からなかった。




「お前、さっきから何してる」

 低い声がした。

 キミコが顔を上げる。

 少し先。

 木々の間に、巨大な狸がいた。

 古狸だった。

 巨体を木の根元へ伏せ、そのままこちらを見ている。

「歩いてる」

「何で歩いてる」

「分からない」

 古狸の耳が一度動いた。

 鼻先がひくりと揺れる。

「銀秋はどうした」

 キミコは黙った。

「また喧嘩でもしたか」

「追い出された」

「またか」

「今回は違う」

「何が違う」

 キミコは足を止めたまま、古狸を見る。

 古狸は身体を起こした。

 大きな前脚が地面につく。

「何があった」

 キミコは少し考えた。

「銀秋が子供連れてきた」

「子供?」

「うん」

「何で」

「私に食べさせるため」

 古狸の動きが止まった。

 風が吹く。

 大きな尾の毛だけが揺れる。

「……何だと」

「子供、攫ってきた」

「あの男が?」

「うん」

 古狸はしばらく何も言わなかった。

「……子供はどうした」

 その声からは、もう呆れたような色が消えていた。

「帰した」

「生きてるのか」

「うん」

「怪我は」

「してない」

「そうか」

 古狸がゆっくり息を吐いた。

「銀秋は?」

「私に、行けって言った」

「何で」

「一緒にいたら、また何するか分からないって」

 キミコは古狸を見る。

「私のためなら、また何かするかもしれないって」

「……」

「だから、行けって」

 古狸は黙った。

 大きな前脚の先で土を掻く。

「それで、お前は山へ来たのか」

「うん」

「戻らないのか」

 キミコは答えない。

「戻りたいのか」

 それにも答えない。

 古狸はキミコを見ていた。

「銀秋が嫌いになったか」

「なってない」

 その答えだけは早かった。

「そうか」

「嫌なことした」

「ああ」

「でも嫌いじゃない」

「……そうか」

 古狸はそれ以上言わなかった。




 その時。

 少し離れたところで枝が鳴った。

 ぱきりと、小さな音がする。

 古狸がそちらへ顔を向ける。

 キミコも見る。

 木々の間から、一人の男が現れた。

 山仕事をする人間と変わらない姿。

 粗末な衣。

 髪を後ろで括っている。

 けれど、人間ではなかった。

 キミコにはすぐに分かった。

 匂いが違う。

 気配も違う。

 何より、どこか古狸に似ていた。

 男は古狸を見る。

「御前さま」

 それから、キミコへ目を移す。

 キミコが男を見る。

「またたぬき」

 男が眉を寄せる。

 古狸が鼻を鳴らした。

「俺の子孫だ」

「たぬき」

「今は人の形を取ってるだけだ」

 キミコは男をじっと見る。

「たぬき、多いの?」

「まあな」

 古狸が答える。

 キミコがもう一度男を見る。

「やっぱりたぬき」

「だからそう言ってるだろ」

 男が少し困ったような顔をした。

 だが、その表情はすぐに消えた。

 キミコの顔をもう一度見る。

「……あんた」

「何?」

「銀秋って人間と一緒にいる奴だろ」

「うん」

「やっぱりか」

 男は少しだけ表情を強張らせた。

 古狸が顔を上げる。

「銀秋がどうした」

「御前さまも知っているのですか」

「知っとる」

 男はキミコへ目を戻した。

「知っといた方がいい」

 キミコが瞬きをする。

「何?」

「あの男、今朝捕まったぞ」

 キミコの身体が止まった。

 風だけが衣の裾を揺らす。

「……銀秋が?」

「ああ」

「何で」

「子供を攫ったとかで」

 古狸の耳が立つ。

 キミコの目が見開かれた。

「どこにいる?」

「そこまでは知らねえ」

 男が少し後ろへ身体を引く。

「朝、京へ下りた時に聞いたんだ。質屋の男が子供を攫って、そのまま捕まったって」

「銀秋」

「俺も名前を聞いて、もしやと思った」

 男がキミコを見る。

「あんた、ずっとあの人間と一緒にいるだろ。大丈夫なのかと思ってな」

 キミコはもう男を見ていなかった。

「銀秋」

 小さく名前を呼ぶ。

 次の瞬間。

 走り出した。

「おい」

 古狸が呼ぶ。

 キミコは振り返らない。

「おい、あんた!」

 男も声を上げた。

 それでも止まらない。

 枝を避けることもなく、山道を駆け下りていく。

 男がその背中を見る。

「……速いな」

 古狸が鼻を鳴らした。

「放っとけ」

「いいのですか?」

「止めても行くだろう」

 古狸は、キミコが消えた木々の間を見ていた。

「行かせてやれ」




 キミコは走った。

 山道を下る。

 枝が袖に引っかかる。

 止まらない。

 布が張り、裂ける音がした。

 構わず走った。

 足元の土が崩れる。

 一度身体が傾く。

 木へ手をつく。

 すぐに走る。

「銀秋」

 声が漏れた。

 返事はない。

 分かっている。

 ここにはいない。

 それでも呼んだ。

「銀秋」

 山道を下る。

 いつもなら一息で進める道が、今日は長かった。

 銀秋が捕まった。

 その言葉だけが頭に残っている。

 何をされるのか。

 どこへ連れていかれたのか。

 いつ帰れるのか。

 キミコには分からない。

 人間が、人間を捕まえた後どうするのか。

 昨日、銀秋は言った。

『お前は共犯じゃない』

『行け』

 あの時、銀秋は分かっていたのかもしれない。

 子供を帰せば、自分が捕まることを。

 だから追い出した。

 キミコを自分から離した。

「銀秋」

 また呼ぶ。

 走る。

 山を抜ける。

 京へ入る。

 人がいる。

 荷を運ぶ者。

 道端で話している者。

 キミコは人の間を抜ける。

 肩がぶつかりそうになっても止まらない。

「おい!」

 怒鳴られる。

 振り返らない。

 何人かが怪訝そうに見る。

 構わなかった。

 見慣れた通りへ出る。

 銀秋の店が見えた。

 さらに速く走る。

 戸へ手をかける。

 開ける。

「銀秋!」

 返事はない。

 キミコは店の中へ入る。

 開けた戸口から、光が差し込む。

 帳場を見る。

 いない。

「銀秋」

 奥へ行く。

 飯を食べる場所。

 寝床。

 どこにもいない。

「銀秋」

 店の裏にもいない。

 もう一度表へ戻る。

「銀秋」

 誰も答えない。

 キミコは店の真ん中で立ち止まった。

 呼吸が速い。

 本来なら、人間のように息が切れることはない。

 走ったところで苦しくはならない。

 それなのに何度も息をしていた。

 胸の奥が、ひどく落ち着かなかった。

 戸口を見る。

 藤だけが咲いている。

 銀秋はいない。




 すぐに店を出た。

 戸は開けたままにした。

 餅屋へ向かう。

 走った。

 通りの向こうに店が見える。

「銀秋は?」

 まだ店へ着く前から声を上げた。

 餅屋の女が顔を出す。

 キミコを見ると、目を見開いた。

「あんた、どこ行ってたんだい」

「銀秋は?」

「キミコ」

「捕まったって聞いた」

 女の表情が変わる。

「……聞いたのかい」

「どこ?」

「ちょっと待ちな」

「どこにいる?」

「キミコ」

「銀秋はどこ?」

 女が黙る。

 キミコが一歩近づく。

「どこ?」

 いつもの声だった。

 けれど、言葉が早い。

 返事を待てていない。

「朝、連れていかれたよ」

「どこに?」

「まず落ち着きな」

「どこ?」

「あんた――」

「銀秋に会いたい」

 女がキミコを見る。

 単眼が、まっすぐ自分を見ている。

 逸らさない。

「今すぐ」

「……」

 女は息を吐いた。

「逃げなかったよ」

 キミコの目が動く。

「何?」

「銀秋だよ。朝、何人か来た。あいつ、逃げるどころか全部認めたって話だ」

「……全部?」

「ああ」

「何を?」

「子供を攫ったのは自分だって」

 キミコは指を握り込む。

「銀秋が?」

「ああ」

「何で」

「何でって……」

「逃げればいいのに」

「逃げなかったんだよ」

 女はキミコを見る。

「自分がやったって言ったらしい」

「……」

「お前まで疑われてないか、気になったけどね」

 キミコが顔を上げる。

「私?」

「ああ。あたしが聞いた話じゃ、お前の名前は出てないよ」

 キミコは黙った。

 昨日の声が蘇る。

『お前は共犯じゃない』

 指にさらに力が入る。

「どこ?」

 もう一度聞く。

 女は少し迷った。

 それから、場所を教えた。




 聞き終えると同時に、キミコは背を向けた。

「待ちな!」

 駆け出そうとしたところで、女の声が飛んだ。

 キミコは振り返る。

「何する気だい」

「会う」

「それだけかい」

「うん」

 返事が少し遅かった。

 女の目が細くなる。

「無茶するんじゃないよ」

「銀秋に会う」

「牢だよ」

「牢?」

「勝手に入って会える場所じゃない」

「入る」

「そういう意味じゃないよ」

「銀秋がいるなら入る」

「キミコ」

 女が少し強い声を出す。

「あんたが暴れたら、銀秋が困るよ」

 キミコは女を見つめた。

「……銀秋が?」

「ああ」

「何で?」

「自分で逃げずに捕まったんだろ」

「うん」

「だったら、何か考えてそうしたんだ」

 キミコは黙る。

「会うなとは言わない。でも、何でも壊して連れてくるようなことはするんじゃないよ」

「……」

「分かったかい」

 キミコは答えなかった。

「キミコ」

「銀秋に会う」

 それだけ言った。

 走り出す。

 後ろで女の声がした。

 振り返らなかった。




 道を間違えた。

 少し進んでから気づく。

 立ち止まる。

 辺りを見る。

「……違う」

 引き返す。

 さっき教えられた道を思い出す。

 曲がる。

 また走る。

 胸の奥が落ち着かない。

 銀秋がいない。

 店にもいない。

 自分の知らない場所にいる。

 昨夜、自分を追い出したまま、一人で。

「銀秋」

 また名前を呼ぶ。




 やがて、教えられた屋敷が見えた。

 通りに沿って塀が続いている。

 門の脇には、男が一人立っていた。

 キミコは門前でようやく足を止めた。

 開いた門から中を見る。

 ここにいる。

 銀秋がいる。

 そう思った瞬間、一歩足が出た。

 男が行く手を塞いだ。

「待て」

「銀秋に会いたい」

「誰だ」

「キミコ」

「……? 何の用だ」

「銀秋に会う」

「待て」

「会いたい」

 キミコは中を見る。

 見えない。

 銀秋の姿はない。

 それが嫌だった。

「銀秋」

「おい」

「銀秋」

 もう一度呼ぶ。

「ここで呼んでも聞こえん」

「いるんでしょう」

「いるが——」

「会わせて」

「駄目だ」

「何で?」

「勝手に会わせられるか」

「会うだけ」

「帰れ」

 キミコが一歩進む。

 男が腕を広げる。

「待て」

「退いて」

「駄目だって言ってるだろ」

 キミコの目が細くなる。

 男の顔を見る。

 退け。

 そう言えばいい。

 一言で済む。

 その時、奥から声がした。

「何だ?」

「どうした」

 足音が増える。

 一人。

 二人。

 さらに数人。

 門の奥から男たちが出てくる。

 門にいた男が振り返った。

「こいつが中に入れろって」

「誰だ」

「銀秋って男に会いたいらしい」

 男たちの視線がキミコへ集まる。

 キミコは気にしない。

「銀秋に会わせて」

「無理だ」

「会うだけ」

「駄目だ」

 キミコがまた一歩進む。

 男たちが身構える。

「止まれ」

 キミコは止まった。

 しばらく、誰も動かなかった。

 ここで押し通すことはできる。

 キミコには分かっている。

「退け」と言えばいい。

 あるいは、「動くな」。

 それだけで、誰もキミコを遮れなくなる。

 門が邪魔なら壊せる。

 門でも塀でも、何なら建物そのものでも。

 誰にも止められない。

 けれど、銀秋は自分で捕まった。

 逃げなかった。

 全部認めた。

 何か考えてそうしたのだと、餅屋の女も言った。

 何を考えたのか、キミコには分からない。

 昨日、行けと言われた。

 それでも今は、会いたかった。

 顔を見て、話をしたかった。

 銀秋がどうしたいのかも、まだ聞いていない。

 ここを壊して連れ出したら、銀秋は何と言うだろう。

 キミコはゆっくり指を握り込む。

「……銀秋は」

 男たちを見る。

「無事?」

 一人が少し黙ったあと、口を開いた。

「ああ」

「怪我してない?」

「してない」

「殴られてない?」

「抵抗しなかったからな」

「血出てない?」

「出てない」

「本当?」

「本当だ」

 キミコはその男の顔を見る。

 嘘を言っているようには見えない。

「飯は?」

「……出る」

「食べてる?」

「そこまでは知らん」

「寝られる?」

「お前は何なんだ」

 男が呆れたように言う。

 キミコは答えない。

「銀秋は無事?」

「ああ」

 もう一度確認する。

「……そう」

 それだけ言った。

 一歩下がる。

 さらに一歩。

 門前の男たちは、まだ警戒している。

 キミコはそのまま背を向けた。

 歩き出す。

 何度か振り返る。

 けれど、中は見えない。

 銀秋も見えない。

 少し離れたところまで来て、キミコは立ち止まった。

 振り返る。

 屋敷の門を見る。

「会えなかった」

 小さく呟く。

 そのまま歩き出した。

 けれど、遠くへは行かなかった。




 日が傾いていく。

 キミコは、屋敷から少し離れた寺の大木の上にいた。

 高い枝へ腰を下ろす。

 枝葉の隙間から、屋敷と、それを囲む塀が見下ろせた。

 下から見上げても、キミコの姿はほとんど分からない。

 人が入る。

 出てくる。

 また別の人間が入る。

 キミコは動かなかった。

 誰が入るのか。

 誰が出るのか。

 どこから入るのか。

 入口はいくつあるのか。

 裏はどうなっているのか。

 塀の高さ。

 見張りの数。

 初めは分からなかった。

 それでも、見続けているうちに、人の通る場所と、誰もいなくなる時が分かってきた。




 夕方になる。

 人通りが減る。

 まだ待つ。

 空が赤くなる。

 やがて暗くなる。

 家々の灯りも少なくなっていく。

 キミコはまだそこにいた。

 考えているのは、銀秋のことだけだった。

 怪我はしていない。

 無事だと言った。

 それでも、会わないと分からない。

 自分の目で見ないと嫌だった。




 夜になった。

 キミコは大木の上から屋敷を見ていた。

 昼間より、人の出入りはずっと少ない。

 門にいた男が一人、屋敷の奥へ入る。

 代わりに別の男が出てきた。

 キミコはもう少し待った。

 やがて、通りを歩く者もほとんどいなくなる。

「会うだけ」

 誰に言うでもなく、小さく呟く。

 枝から音もなく地面へ降りた。

 寺を出る。

 人通りが途切れるのを待って、通りを渡った。

 塀に沿って、屋敷の裏手へ回る。

 昼間には近づかなかった場所だった。

 キミコは塀を見上げた。

 向こう側から、人の声がする。

 足音が近づいた。

 キミコは動かずにいる。

 やがて足音が遠ざかる。

 キミコは塀へ手をかけた。

 身体を持ち上げる。

 音を立てずに越え、反対側へ降りた。

 すぐには動かなかった。

 塀際に立ったまま、辺りを見る。

 建物がいくつかある。

 銀秋がどこにいるのかは分からなかった。

 近くの建物へ向かう。

 戸の前で足を止め、耳を澄ませた。

 中から男たちの話し声がする。

 銀秋の声はなかった。

 呼びそうになって、口を閉じる。

 見つかれば、また追い返される。

 キミコは戸から離れた。




 建物の脇を抜ける。

 途中で足音がした。

 壁の陰に身体を寄せる。

 二人の男が話しながら通り過ぎていった。

 見えなくなるまで待つ。

 それから、また進んだ。




 奥にも建物があった。

 戸は閉まっている。

 近づいて耳を澄ませた。

 声はしない。

 キミコはしばらく待った。

 それから、周囲を見る。

 誰もいない。

 戸へ手をかける。

 少しだけ開き、隙間から中を覗いた。

 薄暗い通路の先に、格子が見えた。

 身体が通るだけ戸を開け、中へ入る。

 灯りは少ない。

 辺りは静かだった。

 キミコは格子に沿って、ゆっくり進む。

 一つ目。

 誰もいない。

 二つ目。

 空いている。

 三つ目。

 やはり誰もいない。

 奥へ行く。

「銀秋」

 小さく呼ぶ。

 返事はない。

 もう少し進む。

「銀秋」

 今度は少しだけ大きく呼んだ。

 しばらくして、いちばん奥の方から、微かな声がした。

「……キミコ?」

 キミコの目が見開かれる。

「銀秋」

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