罪
火事の夜から、銀秋はさらに変わった。
それまでも、キミコが外へ出れば気にしていた。
どこへ行く。
何をしに行く。
いつ帰る。
何度も聞いた。
それでも、最近は聞かないようにしていた。
聞けば、キミコを縛ることになると分かっていたからだ。
だから口にはしなかった。
その代わり、キミコがいない間、仕事に集中できなくなった。
帳簿を開く。
一行書く。
銭の出入りを確かめる。
次の行へ筆を置く。
そこで、外から足音がする。
顔を上げる。
戸口を見る。
人影が通り過ぎる。
キミコではない。
銀秋は帳簿へ目を戻す。
さっき書いた一行を見る。
何を書こうとしていたのか分からなくなる。
「……」
筆を置く。
もう一度、戸口を見る。
誰もいない。
また帳簿へ目を戻す。
そんなことを繰り返した。
客が来れば商売はした。
品を見る。
値を決める。
銭を数える。
いつも通り話もする。
けれど、途中で外から足音がすると、ふいに言葉が止まることがあった。
「……それで、これは」
銀秋の目だけが戸口へ向く。
客が怪訝そうな顔をする。
「どうした?」
「何でもねえ」
足音は店の前を通り過ぎていく。
銀秋は一度息を吐き、何事もなかったように品へ目を戻した。
「悪い。続けるぞ」
商売はできる。
計算も間違えない。
ただ、キミコがいない間だけ、頭のどこかがずっと戸口を見ていた。
いつもなら戻る頃を過ぎても、キミコが帰らない日もあった。
そういう日は、とうとう店の外へ出た。
戸口を跨ぐ。
通りの端を見る。
反対側も見る。
人が何人か歩いている。
知らない顔ばかりだった。
銀秋は藤の鉢のそばに立つ。
紫の花房が風に揺れている。
しばらく待つ。
それでもキミコの姿は見えない。
「……何してんだ、俺」
小さく吐き捨てて、店へ戻る。
帳場へ座る。
帳簿を開く。
少しすると、また外へ出る。
そんなことを何度か繰り返した。
「ただいま」
聞き慣れた声がする。
銀秋はすぐに顔を上げる。
キミコが戸口に立っている。
「……おう」
それだけだった。
遅かったな、とも言わない。
どこへ行っていたのかも聞かない。
帰ってきたなら、それでいい。
銀秋は俯く。
その日、ほとんど進まなかった帳簿を引き寄せる。
ようやく筆を持つ。
続きを書き始める。
さっきまで何度読んでも頭に入らなかった数字が、今度はちゃんと読めた。
夜になれば、銀秋の方からキミコを抱いた。
以前より強く、腕の中へ閉じ込めるように。
眠る時にも離さない。
キミコが少し身じろぎするだけで、銀秋の腕に力が入る。
ある夜。
キミコが寝返りを打った。
銀秋の目が開く。
「銀秋」
「……」
「起きた?」
「……起きてねえ」
「起きてる」
「寝ろ」
キミコは銀秋の顔を見る。
暗い中でも、目が開いているのが分かる。
「変」
「分かってる」
銀秋はキミコの頭を胸元へ引き寄せた。
「寝ろ」
「銀秋は?」
「そのうち寝る」
「眠くない?」
「眠い」
「じゃあ寝ればいい」
「そうする」
それでも腕は緩まなかった。
それから、銀秋は時々、妙なことを聞くようになった。
何の前触れもなく。
帳簿をつけている時。
飯を食っている時。
寝る前。
まるで、ずっと頭の中にあったものが、ふと隙間から漏れるように。
「なあ」
「何?」
「山にいた頃、人食ってたんだよな」
「うん」
「どんな奴でも?」
キミコが銀秋を見る。
「何で?」
「何となく」
「……?」
「いいから」
キミコは少し考えた。
「食べられそうなら食べた」
「子供も?」
「食べたことある」
銀秋の指が止まる。
ほんの一瞬だった。
「……そうか」
「何?」
「何でもねえ」
銀秋はそれ以上聞かなかった。
別の日には、
「人の肉、好きだったのか」
と聞いた。
キミコは餅を食べていた。
口を動かしながら、少し考える。
「食べてた」
「好きかどうか聞いてんだよ」
「分からない」
「分かんねえのか」
「食べられるから食べてた」
「……そういうもんか」
「うん」
銀秋は少し黙った。
「今は?」
「食べない」
「何で」
「銀秋が嫌がるから」
銀秋の目が動く。
「それだけ?」
「それだけじゃない」
「じゃあ何だよ」
キミコは残った餅を見る。
「今はいらない」
「人間が?」
「うん」
「食いたくない?」
「食べたくない」
銀秋は何も言わなかった。
帳簿へ目を落とす。
「銀秋」
「何だ」
「変」
「……知ってるよ」
「何で人のことばっかり聞くの?」
「何でもねえって」
「何でもなくない」
「いいんだよ」
「よくない」
銀秋は筆を持ち直した。
「この話は終わり」
キミコはしばらく銀秋を見ていた。
それ以上は聞かなかった。
何日か経った。
その朝から、銀秋は落ち着かなかった。
帳簿を開く。
何も書かない。
閉じる。
少しして、また開く。
昨日のところを読む。
また閉じる。
キミコがその様子を見る。
「銀秋」
「何だ」
「仕事しないの?」
「してるよ」
「してない」
「してる」
「帳簿、開けたり閉じたりしてるだけ」
「うるせえな」
銀秋は帳簿を閉じた。
少し乱暴な音がした。
キミコが瞬きをする。
銀秋はしばらく黙っていた。
両手を膝に置く。
指を握る。
開く。
また握る。
やがて立ち上がった。
「ちょっと出てくる」
キミコが顔を上げる。
「どこ?」
「その辺」
「何しに?」
「用事」
「何の?」
銀秋がキミコを見る。
すぐには答えない。
「……すぐ戻る」
「どこに行くか言わないの?」
「今日はいいだろ」
「何で?」
「大した用じゃねえ」
銀秋は草履を履いた。
「店、頼む」
「うん」
戸口を出る。
キミコはその背中を見る。
最近、銀秋はキミコの行き先を聞かないようにしている。
けれど、銀秋自身は違った。
餅屋へ行く。
酒屋へ行く。
少し先の客のところへ行く。
出かける時には、大抵言っていた。
今日は、それを言わなかった。
キミコは閉じた戸口を、少し長く見ていた。
昼を過ぎた。
銀秋は戻らなかった。
客が一人来た。
「旦那は?」
「いない」
「いつ戻る?」
「分からない」
「じゃあ、また来るわ」
客は帰った。
キミコは店の奥へ戻る。
少しして、戸口を見る。
誰もいない。
夕方になった。
それでも戻らない。
日は傾き、通りに長い影が伸びた。
やがて、それも消えた。
空が暗くなる。
キミコは帳場のそばに座ったまま、何度も戸口を見る。
銀秋が帰ってこない。
外では、遠くで誰かが戸を閉める音がした。
人の話し声も減っていく。
もう、店の前を歩く者もほとんどいない。
「……遅い」
キミコが呟いた。
銀秋がいつも座る場所を見る。
帳簿が置いたままになっている。
朝、何度も開いては閉じたものだ。
キミコは少し考えた。
立ち上がる。
戸口まで行く。
外を見る。
暗い。
銀秋はいない。
キミコは店へ戻った。
待った。
その頃、銀秋は暗くなった京を歩いていた。
昼間から、何度も足を止めていた。
そのたびに思った。
帰れ。
何してる。
やめろ。
まだ戻れる。
何度も思った。
実際、何度か踵を返した。
店の方へ数歩歩いたこともある。
だが、そのたびにキミコの顔が浮かんだ。
『今はいなくならない』
あの言葉。
今は、と言った。
ずっとではない。
銀秋が死ぬまでとも言わなかった。
明日までとも言わなかった。
ただ、今は、と。
「……」
銀秋は立ち止まる。
胸の奥が冷たくなる。
また歩き出す。
何をしようとしているのか、分かっていた。
駄目なことも、最初から分かっていた。
昔の自分なら、絶対にしなかった。
妻が生きていた頃なら。
子供が生きていた頃なら。
あの頃の自分が今を見れば、何をしていると怒鳴るだろう。
それも分かっていた。
それでも、キミコがいなくなることを考えると、銀秋の中で、それ以外のものが全部小さくなった。
善悪も、恐怖も、目の前にいる誰かの事情さえも。
キミコをここに置けるのなら。
そう考えた自分がいる。
それを認めながら、銀秋は歩いた。
夜が深くなり始めた頃。
表から足音がした。
キミコが顔を上げる。
一人分ではない。
一つは銀秋の足音だった。
何度も聞いている。
それより小さな足音が、遅れてついてくる。
時々、引きずるように止まる。
また歩く。
戸口に影が差した。
銀秋が入ってくる。
「ただいま」
キミコが立ち上がる。
「遅かった」
「……悪い」
銀秋の顔色は悪かった。
額には汗が浮いている。
夜はもう暑くない。
それなのに、額も首筋も濡れている。
「疲れた?」
「少しな」
銀秋は店の中へ入る。
だが、戸を閉めなかった。
キミコがその向こうを見る。
外は暗い。
通りには誰もいない。
その暗がりの中に、小さな影が立っていた。
銀秋が振り返る。
「……来い」
影が動かない。
銀秋の眉が寄る。
「来いって」
小さな影が、一歩ずつ店の中へ入ってくる。
子供だった。
十にも届いていないように見える。
着物は汚れていた。
片方の草履がずれている。
手首を紐で縛られていた。
口には布が巻かれている。
乱雑な猿轡だった。
目には涙が溜まっていた。
頬にも乾きかけた涙の跡が残っている。
肩が細かく震えている。
息をするたび、喉の奥で小さな音がした。
キミコが子供を見る。
それから銀秋を見る。
「誰?」
銀秋は答えなかった。
外を一度見る。
右。
左。
人影はない。
戸を閉める。
閂をかける。
木が噛み合う音が、妙に大きく響いた。
銀秋の手が震えている。
「銀秋」
返事はない。
銀秋は子供の肩へ手を置いた。
前へ押す。
子供がよろめく。
足がもつれ、転びそうになる。
銀秋の手が咄嗟に腕を掴んだ。
倒れるのを支える。
その瞬間、銀秋自身が自分の手を見た。
すぐに離す。
キミコの単眼が銀秋へ戻る。
「何するの?」
銀秋は口を開いた。
声が出ない。
唇を閉じる。
何度か息をする。
喉が上下する。
それから、口を開く。
「……食っていい」
キミコが瞬きをした。
「何?」
銀秋は子供を見た。
見たのは一瞬だった。
すぐにキミコへ視線を戻す。
「お前」
声が少し掠れている。
「昔は人を食ってただろ」
キミコは何も言わない。
「山にいた頃」
「うん」
「人間、食ってた」
「うん」
子供が小さく首を振る。
猿轡の奥で声を出そうとする。
何かを訴えている。
けれど布に塞がれて、言葉にはならない。
銀秋はそちらを見なかった。
見れば、見てしまえば、もう言えなくなるような気がした。
だからキミコだけを見る。
「食っていい」
「いらない」
即答だった。
銀秋の目が動く。
「……何で」
「いらないから」
「昔は食ってた」
「今はいらない」
「何でだよ」
「いらない」
銀秋の呼吸が速くなる。
「好きだっただろ」
「違う」
「人食うの」
「食べてた」
「なら」
「今はいらない」
「こいつなら」
銀秋が言う。
「こいつならいいだろ」
キミコの目がわずかに細くなる。
「何が?」
「……」
銀秋は答えない。
キミコは子供を見る。
小さな身体が震えている。
その目がキミコと合う。
恐怖でいっぱいだった。
キミコは再び銀秋を見る。
「帰して」
銀秋の顔が歪んだ。
「キミコ」
「帰して」
「頼む」
銀秋が一歩近づく。
「これならいいだろ」
「何が?」
「食っていいんだよ」
「いらない」
「好きにしていい」
「しない」
「俺は何も言わねえ」
「しない」
「もう止めない」
「いらない」
「何でだよ!」
銀秋の声が大きくなる。
子供の肩が跳ねた。
猿轡の奥から、小さな悲鳴が漏れる。
キミコの目が細くなる。
「銀秋」
「何だよ」
「怖がってる」
「……」
「この子」
銀秋の顔が止まった。
ゆっくり、子供を見る。
涙で濡れた目と合う。
鼻を啜ることもできず、苦しそうに息をしている。
銀秋はすぐに目を逸らした。
「……分かってる」
「怖いって分かってる?」
「分かってるよ」
「じゃあ何で?」
「俺だって」
銀秋が言う。
「俺だって分かってるよ」
「……」
「こんなの駄目だって」
キミコは黙っている。
「最初から分かってる」
「じゃあ帰して」
「でも」
銀秋の顔が歪む。
「お前、またいなくなるだろ」
「……」
「俺が死んだら」
声が震える。
「その前に出てくかもしれねえ」
「銀秋」
「嫌なんだよ」
銀秋は子供の肩から完全に手を離した。
まるで触れていることに耐えられなくなったように。
そのままキミコへ近づく。
「もう嫌なんだ」
「……」
「何でもする」
キミコは動かない。
「何でもやるから」
銀秋が手を伸ばす。
「もう止めねえから」
キミコの目が大きくなる。
「何したっていいから」
「銀秋」
「だから」
伸ばした手が、キミコの袖に触れそうになる。
だが、触れる前に止まった。
「行かないでくれ」
店の中が静かになった。
子供の押し殺した呼吸だけが聞こえる。
銀秋の手が震えている。
キミコはその手を見る。
銀秋を見る。
長い間、何も言わなかった。
「いらない」
銀秋の指が僅かに動く。
「キミコ」
「いらない」
「でも」
「いらない」
キミコは一歩下がった。
銀秋の手が空を掴む。
銀秋の顔が強張った。
キミコは銀秋を見る。
「銀秋が」
言葉を切る。
銀秋が待つ。
「こんなの嫌」
銀秋の顔から表情が消えた。
「……何?」
「こんな銀秋、嫌」
銀秋は何も言えなかった。
口が僅かに開く。
けれど声が出ない。
キミコは銀秋から目を離した。
子供の前へ行き、しゃがむ。
子供がびくりと身を縮める。
「取るだけ」
キミコは猿轡へ手をかける。
布をほどく。
外れた瞬間、子供が大きく息を吸った。
「っ、う……」
堪えていた泣き声が漏れる。
咳き込む。
キミコは何も言わず、今度は手首を見る。
紐へ指をかける。
結び目を解く。
手首には赤い跡が残っていた。
「帰っていい」
子供はキミコを見る。
涙を流したまま、何度も瞬きをする。
「……いい、の」
「うん」
声も震えている。
「帰っていい」
子供は立ち上がった。
銀秋を見る。
その瞬間、身体が固まる。
足が止まる。
キミコが子供と銀秋の間へ入った。
銀秋の姿を隠す。
「行って」
子供は戸口へ走った。
閂に手をかける。
だが、うまく外せない。
何度も木を掴む。
指が震えている。
キミコが横から手を伸ばした。
閂を外す。
戸を開ける。
冷たい夜気が流れ込む。
外には誰もいなかった。
子供は振り返らなかった。
そのまま夜の通りへ飛び出していく。
足音が遠ざかる。
小さくなる。
聞こえなくなる。
戸は開いたままだった。
店の中に、銀秋とキミコだけが残った。
夜の空気が、戸口から入ってくる。
藤の花房が僅かに揺れた。
しばらく、どちらも喋らなかった。
銀秋は立ったままだった。
キミコも動かない。
銀秋の視線は、子供が消えた暗がりへ向いていた。
「……帰したのか」
「うん」
「そうか」
銀秋は笑おうとした。
口元だけが僅かに動く。
笑えなかった。
「俺」
声が掠れる。
「何してんだろうな」
キミコは答えなかった。
「分かってたんだよ」
「……」
「連れてくる時も」
銀秋は自分の手を見る。
さっき、子供の肩を押した手。
腕を掴んだ手。
紐を握って歩いた手。
「駄目だって」
指が震えていた。
「何度も帰そうと思った」
キミコが銀秋を見る。
「でも帰さなかった」
「……そうだ」
「連れてきた」
「連れてきた」
銀秋は自分で答えた。
「俺が」
そのまま両手で顔を覆う。
「俺がやった」
声がくぐもる。
「お前がいなくなるって思ったら」
そこで言葉が途切れた。
息を吐く。
「……他のこと、どうでもよくなった」
キミコの目が僅かに動く。
「銀秋」
「……」
「前の銀秋は」
銀秋の肩が止まる。
「こんなことしなかった」
銀秋は顔を上げない。
「……そうだな」
「私、人を食べてた」
「ああ」
「銀秋が止めた」
「……止めた」
「嫌だって言った」
「言った」
「今は」
キミコは少し黙った。
「銀秋が連れてきた」
銀秋の手がゆっくり下がる。
顔が青ざめていた。
「……そうだ」
「私に食べさせるために」
銀秋の唇が震える。
「そうだよ」
キミコは銀秋を見る。
「嫌」
銀秋の顔が歪む。
「……俺もだ」
「銀秋も嫌?」
「こんな俺は嫌だよ」
「じゃあ何で?」
銀秋は答えられなかった。
自分でも何度も聞いた問いだった。
何で。
どうして。
やめられなかったのか。
答えは分かっている。
キミコがいなくなるのが怖かった。
ただ、それを理由にしていいことではない。
銀秋は口を閉じた。
長い沈黙が落ちる。
銀秋が手を伸ばした。
キミコへ、いつものように、掴もうとした。
けれど、キミコは一歩下がった。
ほんの一歩だった。
銀秋の手が止まる。
二人の間に、わずかな距離ができた。
いつもなら、すぐに埋まる距離だった。
銀秋が手を伸ばせば届く。
キミコが一歩近づけばなくなる。
それだけだった。
それだけなのに、今までで一番遠かった。
銀秋は伸ばした手を下ろした。
俯く。
床を見る。
子供が立っていたところ。
そこにはもう誰もいない。
「……許されねえことしたな」
キミコが銀秋を見る。
「銀秋」
キミコが少し近づこうとする。
銀秋が首を振った。
「来るな」
キミコの足が止まる。
伸ばしかけた手も、そのまま止まった。
「銀秋」
「お前は悪くねえ」
「……」
「何もしてねえ」
銀秋はようやく顔を上げる。
目が合う。
「お前は共犯じゃない」
キミコが瞬きをする。
「共犯?」
「俺が勝手にやった」
「……」
「お前は断った」
「うん」
「逃がした」
「うん」
「だから」
銀秋は一度、唇を噛んだ。
「お前は関係ねえ」
キミコは銀秋を見る。
「関係ある」
銀秋の目が動く。
「何で」
「銀秋のことだから」
「……」
「私のことでやったんでしょう」
銀秋の顔が歪む。
「だからだよ」
「分からない」
「分かんなくていい」
「嫌」
キミコは少し俯く。
「分からないままは嫌」
「……」
「銀秋は?」
「俺は」
言葉が止まる。
何を言っても言い訳になる気がした。
寂しかった。
怖かった。
離れたくなかった。
そんなものは、子供を攫った理由にはならない。
少しして。
「……俺は、やった」
それだけ言った。
銀秋は開いたままの戸口を見る。
夜の通り。
誰もいない。
それから、キミコを見る。
「行け」
キミコが動かない。
「どこ?」
「どこでもいい」
「銀秋は?」
「ここにいる」
「一人?」
「ああ」
キミコの目がわずかに細くなる。
「嫌」
銀秋の顔が歪んだ。
「……駄目だ」
「何で?」
「俺といるな」
「何で?」
「分かるだろ」
「分からない」
「分かれよ」
銀秋の声が少し強くなる。
キミコの目が動く。
銀秋はすぐに俯いた。
「……悪い」
拳を握る。
「でも、俺、お前に人間食わせようとしたんだぞ」
「食べてない」
「そういう話じゃねえ」
「でも食べてない」
「お前が断ったからだろ」
銀秋は顔を上げる。
「お前が断らなかったら」
そこで言葉が止まった。
銀秋の喉が震える。
「……俺は止められたか分かんねえ」
キミコは何も言わない。
「俺はやろうとした」
キミコは銀秋を見る。
「嫌だった」
「分かってる」
「あの子連れてきた銀秋、嫌だった」
「……そうだろうな」
「食べろって言ったのも嫌だった」
「俺も、今思えば吐きそうだ」
キミコはそこで言葉を止めた。
銀秋を見る。
「でも」
銀秋が目を上げる。
「銀秋までいらないって言ってない」
銀秋の顔から血の気が引く。
「キミコ」
「銀秋がしたことは嫌」
「……」
「でも銀秋は銀秋でしょう」
「違う」
「違わない」
「もう違うんだよ」
「何が?」
「俺がだよ」
銀秋は自分の胸元を掴んだ。
「お前が嫌がることして」
「……」
「人一人攫って」
「……」
「食えって連れてきた」
銀秋の声が震える。
「そんなことする奴になった」
キミコは黙って聞いている。
「もう駄目だろ」
キミコは少し考える。
「駄目なことした」
「……分かってる」
「もうしてほしくない」
「しねえって言い切れねえ」
キミコの目が動く。
銀秋は苦しそうに顔を歪めた。
「今の俺には」
その言葉に、キミコは少し黙った。
銀秋は続ける。
「だから駄目なんだ」
「……」
「今度は止まれるって、自分で言えねえ」
キミコは銀秋を見る。
「でも」
銀秋が僅かに目を上げる。
「それで銀秋といられなくなるのは嫌」
銀秋は何も言えなかった。
「私、銀秋のこと嫌いになったわけじゃない」
銀秋の目が揺れる。
「言うな」
「本当」
「言うなよ」
「何で?」
「また俺が縋るからだよ」
キミコは黙った。
銀秋は目を閉じる。
「また行かないでくれって言う」
拳を握る。
「お前が嫌だって言っても、ここに置こうとする」
「……」
「今度は何するか分かんねえ」
キミコが銀秋を見る。
「私がいたら、また誰か連れてくる?」
銀秋は答えられなかった。
否定したかった。
絶対にしないと言いたかった。
けれど、今日だって、朝までは自分がこんなことをすると思っていなかった。
だから言えなかった。
その沈黙で十分だった。
キミコの目が少し伏せられる。
「……そう」
声が少しだけ沈んだ。
銀秋はそれを聞いて、顔を上げられなかった。
「だから」
銀秋は戸口を指した。
「行け」
キミコはその手を見る。
それから銀秋を見る。
「追い出すの?」
「……そうだ」
「前は行かないでって言った」
「言った」
「火の中まで来た」
「行った」
「私が出ようとしたら嫌だって言った」
「そうだよ」
「今は行けって言う」
「……ああ」
キミコは黙る。
しばらくして、
「変」
と言った。
銀秋は少しだけ笑った。
ひどく疲れた笑いだった。
「知ってる」
キミコは笑わなかった。
「銀秋」
「何だ」
「一人になるよ」
銀秋の笑みが消えた。
「分かってる」
「嫌でしょう」
銀秋はしばらく答えなかった。
「……嫌だよ」
「怖いでしょう」
「怖い」
銀秋は唇を噛む。
「死ぬほど怖い」
キミコの目が僅かに揺れる。
「私も嫌」
銀秋が顔を上げる。
キミコはまっすぐ銀秋を見ていた。
「銀秋と離れるの嫌」
「……」
「前に出ようとした時は、銀秋が変になってたから」
「今も変だろ」
「うん」
キミコは迷わず頷いた。
「今も変」
「だったら」
「でも」
キミコは少しだけ銀秋へ近づいた。
銀秋の身体が強張る。
「私が出たいわけじゃない」
銀秋の顔が歪んだ。
「……やめろ」
「本当」
「頼むから」
「銀秋といたい」
「言うな」
銀秋は顔を背けた。
「言われたら、また止める」
キミコは黙る。
「お前をここに置く理由を探す」
「……」
「お前がここにいていい理由じゃねえ」
銀秋の声が震える。
「俺が、お前を離さなくていい理由だ」
キミコは銀秋を見る。
「同じじゃないの?」
「違う」
「分からない」
「違うんだよ」
銀秋は目元を押さえる。
「お前がいたいのと、俺がお前を逃がさねえのは違う」
「……」
「今日、俺はそれを間違えた」
キミコは何も言わない。
「だから行け」
キミコはしばらく動かなかった。
銀秋も顔を上げなかった。
夜の風だけが店の中へ入り続ける。
やがて、キミコが戸口へ向かう。
一歩。
銀秋の指が動く。
また一歩。
呼び止めそうになる。
いつもなら何でもない距離だった。
餅屋へ行く時も。
山へ行く時も。
何度も通った場所だった。
キミコが出かければ、また帰ってくる。
銀秋もそう思っていた。
今日は違う。
自分で行けと言った。
自分で追い出した。
一歩。
また一歩。
銀秋の指が震える。
喉が動く。
名前を呼びそうになる。
それでも呼び止めなかった。
キミコが戸口で止まる。
振り返る。
「銀秋」
銀秋は俯いたままだった。
「何だ」
「私が行ったら」
少し間が空く。
「銀秋、また一人になる」
銀秋の肩が動いた。
「……そうだな」
「前みたいに」
「そうなる」
「それでも?」
長い沈黙があった。
銀秋の拳が、さらに強く握られる。
爪が掌へ食い込む。
それでも、銀秋の言うことは変わらなかった。
「……行け」
キミコは銀秋を見る。
長く。
銀秋は一度も顔を上げなかった。
「分かった」
キミコは戸口を越える。
夜の通りへ出る。
一度だけ店を見る。
銀秋はまだ俯いている。
キミコは歩き出した。
暗がりへ入る。
姿が見えなくなる。
銀秋は動かなかった。
開いた戸口から、夜の空気が入ってくる。
足音がする。
一歩。
一歩。
小さくなる。
銀秋の唇が震える。
今なら、まだ呼べる。
キミコなら聞こえる。
人間よりずっと耳がいい。
小さな声でも届くかもしれない。
帰ってこい。
行くな。
悪かった。
一人にするな。
何でもいい。
一言言えば、キミコは戻ってくるかもしれない。
銀秋は拳を握ったまま、何も言わなかった。
足音がさらに遠ざかる。
やがて、聞こえなくなった。
それでもしばらく、銀秋は俯いたままだった。
店の中は静かだった。
帳場。
帳簿。
二人で使っていたもの。
キミコがいつも座っていた場所。
どこを見ても、何も変わっていない。
そこにいるはずのものだけがいない。
銀秋はゆっくり顔を上げた。
開いた戸口を見る。
誰もいない。
喉が動く。
もう聞こえないと分かってから、誰もいなくなった店の中で、小さく呟く。
「……行くなよ」
返事はなかった。
もう、キミコには届かなかった。




