↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スダマの鬼  作者: 肉
49/52

罪

 火事の夜から、銀秋はさらに変わった。

 それまでも、キミコが外へ出れば気にしていた。

 どこへ行く。

 何をしに行く。

 いつ帰る。

 何度も聞いた。

 それでも、最近は聞かないようにしていた。

 聞けば、キミコを縛ることになると分かっていたからだ。

 だから口にはしなかった。

 その代わり、キミコがいない間、仕事に集中できなくなった。

 帳簿を開く。

 一行書く。

 銭の出入りを確かめる。

 次の行へ筆を置く。

 そこで、外から足音がする。

 顔を上げる。

 戸口を見る。

 人影が通り過ぎる。

 キミコではない。

 銀秋は帳簿へ目を戻す。

 さっき書いた一行を見る。

 何を書こうとしていたのか分からなくなる。

「……」

 筆を置く。

 もう一度、戸口を見る。

 誰もいない。

 また帳簿へ目を戻す。

 そんなことを繰り返した。

 客が来れば商売はした。

 品を見る。

 値を決める。

 銭を数える。

 いつも通り話もする。

 けれど、途中で外から足音がすると、ふいに言葉が止まることがあった。

「……それで、これは」

 銀秋の目だけが戸口へ向く。

 客が怪訝そうな顔をする。

「どうした?」

「何でもねえ」

 足音は店の前を通り過ぎていく。

 銀秋は一度息を吐き、何事もなかったように品へ目を戻した。

「悪い。続けるぞ」

 商売はできる。

 計算も間違えない。

 ただ、キミコがいない間だけ、頭のどこかがずっと戸口を見ていた。

 いつもなら戻る頃を過ぎても、キミコが帰らない日もあった。

 そういう日は、とうとう店の外へ出た。

 戸口を跨ぐ。

 通りの端を見る。

 反対側も見る。

 人が何人か歩いている。

 知らない顔ばかりだった。

 銀秋は藤の鉢のそばに立つ。

 紫の花房が風に揺れている。

 しばらく待つ。

 それでもキミコの姿は見えない。

「……何してんだ、俺」

 小さく吐き捨てて、店へ戻る。

 帳場へ座る。

 帳簿を開く。

 少しすると、また外へ出る。

 そんなことを何度か繰り返した。




「ただいま」

 聞き慣れた声がする。

 銀秋はすぐに顔を上げる。

 キミコが戸口に立っている。

「……おう」

 それだけだった。

 遅かったな、とも言わない。

 どこへ行っていたのかも聞かない。

 帰ってきたなら、それでいい。

 銀秋は俯く。

 その日、ほとんど進まなかった帳簿を引き寄せる。

 ようやく筆を持つ。

 続きを書き始める。

 さっきまで何度読んでも頭に入らなかった数字が、今度はちゃんと読めた。




 夜になれば、銀秋の方からキミコを抱いた。

 以前より強く、腕の中へ閉じ込めるように。

 眠る時にも離さない。

 キミコが少し身じろぎするだけで、銀秋の腕に力が入る。




 ある夜。

 キミコが寝返りを打った。

 銀秋の目が開く。

「銀秋」

「……」

「起きた?」

「……起きてねえ」

「起きてる」

「寝ろ」

 キミコは銀秋の顔を見る。

 暗い中でも、目が開いているのが分かる。

「変」

「分かってる」

 銀秋はキミコの頭を胸元へ引き寄せた。

「寝ろ」

「銀秋は?」

「そのうち寝る」

「眠くない?」

「眠い」

「じゃあ寝ればいい」

「そうする」

 それでも腕は緩まなかった。




 それから、銀秋は時々、妙なことを聞くようになった。

 何の前触れもなく。

 帳簿をつけている時。

 飯を食っている時。

 寝る前。

 まるで、ずっと頭の中にあったものが、ふと隙間から漏れるように。

「なあ」

「何?」

「山にいた頃、人食ってたんだよな」

「うん」

「どんな奴でも?」

 キミコが銀秋を見る。

「何で?」

「何となく」

「……?」

「いいから」

 キミコは少し考えた。

「食べられそうなら食べた」

「子供も?」

「食べたことある」

 銀秋の指が止まる。

 ほんの一瞬だった。

「……そうか」

「何?」

「何でもねえ」

 銀秋はそれ以上聞かなかった。




 別の日には、

「人の肉、好きだったのか」

 と聞いた。

 キミコは餅を食べていた。

 口を動かしながら、少し考える。

「食べてた」

「好きかどうか聞いてんだよ」

「分からない」

「分かんねえのか」

「食べられるから食べてた」

「……そういうもんか」

「うん」

 銀秋は少し黙った。

「今は?」

「食べない」

「何で」

「銀秋が嫌がるから」

 銀秋の目が動く。

「それだけ?」

「それだけじゃない」

「じゃあ何だよ」

 キミコは残った餅を見る。

「今はいらない」

「人間が?」

「うん」

「食いたくない?」

「食べたくない」

 銀秋は何も言わなかった。

 帳簿へ目を落とす。

「銀秋」

「何だ」

「変」

「……知ってるよ」

「何で人のことばっかり聞くの?」

「何でもねえって」

「何でもなくない」

「いいんだよ」

「よくない」

 銀秋は筆を持ち直した。

「この話は終わり」

 キミコはしばらく銀秋を見ていた。

 それ以上は聞かなかった。




 何日か経った。

 その朝から、銀秋は落ち着かなかった。

 帳簿を開く。

 何も書かない。

 閉じる。

 少しして、また開く。

 昨日のところを読む。

 また閉じる。

 キミコがその様子を見る。

「銀秋」

「何だ」

「仕事しないの?」

「してるよ」

「してない」

「してる」

「帳簿、開けたり閉じたりしてるだけ」

「うるせえな」

 銀秋は帳簿を閉じた。

 少し乱暴な音がした。

 キミコが瞬きをする。

 銀秋はしばらく黙っていた。

 両手を膝に置く。

 指を握る。

 開く。

 また握る。

 やがて立ち上がった。

「ちょっと出てくる」

 キミコが顔を上げる。

「どこ?」

「その辺」

「何しに?」

「用事」

「何の?」

 銀秋がキミコを見る。

 すぐには答えない。

「……すぐ戻る」

「どこに行くか言わないの?」

「今日はいいだろ」

「何で?」

「大した用じゃねえ」

 銀秋は草履を履いた。

「店、頼む」

「うん」

 戸口を出る。

 キミコはその背中を見る。

 最近、銀秋はキミコの行き先を聞かないようにしている。

 けれど、銀秋自身は違った。

 餅屋へ行く。

 酒屋へ行く。

 少し先の客のところへ行く。

 出かける時には、大抵言っていた。

 今日は、それを言わなかった。

 キミコは閉じた戸口を、少し長く見ていた。




 昼を過ぎた。

 銀秋は戻らなかった。

 客が一人来た。

「旦那は?」

「いない」

「いつ戻る?」

「分からない」

「じゃあ、また来るわ」

 客は帰った。

 キミコは店の奥へ戻る。

 少しして、戸口を見る。

 誰もいない。




 夕方になった。

 それでも戻らない。

 日は傾き、通りに長い影が伸びた。

 やがて、それも消えた。

 空が暗くなる。

 キミコは帳場のそばに座ったまま、何度も戸口を見る。

 銀秋が帰ってこない。

 外では、遠くで誰かが戸を閉める音がした。

 人の話し声も減っていく。

 もう、店の前を歩く者もほとんどいない。

「……遅い」

 キミコが呟いた。

 銀秋がいつも座る場所を見る。

 帳簿が置いたままになっている。

 朝、何度も開いては閉じたものだ。

 キミコは少し考えた。

 立ち上がる。

 戸口まで行く。

 外を見る。

 暗い。

 銀秋はいない。

 キミコは店へ戻った。

 待った。




 その頃、銀秋は暗くなった京を歩いていた。


 昼間から、何度も足を止めていた。

 そのたびに思った。

 帰れ。

 何してる。

 やめろ。

 まだ戻れる。

 何度も思った。

 実際、何度か踵を返した。

 店の方へ数歩歩いたこともある。

 だが、そのたびにキミコの顔が浮かんだ。

『今はいなくならない』

 あの言葉。

 今は、と言った。

 ずっとではない。

 銀秋が死ぬまでとも言わなかった。

 明日までとも言わなかった。

 ただ、今は、と。

「……」

 銀秋は立ち止まる。

 胸の奥が冷たくなる。

 また歩き出す。




 何をしようとしているのか、分かっていた。

 駄目なことも、最初から分かっていた。

 昔の自分なら、絶対にしなかった。

 妻が生きていた頃なら。

 子供が生きていた頃なら。

 あの頃の自分が今を見れば、何をしていると怒鳴るだろう。

 それも分かっていた。

 それでも、キミコがいなくなることを考えると、銀秋の中で、それ以外のものが全部小さくなった。

 善悪も、恐怖も、目の前にいる誰かの事情さえも。

 キミコをここに置けるのなら。

 そう考えた自分がいる。

 それを認めながら、銀秋は歩いた。




 夜が深くなり始めた頃。

 表から足音がした。

 キミコが顔を上げる。

 一人分ではない。

 一つは銀秋の足音だった。

 何度も聞いている。

 それより小さな足音が、遅れてついてくる。

 時々、引きずるように止まる。

 また歩く。

 戸口に影が差した。

 銀秋が入ってくる。

「ただいま」

 キミコが立ち上がる。

「遅かった」

「……悪い」

 銀秋の顔色は悪かった。

 額には汗が浮いている。

 夜はもう暑くない。

 それなのに、額も首筋も濡れている。

「疲れた?」

「少しな」

 銀秋は店の中へ入る。

 だが、戸を閉めなかった。

 キミコがその向こうを見る。

 外は暗い。

 通りには誰もいない。

 その暗がりの中に、小さな影が立っていた。

 銀秋が振り返る。

「……来い」

 影が動かない。

 銀秋の眉が寄る。

「来いって」

 小さな影が、一歩ずつ店の中へ入ってくる。

 子供だった。

 十にも届いていないように見える。

 着物は汚れていた。

 片方の草履がずれている。

 手首を紐で縛られていた。

 口には布が巻かれている。

 乱雑な猿轡だった。

 目には涙が溜まっていた。

 頬にも乾きかけた涙の跡が残っている。

 肩が細かく震えている。

 息をするたび、喉の奥で小さな音がした。

 キミコが子供を見る。

 それから銀秋を見る。

「誰?」

 銀秋は答えなかった。

 外を一度見る。

 右。

 左。

 人影はない。

 戸を閉める。

 閂をかける。

 木が噛み合う音が、妙に大きく響いた。

 銀秋の手が震えている。

「銀秋」

 返事はない。

 銀秋は子供の肩へ手を置いた。

 前へ押す。

 子供がよろめく。

 足がもつれ、転びそうになる。

 銀秋の手が咄嗟に腕を掴んだ。

 倒れるのを支える。

 その瞬間、銀秋自身が自分の手を見た。

 すぐに離す。

 キミコの単眼が銀秋へ戻る。

「何するの?」

 銀秋は口を開いた。

 声が出ない。

 唇を閉じる。

 何度か息をする。

 喉が上下する。

 それから、口を開く。

「……食っていい」

 キミコが瞬きをした。

「何?」

 銀秋は子供を見た。

 見たのは一瞬だった。

 すぐにキミコへ視線を戻す。

「お前」

 声が少し掠れている。

「昔は人を食ってただろ」

 キミコは何も言わない。

「山にいた頃」

「うん」

「人間、食ってた」

「うん」

 子供が小さく首を振る。

 猿轡の奥で声を出そうとする。

 何かを訴えている。

 けれど布に塞がれて、言葉にはならない。

 銀秋はそちらを見なかった。

 見れば、見てしまえば、もう言えなくなるような気がした。

 だからキミコだけを見る。

「食っていい」

「いらない」

 即答だった。

 銀秋の目が動く。

「……何で」

「いらないから」

「昔は食ってた」

「今はいらない」

「何でだよ」

「いらない」

 銀秋の呼吸が速くなる。

「好きだっただろ」

「違う」

「人食うの」

「食べてた」

「なら」

「今はいらない」

「こいつなら」

 銀秋が言う。

「こいつならいいだろ」

 キミコの目がわずかに細くなる。

「何が?」

「……」

 銀秋は答えない。

 キミコは子供を見る。

 小さな身体が震えている。

 その目がキミコと合う。

 恐怖でいっぱいだった。

 キミコは再び銀秋を見る。

「帰して」

 銀秋の顔が歪んだ。

「キミコ」

「帰して」

「頼む」

 銀秋が一歩近づく。

「これならいいだろ」

「何が?」

「食っていいんだよ」

「いらない」

「好きにしていい」

「しない」

「俺は何も言わねえ」

「しない」

「もう止めない」

「いらない」

「何でだよ!」

 銀秋の声が大きくなる。

 子供の肩が跳ねた。

 猿轡の奥から、小さな悲鳴が漏れる。

 キミコの目が細くなる。

「銀秋」

「何だよ」

「怖がってる」

「……」

「この子」

 銀秋の顔が止まった。

 ゆっくり、子供を見る。

 涙で濡れた目と合う。

 鼻を啜ることもできず、苦しそうに息をしている。

 銀秋はすぐに目を逸らした。

「……分かってる」

「怖いって分かってる?」

「分かってるよ」

「じゃあ何で?」

「俺だって」

 銀秋が言う。

「俺だって分かってるよ」

「……」

「こんなの駄目だって」

 キミコは黙っている。

「最初から分かってる」

「じゃあ帰して」

「でも」

 銀秋の顔が歪む。

「お前、またいなくなるだろ」

「……」

「俺が死んだら」

 声が震える。

「その前に出てくかもしれねえ」

「銀秋」

「嫌なんだよ」

 銀秋は子供の肩から完全に手を離した。

 まるで触れていることに耐えられなくなったように。

 そのままキミコへ近づく。

「もう嫌なんだ」

「……」

「何でもする」

 キミコは動かない。

「何でもやるから」

 銀秋が手を伸ばす。

「もう止めねえから」

 キミコの目が大きくなる。

「何したっていいから」

「銀秋」

「だから」

 伸ばした手が、キミコの袖に触れそうになる。

 だが、触れる前に止まった。

「行かないでくれ」

 店の中が静かになった。

 子供の押し殺した呼吸だけが聞こえる。

 銀秋の手が震えている。

 キミコはその手を見る。

 銀秋を見る。

 長い間、何も言わなかった。

「いらない」

 銀秋の指が僅かに動く。

「キミコ」

「いらない」

「でも」

「いらない」

 キミコは一歩下がった。

 銀秋の手が空を掴む。

 銀秋の顔が強張った。

 キミコは銀秋を見る。

「銀秋が」

 言葉を切る。

 銀秋が待つ。

「こんなの嫌」

 銀秋の顔から表情が消えた。

「……何?」

「こんな銀秋、嫌」

 銀秋は何も言えなかった。

 口が僅かに開く。

 けれど声が出ない。

 キミコは銀秋から目を離した。

 子供の前へ行き、しゃがむ。

 子供がびくりと身を縮める。

「取るだけ」

 キミコは猿轡へ手をかける。

 布をほどく。

 外れた瞬間、子供が大きく息を吸った。

「っ、う……」

 堪えていた泣き声が漏れる。

 咳き込む。

 キミコは何も言わず、今度は手首を見る。

 紐へ指をかける。

 結び目を解く。

 手首には赤い跡が残っていた。

「帰っていい」

 子供はキミコを見る。

 涙を流したまま、何度も瞬きをする。

「……いい、の」

「うん」

 声も震えている。

「帰っていい」

 子供は立ち上がった。

 銀秋を見る。

 その瞬間、身体が固まる。

 足が止まる。

 キミコが子供と銀秋の間へ入った。

 銀秋の姿を隠す。

「行って」

 子供は戸口へ走った。

 閂に手をかける。

 だが、うまく外せない。

 何度も木を掴む。

 指が震えている。

 キミコが横から手を伸ばした。

 閂を外す。

 戸を開ける。

 冷たい夜気が流れ込む。

 外には誰もいなかった。

 子供は振り返らなかった。

 そのまま夜の通りへ飛び出していく。

 足音が遠ざかる。

 小さくなる。

 聞こえなくなる。

 戸は開いたままだった。

 店の中に、銀秋とキミコだけが残った。

 夜の空気が、戸口から入ってくる。

 藤の花房が僅かに揺れた。

 しばらく、どちらも喋らなかった。

 銀秋は立ったままだった。

 キミコも動かない。

 銀秋の視線は、子供が消えた暗がりへ向いていた。

「……帰したのか」

「うん」

「そうか」

 銀秋は笑おうとした。

 口元だけが僅かに動く。

 笑えなかった。

「俺」

 声が掠れる。

「何してんだろうな」

 キミコは答えなかった。

「分かってたんだよ」

「……」

「連れてくる時も」

 銀秋は自分の手を見る。

 さっき、子供の肩を押した手。

 腕を掴んだ手。

 紐を握って歩いた手。

「駄目だって」

 指が震えていた。

「何度も帰そうと思った」

 キミコが銀秋を見る。

「でも帰さなかった」

「……そうだ」

「連れてきた」

「連れてきた」

 銀秋は自分で答えた。

「俺が」

 そのまま両手で顔を覆う。

「俺がやった」

 声がくぐもる。

「お前がいなくなるって思ったら」

 そこで言葉が途切れた。

 息を吐く。

「……他のこと、どうでもよくなった」

 キミコの目が僅かに動く。

「銀秋」

「……」

「前の銀秋は」

 銀秋の肩が止まる。

「こんなことしなかった」

 銀秋は顔を上げない。

「……そうだな」

「私、人を食べてた」

「ああ」

「銀秋が止めた」

「……止めた」

「嫌だって言った」

「言った」

「今は」

 キミコは少し黙った。

「銀秋が連れてきた」

 銀秋の手がゆっくり下がる。

 顔が青ざめていた。

「……そうだ」

「私に食べさせるために」

 銀秋の唇が震える。

「そうだよ」

 キミコは銀秋を見る。

「嫌」

 銀秋の顔が歪む。

「……俺もだ」

「銀秋も嫌?」

「こんな俺は嫌だよ」

「じゃあ何で?」

 銀秋は答えられなかった。

 自分でも何度も聞いた問いだった。

 何で。

 どうして。

 やめられなかったのか。

 答えは分かっている。

 キミコがいなくなるのが怖かった。

 ただ、それを理由にしていいことではない。

 銀秋は口を閉じた。

 長い沈黙が落ちる。

 銀秋が手を伸ばした。

 キミコへ、いつものように、掴もうとした。

 けれど、キミコは一歩下がった。

 ほんの一歩だった。

 銀秋の手が止まる。

 二人の間に、わずかな距離ができた。

 いつもなら、すぐに埋まる距離だった。

 銀秋が手を伸ばせば届く。

 キミコが一歩近づけばなくなる。

 それだけだった。

 それだけなのに、今までで一番遠かった。

 銀秋は伸ばした手を下ろした。

 俯く。

 床を見る。

 子供が立っていたところ。

 そこにはもう誰もいない。

「……許されねえことしたな」

 キミコが銀秋を見る。

「銀秋」

 キミコが少し近づこうとする。

 銀秋が首を振った。

「来るな」

 キミコの足が止まる。

 伸ばしかけた手も、そのまま止まった。

「銀秋」

「お前は悪くねえ」

「……」

「何もしてねえ」

 銀秋はようやく顔を上げる。

 目が合う。

「お前は共犯じゃない」

 キミコが瞬きをする。

「共犯?」

「俺が勝手にやった」

「……」

「お前は断った」

「うん」

「逃がした」

「うん」

「だから」

 銀秋は一度、唇を噛んだ。

「お前は関係ねえ」

 キミコは銀秋を見る。

「関係ある」

 銀秋の目が動く。

「何で」

「銀秋のことだから」

「……」

「私のことでやったんでしょう」

 銀秋の顔が歪む。

「だからだよ」

「分からない」

「分かんなくていい」

「嫌」

 キミコは少し俯く。

「分からないままは嫌」

「……」

「銀秋は?」

「俺は」

 言葉が止まる。

 何を言っても言い訳になる気がした。

 寂しかった。

 怖かった。

 離れたくなかった。

 そんなものは、子供を攫った理由にはならない。

 少しして。

「……俺は、やった」

 それだけ言った。

 銀秋は開いたままの戸口を見る。

 夜の通り。

 誰もいない。

 それから、キミコを見る。

「行け」

 キミコが動かない。

「どこ?」

「どこでもいい」

「銀秋は?」

「ここにいる」

「一人?」

「ああ」

 キミコの目がわずかに細くなる。

「嫌」

 銀秋の顔が歪んだ。

「……駄目だ」

「何で?」

「俺といるな」

「何で?」

「分かるだろ」

「分からない」

「分かれよ」

 銀秋の声が少し強くなる。

 キミコの目が動く。

 銀秋はすぐに俯いた。

「……悪い」

 拳を握る。

「でも、俺、お前に人間食わせようとしたんだぞ」

「食べてない」

「そういう話じゃねえ」

「でも食べてない」

「お前が断ったからだろ」

 銀秋は顔を上げる。

「お前が断らなかったら」

 そこで言葉が止まった。

 銀秋の喉が震える。

「……俺は止められたか分かんねえ」

 キミコは何も言わない。

「俺はやろうとした」

 キミコは銀秋を見る。

「嫌だった」

「分かってる」

「あの子連れてきた銀秋、嫌だった」

「……そうだろうな」

「食べろって言ったのも嫌だった」

「俺も、今思えば吐きそうだ」

 キミコはそこで言葉を止めた。

 銀秋を見る。

「でも」

 銀秋が目を上げる。

「銀秋までいらないって言ってない」

 銀秋の顔から血の気が引く。

「キミコ」

「銀秋がしたことは嫌」

「……」

「でも銀秋は銀秋でしょう」

「違う」

「違わない」

「もう違うんだよ」

「何が?」

「俺がだよ」

 銀秋は自分の胸元を掴んだ。

「お前が嫌がることして」

「……」

「人一人攫って」

「……」

「食えって連れてきた」

 銀秋の声が震える。

「そんなことする奴になった」

 キミコは黙って聞いている。

「もう駄目だろ」

 キミコは少し考える。

「駄目なことした」

「……分かってる」

「もうしてほしくない」

「しねえって言い切れねえ」

 キミコの目が動く。

 銀秋は苦しそうに顔を歪めた。

「今の俺には」

 その言葉に、キミコは少し黙った。

 銀秋は続ける。

「だから駄目なんだ」

「……」

「今度は止まれるって、自分で言えねえ」

 キミコは銀秋を見る。

「でも」

 銀秋が僅かに目を上げる。

「それで銀秋といられなくなるのは嫌」

 銀秋は何も言えなかった。

「私、銀秋のこと嫌いになったわけじゃない」

 銀秋の目が揺れる。

「言うな」

「本当」

「言うなよ」

「何で?」

「また俺が縋るからだよ」

 キミコは黙った。

 銀秋は目を閉じる。

「また行かないでくれって言う」

 拳を握る。

「お前が嫌だって言っても、ここに置こうとする」

「……」

「今度は何するか分かんねえ」

 キミコが銀秋を見る。

「私がいたら、また誰か連れてくる?」

 銀秋は答えられなかった。

 否定したかった。

 絶対にしないと言いたかった。

 けれど、今日だって、朝までは自分がこんなことをすると思っていなかった。

 だから言えなかった。

 その沈黙で十分だった。

 キミコの目が少し伏せられる。

「……そう」

 声が少しだけ沈んだ。

 銀秋はそれを聞いて、顔を上げられなかった。

「だから」

 銀秋は戸口を指した。

「行け」

 キミコはその手を見る。

 それから銀秋を見る。

「追い出すの?」

「……そうだ」

「前は行かないでって言った」

「言った」

「火の中まで来た」

「行った」

「私が出ようとしたら嫌だって言った」

「そうだよ」

「今は行けって言う」

「……ああ」

 キミコは黙る。

 しばらくして、

「変」

 と言った。

 銀秋は少しだけ笑った。

 ひどく疲れた笑いだった。

「知ってる」

 キミコは笑わなかった。

「銀秋」

「何だ」

「一人になるよ」

 銀秋の笑みが消えた。

「分かってる」

「嫌でしょう」

 銀秋はしばらく答えなかった。

「……嫌だよ」

「怖いでしょう」

「怖い」

 銀秋は唇を噛む。

「死ぬほど怖い」

 キミコの目が僅かに揺れる。

「私も嫌」

 銀秋が顔を上げる。

 キミコはまっすぐ銀秋を見ていた。

「銀秋と離れるの嫌」

「……」

「前に出ようとした時は、銀秋が変になってたから」

「今も変だろ」

「うん」

 キミコは迷わず頷いた。

「今も変」

「だったら」

「でも」

 キミコは少しだけ銀秋へ近づいた。

 銀秋の身体が強張る。

「私が出たいわけじゃない」

 銀秋の顔が歪んだ。

「……やめろ」

「本当」

「頼むから」

「銀秋といたい」

「言うな」

 銀秋は顔を背けた。

「言われたら、また止める」

 キミコは黙る。

「お前をここに置く理由を探す」

「……」

「お前がここにいていい理由じゃねえ」

 銀秋の声が震える。

「俺が、お前を離さなくていい理由だ」

 キミコは銀秋を見る。

「同じじゃないの?」

「違う」

「分からない」

「違うんだよ」

 銀秋は目元を押さえる。

「お前がいたいのと、俺がお前を逃がさねえのは違う」

「……」

「今日、俺はそれを間違えた」

 キミコは何も言わない。

「だから行け」

 キミコはしばらく動かなかった。

 銀秋も顔を上げなかった。

 夜の風だけが店の中へ入り続ける。

 やがて、キミコが戸口へ向かう。

 一歩。

 銀秋の指が動く。

 また一歩。

 呼び止めそうになる。

 いつもなら何でもない距離だった。

 餅屋へ行く時も。

 山へ行く時も。

 何度も通った場所だった。

 キミコが出かければ、また帰ってくる。

 銀秋もそう思っていた。

 今日は違う。

 自分で行けと言った。

 自分で追い出した。

 一歩。

 また一歩。

 銀秋の指が震える。

 喉が動く。

 名前を呼びそうになる。

 それでも呼び止めなかった。

 キミコが戸口で止まる。

 振り返る。

「銀秋」

 銀秋は俯いたままだった。

「何だ」

「私が行ったら」

 少し間が空く。

「銀秋、また一人になる」

 銀秋の肩が動いた。

「……そうだな」

「前みたいに」

「そうなる」

「それでも?」

 長い沈黙があった。

 銀秋の拳が、さらに強く握られる。

 爪が掌へ食い込む。

 それでも、銀秋の言うことは変わらなかった。

「……行け」

 キミコは銀秋を見る。

 長く。

 銀秋は一度も顔を上げなかった。

「分かった」

 キミコは戸口を越える。

 夜の通りへ出る。

 一度だけ店を見る。

 銀秋はまだ俯いている。

 キミコは歩き出した。

 暗がりへ入る。

 姿が見えなくなる。

 銀秋は動かなかった。

 開いた戸口から、夜の空気が入ってくる。

 足音がする。

 一歩。

 一歩。

 小さくなる。

 銀秋の唇が震える。

 今なら、まだ呼べる。

 キミコなら聞こえる。

 人間よりずっと耳がいい。

 小さな声でも届くかもしれない。

 帰ってこい。

 行くな。

 悪かった。

 一人にするな。

 何でもいい。

 一言言えば、キミコは戻ってくるかもしれない。

 銀秋は拳を握ったまま、何も言わなかった。

 足音がさらに遠ざかる。

 やがて、聞こえなくなった。

 それでもしばらく、銀秋は俯いたままだった。

 店の中は静かだった。

 帳場。

 帳簿。

 二人で使っていたもの。

 キミコがいつも座っていた場所。

 どこを見ても、何も変わっていない。

 そこにいるはずのものだけがいない。

 銀秋はゆっくり顔を上げた。

 開いた戸口を見る。

 誰もいない。

 喉が動く。

 もう聞こえないと分かってから、誰もいなくなった店の中で、小さく呟く。

「……行くなよ」

 返事はなかった。

 もう、キミコには届かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。