1462年
寛正三年。
夜だった。
銀秋は店の表に立っていた。
店を閉めようとしていたところだった。
昼間に出していたものを中へ戻し、あとは表の戸を閉めるだけだった。
通りには、まだ何人か人がいる。
家へ帰る者。
急ぎ足でどこかへ向かう者。
少し離れたところでは、誰かが戸を閉める音がした。
戸へ手をかける。
そこで、顔を上げた。
通りの向こうが、妙に明るい。
下京の方だった。
最初は、誰かが灯りでも持っているのかと思った。
だが、違った。
空が赤い。
夜の色ではなかった。
暗い空の下から、赤い光が滲むように広がっている。
銀秋は戸へかけていた手を止めた。
「……何だ」
遠くから、人の声が聞こえる。
一つではない。
いくつも重なっている。
走る足音。
叫び声。
何かを叩く音。
「火事だ!」
誰かが叫んだ。
銀秋の身体が止まった。
通りを男が走っていく。
「下京だ! 火が出たぞ!」
その声が遠ざかる。
赤い光が空を染めている。
煙が上がっていた。
黒い煙が、夜の空へ溶けるように昇っている。
風が吹いた。
銀秋の衣の裾が揺れる。
その風に乗って、焦げた匂いがかすかに届いた。
木が焼ける匂い。
何かが燻る匂い。
銀秋は動かなかった。
戸にも触れたままだった。
ただ、燃えている空を見ていた。
「銀秋」
隣にいたキミコが呼ぶ。
返事がない。
キミコが銀秋を見る。
銀秋の顔は、遠くの火へ向いたままだった。
「銀秋」
もう一度呼ぶ。
それでも返事はなかった。
銀秋の目は、遠くの火から離れない。
火。
煙。
人の声。
走る足音。
焦げた匂い。
赤い空。
あの夜も、同じだった。
銀秋は息を吸った。
浅い。
胸の上の方だけが動いた。
もう一度吸う。
うまく入らない。
喉の奥が狭くなったようだった。
指先が冷たくなる。
戸へ触れていた手が震えた。
目の前にあるのは、今の火だった。
下京で起きている火事。
ここからはまだ遠い。
この店が燃えているわけでもない。
分かっている。
それなのに、別のものが重なる。
焼けた家。
赤い炎。
煙の向こう。
人が押し合う道。
戻れなかった場所。
妻。
子供。
銀秋の喉が動いた。
何か言おうとした。
声が出なかった。
「銀秋」
急に視界が暗くなった。
キミコの手だった。
後ろから伸びた手が、銀秋の目を覆っている。
目の前から、赤い空が消える。
「見ないで」
銀秋は動かなかった。
暗い。
キミコの掌がある。
それでも、頭の中にはまだ炎が残っていた。
目を閉じても消えない。
焼ける音まで聞こえる気がする。
銀秋の手が上がった。
キミコの手首に触れる。
外そうとした。
けれど、指に力が入らない。
そのまま手首をゆっくりと掴んだ。
キミコは手をどけなかった。
「見なくていい」
銀秋は何も言わなかった。
キミコの手首を掴んだまま、そこに立っていた。
しばらく、そのままだった。
通りを人が走っていく。
「水持ってこい!」
誰かが叫んでいる。
さらに向こうでは、何か大きなものが倒れるような音がした。
遠くではまだ声が上がっている。
火は消えていない。
けれど、銀秋には見えなかった。
キミコの手だけが、目の前にあった。
「中、入る?」
キミコが聞いた。
銀秋はすぐには答えなかった。
呼吸を何度か繰り返す。
それでも胸の苦しさは消えない。
少し遅れて、やっと答える。
「……ああ」
キミコが手を離す。
銀秋はもう火の方を見なかった。
キミコは銀秋の手を取った。
そのまま店の中へ連れていく。
銀秋も、それを止めなかった。
戸を閉めた。
外の赤い光が見えなくなる。
閂をかける。
暗い店の奥へ入る。
外の声だけが、戸を隔てて聞こえてくる。
銀秋は帳場のそばへ座った。
座るというより、力が抜けるように腰を下ろした。
膝へ手を置く。
指先はまだ冷たかった。
キミコも隣に座る。
「銀秋」
「ん」
返事はした。
声が少し掠れていた。
「怖い?」
銀秋は答えなかった。
戸の向こうから、まだ人の声が聞こえる。
少しして、短く答えた。
「……ああ」
キミコは銀秋を見る。
「火?」
「ああ」
「前の?」
銀秋の指が動いた。
膝の上で拳を握る。
「……ああ」
キミコはそれ以上聞かなかった。
ただ隣に座っていた。
銀秋も何も言わない。
しばらくすると、また風が吹いた。
閉めた戸の隙間から、焦げた匂いがわずかに入ってきた。
銀秋の肩が強張った。
キミコがそれを見る。
何も言わず、銀秋の近くへ寄った。
肩が触れる。
銀秋は離れなかった。
その夜。
二人は寝具へ入った。
外はまだ落ち着かない。
火元は離れている。
それでも時々、人の声が聞こえた。
通りを走る足音もあった。
風向きが変わるたび、焦げた匂いも入ってくる。
銀秋は眠れなかった。
仰向けになって、天井を見る。
暗い。
何も見えない。
目を閉じる。
すぐに火が見えた。
赤い。
熱い。
煙が上がる。
目を開ける。
暗い天井がある。
ここは自分の店だ。
今は燃えていない。
分かっている。
もう一度目を閉じる。
今度は妻の顔が浮かんだ。
笑っていた。
次に、子供の顔。
それが、煙の向こうへ消える。
銀秋は目を開いた。
あの夜。
戻れなかった。
間に合わなかった。
帰った時には、もう遅かった。
何もできなかった。
自分だけが残った。
銀秋は寝返りを打った。
隣を見る。
キミコがいる。
横向きになって眠っている。
出会った頃と、ほとんど変わらない。
顔も。
身体も。
藤色の目も。
あの頃と同じだった。
八年。
人間には短くない。
キミコには、何でもないのかもしれない。
銀秋はしばらく、その顔を見ていた。
自分は変わった。
髪には、いつの間にか白いものが混じるようになった。
最初は一本二本だった。
今では、探さなくても見つかる。
少し歩いただけで疲れる日も増えた。
朝、身体が重い日もある。
客が少ない日に、帳場でうとうとすることもあった。
この前の飢饉では、とうとう起き上がれなくなった。
若い頃なら、そんなことはなかった。
無理をしても動けた。
少しくらい飯を抜いても倒れなかった。
銀秋は寝具の上へ出ている自分の手を見る。
皺だらけというほどではない。
まだ大きく変わったわけでもない。
それでも、少しずつ老いている。
一日ずつ、一年ずつ、確実に。
銀秋はもう一度キミコを見る。
キミコは変わらない。
たぶん、これからも変わらない。
十年経っても。
二十年経っても。
自分だけが先に老いる。
自分だけが先に弱る。
いつか起き上がれなくなる。
いつか、死ぬ。
その時、キミコを残す。
銀秋の胸が詰まった。
置いていかれるのが怖かった。
誰かに先にいなくなられるのが怖かった。
妻と子供を失ってから、ずっとそうだった。
もう一人になるのは嫌だった。
キミコがいなくなるのも嫌だった。
それなのに、今になって、自分が置いていくことも、同じくらい怖かった。
自分だけ先にいなくなる。
キミコを一人残して。
銀秋は手を伸ばした。
キミコの頬に触れる。
温かかった。
ちゃんといる。
指先で頬をなぞる。
キミコが目を開けた。
藤色の目が銀秋を見る。
「銀秋」
「……起きてたか」
「今起きた」
「悪い」
「いい」
銀秋は頬に触れたまま、少し黙った。
キミコは銀秋の手を払わない。
「お前は変わらねえな」
「何が?」
「何も」
キミコが銀秋を見る。
少し考えてから言った。
「銀秋は変わった」
「……そうだな」
「髪、白いの増えた」
銀秋が少し笑う。
「見りゃ分かるよ」
「ここも」
キミコが銀秋の髪へ触れる。
白いものを一本つまんだ。
「増えた」
「抜くなよ」
「抜かない」
「ならいい」
「疲れるのも早くなった」
「それも言うな」
「本当でしょう」
「ああ」
銀秋は目を伏せた。
「本当だよ」
キミコは何も言わない。
銀秋の頬に触れていた手が、少し下がった。
そのままキミコの肩へ回る。
引き寄せる。
キミコの身体が銀秋の胸へ寄った。
銀秋はそのまま抱いた。
「なあ」
「何?」
「俺が先に死んだら」
言葉が止まる。
口に出した途端、本当にそうなるような気がした。
「うん」
キミコは待っている。
「お前、残るんだよな」
「うん」
迷いなく答えた。
銀秋は目を閉じた。
「……嫌だな」
「何が?」
「お前置いてくの」
キミコが瞬きをする。
「銀秋が?」
「ああ」
「私は死なないから?」
「たぶんな」
「うん」
銀秋は苦く笑った。
「俺ばっか怖がってたけど」
「うん」
「お前に置いてかれるのも嫌だし」
キミコの背へ腕を回す。
確かめるように手を置いた。
「俺がお前置いてくのも嫌だ」
キミコはしばらく黙っていた。
「銀秋」
「何」
「死ななければいい」
「簡単に言うなよ」
「治れって言う」
銀秋は一瞬黙った。
それから少し笑った。
「……そうしてくれ」
冗談のように言った。
いつものように返したつもりだった。
けれど、声は少し震えていた。
キミコが銀秋を見る。
「怖い?」
「……ああ」
「死ぬの?」
「それも」
銀秋は少し黙る。
遠くで何かが鳴った。
火事の方角からだった。
銀秋の身体がわずかに強張る。
「昔も」
ぽつりと言った。
「こんなだった」
「うん」
「空が赤くて」
「うん」
「煙が上がって」
そこで言葉が止まる。
銀秋はキミコの肩を見る。
顔を見ることができなかった。
キミコは待っている。
急かさない。
何も聞かない。
「帰った時には、もう遅かった」
銀秋は目を閉じた。
「何もできなかった」
「うん」
「探したけど」
喉が詰まる。
「もう、どうにもならなかった」
「うん」
「俺だけ残った」
キミコは何も言わない。
銀秋の腕に、少し力が入る。
「置いてかれた」
銀秋が小さく言った。
自分で口にしてから、しばらく黙った。
キミコが瞬きをする。
「奥方と子供に?」
「……ああ」
「死んだから?」
「ああ」
銀秋は少し笑った。
笑えていなかった。
「別に、あいつらが俺を置いてったわけじゃねえのにな」
キミコは黙っている。
「好きで死んだわけじゃねえ」
「うん」
「分かってんだけど」
銀秋はキミコをさらに引き寄せた。
額がキミコの髪に触れる。
「一人になったって思った」
「うん」
「ずっと」
妻もいない。
子供もいない。
帰っても誰もいない。
銀秋だけが残った。
火を灯すこともできず、暗い店で一人で寝ていた。
冬になれば寒かった。
それでも火は使えなかった。
誰も隣にはいなかった。
キミコは銀秋の胸元を見る。
銀秋の鼓動が、いつもより速い。
しばらくして、銀秋が続ける。
「それで今度は」
「何?」
「……お前までいなくなるんじゃねえかって」
キミコが銀秋を見る。
「いなくならないよ」
「今はな」
「うん」
銀秋の眉がわずかに寄る。
「でも、お前は出てこうとした」
キミコは黙った。
「一回」
「うん」
「俺が止めた」
「うん」
「また出ていこうとするかもしれねえ」
「分からない」
銀秋の顔が強張った。
胸の奥が冷える。
キミコは続ける。
「今は出ない」
「……今は」
「うん」
銀秋は目を伏せた。
その言葉が、余計に怖かった。
嘘でもいいから、ずっといると言ってほしい。
そんなことを思った。
けれど、キミコは言わない。
分からないことを、分かるとは言わない。
ずっとなんて言葉も使わない。
それがキミコだった。
銀秋は知っている。
だから余計に怖かった。
置いていかれる。
それも怖い。
けれど、自分が先に死んで、キミコだけが残ることも怖い。
どちらにしても、いつか離れる。
永遠に同じままではいられない。
銀秋には、それが耐えられなかった。
「俺が死ぬまで?」
キミコが少し考える。
銀秋は答えを待った。
「分からない」
銀秋の腕に力が入る。
無意識だった。
逃がさないように。
今ここにいるキミコを、そのまま繋ぎ止めるように。
「……そうか」
「銀秋」
「何」
「痛い」
銀秋がはっとした。
少しだけ力を緩めた。
「悪い」
「うん」
それでも、腕は離さなかった。
キミコも離れなかった。
外では、まだ遠くに火の気配があった。
声は少し減っていた。
けれど、風が吹くたびに焦げた匂いがした。
銀秋は目を閉じる。
妻と子供の顔が浮かぶ。
炎の向こうへ消えていった二人。
自分だけが残った。
何年経っても、あの夜は消えない。
そして今、腕の中にはキミコがいる。
温かい。
触れられる。
胸が上下している。
呼べば返事をする。
声も聞こえる。
抱けば、そこにいる。
けれど、ずっといるとは言わない。
自分も、ずっとはいられない。
髪には白いものが増えていく。
身体も少しずつ弱くなる。
いつか今日よりもっと老いる。
キミコだけが変わらない。
銀秋はキミコの肩へ顔を埋めた。
衣越しに、キミコの体温が伝わる。
「いなくなるなよ」
小さな声だった。
懇願するような声になった。
キミコは少し黙った。
「今はいなくならない」
銀秋は何も答えなかった。
今。
その一言だけだった。
それで安心できるはずなのに、できなかった。
それでも、今ここにいる。
それだけは確かだった。
銀秋は腕の中にいることを確かめるように、もう一度キミコを抱き寄せた。
キミコは拒まなかった。
銀秋の腕の中に、そのままいた。
外ではまだ、遠くの空が燃えていた。




