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スダマの鬼  作者: 肉
47/52

帰路

 キミコは、結局店を出なかった。

 あの夜も、銀秋の隣で眠った。

 翌朝もいた。

 目を覚ますと、銀秋より先に起きていた。

 いつものように寝具の上に座り、ぼんやりと障子の方を見ている。

「おはよう」

「……おう」

 それだけだった。

 その次の日も。

 さらに、その次の日も。

 キミコは店にいた。

 銀秋は何も言わなかった。

 キミコも、出ていくとは言わなかった。

 朝になれば店を開ける。

 銀秋が表の戸を開ける。

 キミコは戸口に置いてある藤の鉢を見る。

 花房は、今日も咲いていた。

 客が来れば、銀秋は商売をする。

 品を見て、銭を数えて、帳面を開く。

 キミコはその隣にいたり、店の奥にいたりした。

 それだけなら、以前と同じだった。

 けれど、少し違った。




 昼になる。

 キミコが餅屋から戻ってきた。

「ただいま」

「おう」

 銀秋は帳場から顔を上げた。

 キミコの手には、包みがある。

 昨日、キミコが山から持ち帰った芋や山菜を、餅屋へ少し多めに渡してあった。

 その代わりに、女が二人で食べられるようにして分けてくれたものだった。

「飯」

「おう」

 キミコが店の奥へ入る。

 銀秋も帳面を閉じた。

 二人で向かい合って座る。

 キミコが包みを開いた。

 芋。

 菜。

 肉。

 少しの飯。

 二つに分けられている。

「こっち銀秋」

「ああ」

 以前なら、飯を食べながら何でもない話をした。

 今日来た客のこと。

 餅屋のこと。

 藤のこと。

 キミコが山で見たもの。

 銀秋が客から聞いた噂。

 どうでもいい話もした。

 キミコが変なものを拾ってきた時には、銀秋が怒った。

 銀秋が何か買ってくれば、キミコが覗き込んだ。

 今は、話さない日も増えた。

 箸の音だけがする。

 外を人が通る音。

 遠くで誰かが咳をする。

 それだけだった。

 それでも、別々には食べなかった。

「うまい?」

 時々、キミコが聞く。

「ああ」

「本当?」

「本当だよ」

「そう」

 それで会話が終わる。

 銀秋は箸を動かす。

 少しして、キミコを見る。

 何か言おうとして、結局、何も言わない。

 キミコも、それ以上は聞かなかった。




 別の日。

 キミコが山から戻ってきた。

 手に提げている籠には、芋と山菜が入っている。

「ただいま」

「……遅かったな」

 銀秋が言った。

 キミコは少し考える。

「いつもくらい」

「そうか」

「うん」

 銀秋はそれ以上聞かなかった。

 どこまで行った。

 誰かと会った。

 何をしていた。

 以前なら、聞いたかもしれない。

 今は聞かない。

「これ、餅屋に持っていく」

「……今からか」

「うん」

 銀秋が一瞬黙る。

 それから、目を逸らした。

「暗くなる前に帰れよ」

「分かった」

 キミコは籠を持ち直した。

 店を出る。

 銀秋はその背中を見ていた。

 戸の向こうへ姿が消えても、少しの間そのままだった。




 季節が進んだ。

 暑さが少しずつ和らいだ。

 朝晩の風が冷たくなった。

 食べ物も、ほんの少しずつ戻ってきた。

 最初は、本当に少しだった。

 市場へ行けば、空だった場所に一つ二つ物が並ぶようになった。

 芋。

 豆。

 菜。

 餅屋にも、少しずつ米が入るようになった。

 それでも、すぐに餅を作れるほどではなかった。

 女は粥を炊いた。

 芋を煮た。

 キミコが持ってくる山菜も使った。

 そうして何日も経った。




 ある日。

 キミコが餅屋へ行くと、店先に白いものが並んでいた。

 足を止める。

「ある」

 女が顔を上げた。

「あるよ」

 キミコは店先に近づいた。

 餅だった。

 何度も見てきたもの。

 飢饉が始まってから、しばらく見なくなっていたもの。

「餅」

「餅だよ」

 女が笑った。

「やっとね」

 キミコはしばらく餅を見る。

「買える?」

「今日は買えるよ」

「銀秋のも」

「二人分かい」

「うん」

「じゃあ持ってきな」

 キミコは餅を包んでもらった。

 いつもより少し早足で店へ戻る。

「ただいま」

「おう」

「銀秋」

「ん?」

「餅あった」

 銀秋が顔を上げる。

「本当か」

「うん」

 キミコが包みを見せる。

 銀秋は少し目を見開いた。

 それから笑った。

「久しぶりだな」

「うん」

「買えたのか」

「二人分」

「そうか」

 銀秋が立ち上がる。

「食うか」

「うん」

 二人で店の奥へ入った。

 包みを開く。

 まだ柔らかい。

 キミコが一つ取った。

 銀秋も取る。

 食べる。

「うまい?」

 キミコが聞いた。

「うまい」

「本当?」

「だから本当だって」

 銀秋が笑った。

 キミコも餅を食べる。

「おいしい」

「お前、ずっと食いたがってたもんな」

「うん」

 銀秋はもう一つ餅を取った。

 キミコも取る。

 その時だけ。

 本当に少しだけ、以前と同じだった。




 飢饉は、ゆっくりと遠ざかっていった。

 道端に座り込んでいた流民も、次第に減った。

 動かなくなった人間を見ることも少なくなった。

 咳をする者も減った。

 空だった店先に物が戻る。

 道を歩く人間の顔も少し変わった。

 皆が腹いっぱい食えるほどではない。

 失ったものが戻るわけでもない。

 それでも、生き残った者たちはまた働き始めた。

 商いを始めた。

 物を売った。

 物を買った。

 銀秋の店にも、少しずつ客が戻ってきた。

「これでいくらになる」

 質に入れる物を持ってくる者。

「少し貸してくれ」

 銭を借りに来る者。

「持ってきたぞ」

 返済に来る者。

 帳場の前に、人が座ることが増えた。

 銀秋は以前と同じように品を見る。

 銭を数える。

 帳面に書く。

 時には値を巡って客と言い合う。

 暮らしは戻っていった。

 京も、少しずつ元の顔を取り戻した。




 けれど、二人は、完全には戻らなかった。




「餅屋行ってくる」

 キミコが立ち上がる。

 銀秋は帳面を見たまま答える。

「ああ」

「餅いる?」

「いらねえ」

「分かった」

 キミコが草履を履き、戸へ向かう。

 銀秋は顔を上げる。

「行ってくる」

「ああ」

 戸を出る。

 銀秋はそれを見ていた。




 しばらくして、客が途切れる。

 銀秋が顔を上げる。

 戸の外を見る。

 まだ帰っていない。

 帳面へ目を戻す。

 また少しして、外を見る。

 通りを人が歩いている。

 キミコはいない。

 銀秋はまた帳面を見る。

 やがて、足音が近づく。

「ただいま」

 声がする。

 銀秋がすぐに顔を上げた。

 キミコが店へ入ってくる。

「……おう」

 それだけだった。

「遅かった」とも言わない。

「何してた」とも聞かない。

 誰と会ったかも聞かない。

「餅買った」

「そうか」

「銀秋のも」

「いらねえって言ったのに」

 銀秋の顔が、ほんの少しだけ緩む。

 キミコはそれに気づいていた。

 何も言わなかった。




 別の日。

「山行ってくる」

 銀秋の手が止まった。

 一瞬だけ。

「……今日か」

「うん」

「何しに」

 そこまで言って、銀秋は黙った。

 キミコが見る。

 銀秋は少し眉を寄せる。

「いや。いい」

「古狸に会うかも」

「ああ」

「夕方には帰る」

 銀秋がキミコを見る。

「……分かった」




 キミコは山へ入った。

 飢饉の頃より、人の踏み跡は減っていた。

 草も戻っている。

 木々にも実がついていた。

 以前のように、何もない山ではない。

 キミコはしばらく歩いた。

 古狸のいる場所まで来る。

「たぬき」

 呼ぶ。

 少しして、木々の奥で枝が揺れた。

 大きな身体が姿を現す。

 人よりずっと大きな狸だった。

 丸い腹。

 太い四肢。

 ふさふさとした尾。

 古狸はゆっくり歩いてくると、キミコの前で止まった。

「何だ」

「いた」

「呼んだのはお前だろうが」

「うん」

 古狸はキミコを見る。

「今日は食い物を取りに来た顔ではないな」

「分かる?」

「長く生きてるからな」

 古狸はその場にどっかりと腹をつけた。

 キミコも近くに座る。

「何だ」

 キミコは少し考えた。

「銀秋が変」

「今さらか」

「今さら?」

「あの男は前から変だ」

「そう?」

「お前と暮らしてる時点で大概だろ」

 キミコは首を傾げた。

「最近、もっと変」

「何がだ」

「私が外に行くと見る」

「見る?」

「うん。帰るとちょっと嬉しそう」

「ほう」

「でも、何してたか聞かない」

「ほう」

「前は聞いた」

「そうか」

「夜はいっぱい触る」

 古狸の耳がぴくりと動いた。

「……そこまで聞いてない」

「相談」

「相談にも限度がある」

「口付けも増えた」

「もういい」

 古狸は大きな前足を上げた。

 キミコは黙る。

 しばらくして、古狸が鼻から息を吐いた。

「それで、お前は嫌なのか」

「嫌じゃない」

「なら何が気になる」

「銀秋が変だから」

「変になった理由が知りたいのか」

「うん」

 古狸はキミコをじっと見る。

「お前、あの男のところから出ていこうとしたんだろ」

「うん」

「それだ」

 キミコが首を傾げる。

「出ていかなかった」

「今はな」

「今もいる」

「それを、あの男が分かってないんだろう」

「銀秋、分かってるよ」

「頭ではな」

 キミコは古狸を見る。

「どういうこと?」

「一度、いなくなるかもしれないと思ったものは、前と同じようには見られない」

 古狸は前足を重ねた。

「そこにいても、またいなくなるんじゃないかと思う」

「いなくならない」

「お前がそう思ってても、あの男には分からない」

「言えば分かる?」

「さてな」

「言った方がいい?」

「言いたければ言えばいい」

 古狸は目を細めた。

「だが、口で何度言っても足りないこともある」

「じゃあどうする?」

「何もしなくていい」

「何もしない?」

「何もできないと言ったほうが近いかもな」

「……何もできない?」

「だから、帰ると言った日に帰ってやれ」

 キミコは黙った。

「餅屋へ行ったなら、店へ帰る。山へ来たなら、また店へ帰る」

「うん」

「明日も帰る。次の日も帰る」

「うん」

「そのうち、あの男も覚えるだろ」

「何を?」

「お前が帰ってくることをだ」

 キミコは少し考えた。

「銀秋、私が帰るの待ってる?」

「知らん」

「たぬき、分かってる顔してる」

「知らんと言ってる」

「分かってる」

「うるさい」

 古狸は大きな前足で、キミコの頭を軽く押した。

 キミコの身体が少し傾く。

「帰る」

「もうか」

「銀秋、待ってるかもしれない」

 古狸が鼻を鳴らした。

「なら、さっさと帰れ」

「うん」

 キミコは立ち上がった。

 数歩進む。

 それから振り返る。

「たぬき」

「何だ」

「銀秋、私のこと好き?」

「本人に聞け」

「聞いていいのかな」

「なら態度を見ろ」

「いっぱい触る」

「帰れ」

「うん」

 キミコは山を下りた。




 夕方。

 日が傾き始める。

 銀秋は客を帰したあと、戸口へ出た。

 通りを見る。

 いない。

 店へ戻る。

 帳場へ座る。

 しばらくして、また立つ。

 戸口を見る。

 やはりいない。

「銀秋」

 突然、後ろから声がした。

「うおっ」

 振り返る。

 キミコがいた。

「何だよお前!」

「帰った」

「見りゃ分かる!」

「ただいま」

「……おう」

 銀秋は大きく息を吐いた。

「びっくりした」

「何で」

「急に後ろにいるからだよ」

「銀秋、外見てた」

「見てねえよ」

「見てた」

「うるせえ」

 銀秋は店の中へ戻った。

 キミコもついていく。

 銀秋は振り返らなかった。

 けれど、その足取りは少しだけ軽くなっていた。




 夜になる。

 二人で寝具へ入る。

 以前と同じように隣に横になる。

 最初の頃は、少し距離があった。

 キミコは銀秋を見ない。

 銀秋も、すぐには触れない。

 しばらく静かな時間が続く。

 キミコは目を閉じている。

 銀秋は眠らない。

 隣にいる気配だけを確かめる。

 少しして、声をかける。

「キミコ」

「何?」

 返事がある。

 それだけで、銀秋の肩から少し力が抜ける。

 銀秋が手を伸ばす。

 暗闇の中で、キミコの頬に触れる。

 キミコは逃げない。

 銀秋が身体を寄せる。

 顔を寄せる。

 唇が重なる。

 以前より長かった。

 離れる。

 銀秋の手は頬に残ったままだった。

 親指が頬を撫でる。

 もう一度、口付ける。

 キミコは拒まない。

 銀秋がさらに身体を寄せる。

 肩が触れる。

 胸が触れる。

 キミコも、そのまま受け入れる。

 その夜も、銀秋の方からだった。




 次の夜も。

 また次の夜も。

 毎晩ではなかった。

 けれど、銀秋が求めることは以前より増えた。

 昼間はほとんど触れない。

 キミコが隣にいても、手を伸ばさない。

 餅屋へ行くと言われても止めない。

 山へ行くと言われても、必要以上には聞かない。

 誰と話した。

 どこへ行った。

 いつ帰る。

 聞きたいことがあっても、飲み込む。

 けれど、夜になると違った。

 銀秋から手を伸ばす。

 頬に触れる。

 髪に触れる。

 キミコがそこにいることを確かめるように抱き寄せる。

 口付ける。

 離れて、また口付ける。

 キミコは拒まなかった。

 何も聞かなかった。

 銀秋も、理由を言わなかった。




 ある夜。

 口付けのあと。

 銀秋はキミコを抱いたまま、しばらく動かなかった。

 キミコの頭が、銀秋の胸元にある。

 銀秋の腕が背中へ回っている。

 キミコはしばらくそのままにされていた。

「銀秋」

「ん」

「寝る?」

「もうちょっと」

「何するの?」

「何もしねえよ」

「じゃあ何?」

 銀秋は少し黙った。

「このままでいる」

 キミコは少し考えた。

「うん」

 それ以上、動かない。

 銀秋の腕の中にいる。

 胸の音が聞こえる。

 規則正しい。

 キミコはそこに耳をつけたまま、しばらく黙っていた。

 銀秋も何も言わない。

 腕だけが、時々少し強くなる。

 しばらくして、口を開く。

「銀秋」

「何」

「私、いるよ」

 銀秋の身体がわずかに止まった。

 腕が強くなる。

「……分かってる」

「うん」

「分かってるよ」

「うん」

 キミコはそれ以上言わなかった。

 銀秋も言わなかった。

 そのまま、眠るまで離さなかった。




 朝になれば、また銀秋はいつも通りだった。

「起きろ」

「起きてる」

「じゃあ退け。布団畳むぞ」

「嫌」

「何でだよ」

「まだここいる」

「もう朝だぞ」

「知ってる」

 銀秋が呆れた顔をする。

 キミコは寝具の上に座ったまま動かない。

 やがて銀秋がため息をついた。

「勝手にしろ」

 そう言いながら、少し笑った。




 月日が流れた。

 飢饉は終わった。

 餅屋には、前のように餅が並ぶようになった。

 炊き出しも、いつの間にかしなくなった。

 銀秋の店にも客が戻った。

 戸口には、変わらず藤の鉢がある。

 枝は伸びない。

 花房だけが、季節に関係なく咲き続けていた。

 銀秋とキミコも、変わらず同じ店で暮らしていた。

 二人は別れていなかった。

 キミコも、もう店を出るとは言わなかった。

 銀秋も、出ていくなとは言わなかった。

 けれど、以前と同じでもなかった。

 何が変わったのか。

 銀秋も、キミコも、口にはしなかった。

 藤の花だけが、何も知らないように、戸口で咲き続けていた。

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