帰路
キミコは、結局店を出なかった。
あの夜も、銀秋の隣で眠った。
翌朝もいた。
目を覚ますと、銀秋より先に起きていた。
いつものように寝具の上に座り、ぼんやりと障子の方を見ている。
「おはよう」
「……おう」
それだけだった。
その次の日も。
さらに、その次の日も。
キミコは店にいた。
銀秋は何も言わなかった。
キミコも、出ていくとは言わなかった。
朝になれば店を開ける。
銀秋が表の戸を開ける。
キミコは戸口に置いてある藤の鉢を見る。
花房は、今日も咲いていた。
客が来れば、銀秋は商売をする。
品を見て、銭を数えて、帳面を開く。
キミコはその隣にいたり、店の奥にいたりした。
それだけなら、以前と同じだった。
けれど、少し違った。
昼になる。
キミコが餅屋から戻ってきた。
「ただいま」
「おう」
銀秋は帳場から顔を上げた。
キミコの手には、包みがある。
昨日、キミコが山から持ち帰った芋や山菜を、餅屋へ少し多めに渡してあった。
その代わりに、女が二人で食べられるようにして分けてくれたものだった。
「飯」
「おう」
キミコが店の奥へ入る。
銀秋も帳面を閉じた。
二人で向かい合って座る。
キミコが包みを開いた。
芋。
菜。
肉。
少しの飯。
二つに分けられている。
「こっち銀秋」
「ああ」
以前なら、飯を食べながら何でもない話をした。
今日来た客のこと。
餅屋のこと。
藤のこと。
キミコが山で見たもの。
銀秋が客から聞いた噂。
どうでもいい話もした。
キミコが変なものを拾ってきた時には、銀秋が怒った。
銀秋が何か買ってくれば、キミコが覗き込んだ。
今は、話さない日も増えた。
箸の音だけがする。
外を人が通る音。
遠くで誰かが咳をする。
それだけだった。
それでも、別々には食べなかった。
「うまい?」
時々、キミコが聞く。
「ああ」
「本当?」
「本当だよ」
「そう」
それで会話が終わる。
銀秋は箸を動かす。
少しして、キミコを見る。
何か言おうとして、結局、何も言わない。
キミコも、それ以上は聞かなかった。
別の日。
キミコが山から戻ってきた。
手に提げている籠には、芋と山菜が入っている。
「ただいま」
「……遅かったな」
銀秋が言った。
キミコは少し考える。
「いつもくらい」
「そうか」
「うん」
銀秋はそれ以上聞かなかった。
どこまで行った。
誰かと会った。
何をしていた。
以前なら、聞いたかもしれない。
今は聞かない。
「これ、餅屋に持っていく」
「……今からか」
「うん」
銀秋が一瞬黙る。
それから、目を逸らした。
「暗くなる前に帰れよ」
「分かった」
キミコは籠を持ち直した。
店を出る。
銀秋はその背中を見ていた。
戸の向こうへ姿が消えても、少しの間そのままだった。
季節が進んだ。
暑さが少しずつ和らいだ。
朝晩の風が冷たくなった。
食べ物も、ほんの少しずつ戻ってきた。
最初は、本当に少しだった。
市場へ行けば、空だった場所に一つ二つ物が並ぶようになった。
芋。
豆。
菜。
餅屋にも、少しずつ米が入るようになった。
それでも、すぐに餅を作れるほどではなかった。
女は粥を炊いた。
芋を煮た。
キミコが持ってくる山菜も使った。
そうして何日も経った。
ある日。
キミコが餅屋へ行くと、店先に白いものが並んでいた。
足を止める。
「ある」
女が顔を上げた。
「あるよ」
キミコは店先に近づいた。
餅だった。
何度も見てきたもの。
飢饉が始まってから、しばらく見なくなっていたもの。
「餅」
「餅だよ」
女が笑った。
「やっとね」
キミコはしばらく餅を見る。
「買える?」
「今日は買えるよ」
「銀秋のも」
「二人分かい」
「うん」
「じゃあ持ってきな」
キミコは餅を包んでもらった。
いつもより少し早足で店へ戻る。
「ただいま」
「おう」
「銀秋」
「ん?」
「餅あった」
銀秋が顔を上げる。
「本当か」
「うん」
キミコが包みを見せる。
銀秋は少し目を見開いた。
それから笑った。
「久しぶりだな」
「うん」
「買えたのか」
「二人分」
「そうか」
銀秋が立ち上がる。
「食うか」
「うん」
二人で店の奥へ入った。
包みを開く。
まだ柔らかい。
キミコが一つ取った。
銀秋も取る。
食べる。
「うまい?」
キミコが聞いた。
「うまい」
「本当?」
「だから本当だって」
銀秋が笑った。
キミコも餅を食べる。
「おいしい」
「お前、ずっと食いたがってたもんな」
「うん」
銀秋はもう一つ餅を取った。
キミコも取る。
その時だけ。
本当に少しだけ、以前と同じだった。
飢饉は、ゆっくりと遠ざかっていった。
道端に座り込んでいた流民も、次第に減った。
動かなくなった人間を見ることも少なくなった。
咳をする者も減った。
空だった店先に物が戻る。
道を歩く人間の顔も少し変わった。
皆が腹いっぱい食えるほどではない。
失ったものが戻るわけでもない。
それでも、生き残った者たちはまた働き始めた。
商いを始めた。
物を売った。
物を買った。
銀秋の店にも、少しずつ客が戻ってきた。
「これでいくらになる」
質に入れる物を持ってくる者。
「少し貸してくれ」
銭を借りに来る者。
「持ってきたぞ」
返済に来る者。
帳場の前に、人が座ることが増えた。
銀秋は以前と同じように品を見る。
銭を数える。
帳面に書く。
時には値を巡って客と言い合う。
暮らしは戻っていった。
京も、少しずつ元の顔を取り戻した。
けれど、二人は、完全には戻らなかった。
「餅屋行ってくる」
キミコが立ち上がる。
銀秋は帳面を見たまま答える。
「ああ」
「餅いる?」
「いらねえ」
「分かった」
キミコが草履を履き、戸へ向かう。
銀秋は顔を上げる。
「行ってくる」
「ああ」
戸を出る。
銀秋はそれを見ていた。
しばらくして、客が途切れる。
銀秋が顔を上げる。
戸の外を見る。
まだ帰っていない。
帳面へ目を戻す。
また少しして、外を見る。
通りを人が歩いている。
キミコはいない。
銀秋はまた帳面を見る。
やがて、足音が近づく。
「ただいま」
声がする。
銀秋がすぐに顔を上げた。
キミコが店へ入ってくる。
「……おう」
それだけだった。
「遅かった」とも言わない。
「何してた」とも聞かない。
誰と会ったかも聞かない。
「餅買った」
「そうか」
「銀秋のも」
「いらねえって言ったのに」
銀秋の顔が、ほんの少しだけ緩む。
キミコはそれに気づいていた。
何も言わなかった。
別の日。
「山行ってくる」
銀秋の手が止まった。
一瞬だけ。
「……今日か」
「うん」
「何しに」
そこまで言って、銀秋は黙った。
キミコが見る。
銀秋は少し眉を寄せる。
「いや。いい」
「古狸に会うかも」
「ああ」
「夕方には帰る」
銀秋がキミコを見る。
「……分かった」
キミコは山へ入った。
飢饉の頃より、人の踏み跡は減っていた。
草も戻っている。
木々にも実がついていた。
以前のように、何もない山ではない。
キミコはしばらく歩いた。
古狸のいる場所まで来る。
「たぬき」
呼ぶ。
少しして、木々の奥で枝が揺れた。
大きな身体が姿を現す。
人よりずっと大きな狸だった。
丸い腹。
太い四肢。
ふさふさとした尾。
古狸はゆっくり歩いてくると、キミコの前で止まった。
「何だ」
「いた」
「呼んだのはお前だろうが」
「うん」
古狸はキミコを見る。
「今日は食い物を取りに来た顔ではないな」
「分かる?」
「長く生きてるからな」
古狸はその場にどっかりと腹をつけた。
キミコも近くに座る。
「何だ」
キミコは少し考えた。
「銀秋が変」
「今さらか」
「今さら?」
「あの男は前から変だ」
「そう?」
「お前と暮らしてる時点で大概だろ」
キミコは首を傾げた。
「最近、もっと変」
「何がだ」
「私が外に行くと見る」
「見る?」
「うん。帰るとちょっと嬉しそう」
「ほう」
「でも、何してたか聞かない」
「ほう」
「前は聞いた」
「そうか」
「夜はいっぱい触る」
古狸の耳がぴくりと動いた。
「……そこまで聞いてない」
「相談」
「相談にも限度がある」
「口付けも増えた」
「もういい」
古狸は大きな前足を上げた。
キミコは黙る。
しばらくして、古狸が鼻から息を吐いた。
「それで、お前は嫌なのか」
「嫌じゃない」
「なら何が気になる」
「銀秋が変だから」
「変になった理由が知りたいのか」
「うん」
古狸はキミコをじっと見る。
「お前、あの男のところから出ていこうとしたんだろ」
「うん」
「それだ」
キミコが首を傾げる。
「出ていかなかった」
「今はな」
「今もいる」
「それを、あの男が分かってないんだろう」
「銀秋、分かってるよ」
「頭ではな」
キミコは古狸を見る。
「どういうこと?」
「一度、いなくなるかもしれないと思ったものは、前と同じようには見られない」
古狸は前足を重ねた。
「そこにいても、またいなくなるんじゃないかと思う」
「いなくならない」
「お前がそう思ってても、あの男には分からない」
「言えば分かる?」
「さてな」
「言った方がいい?」
「言いたければ言えばいい」
古狸は目を細めた。
「だが、口で何度言っても足りないこともある」
「じゃあどうする?」
「何もしなくていい」
「何もしない?」
「何もできないと言ったほうが近いかもな」
「……何もできない?」
「だから、帰ると言った日に帰ってやれ」
キミコは黙った。
「餅屋へ行ったなら、店へ帰る。山へ来たなら、また店へ帰る」
「うん」
「明日も帰る。次の日も帰る」
「うん」
「そのうち、あの男も覚えるだろ」
「何を?」
「お前が帰ってくることをだ」
キミコは少し考えた。
「銀秋、私が帰るの待ってる?」
「知らん」
「たぬき、分かってる顔してる」
「知らんと言ってる」
「分かってる」
「うるさい」
古狸は大きな前足で、キミコの頭を軽く押した。
キミコの身体が少し傾く。
「帰る」
「もうか」
「銀秋、待ってるかもしれない」
古狸が鼻を鳴らした。
「なら、さっさと帰れ」
「うん」
キミコは立ち上がった。
数歩進む。
それから振り返る。
「たぬき」
「何だ」
「銀秋、私のこと好き?」
「本人に聞け」
「聞いていいのかな」
「なら態度を見ろ」
「いっぱい触る」
「帰れ」
「うん」
キミコは山を下りた。
夕方。
日が傾き始める。
銀秋は客を帰したあと、戸口へ出た。
通りを見る。
いない。
店へ戻る。
帳場へ座る。
しばらくして、また立つ。
戸口を見る。
やはりいない。
「銀秋」
突然、後ろから声がした。
「うおっ」
振り返る。
キミコがいた。
「何だよお前!」
「帰った」
「見りゃ分かる!」
「ただいま」
「……おう」
銀秋は大きく息を吐いた。
「びっくりした」
「何で」
「急に後ろにいるからだよ」
「銀秋、外見てた」
「見てねえよ」
「見てた」
「うるせえ」
銀秋は店の中へ戻った。
キミコもついていく。
銀秋は振り返らなかった。
けれど、その足取りは少しだけ軽くなっていた。
夜になる。
二人で寝具へ入る。
以前と同じように隣に横になる。
最初の頃は、少し距離があった。
キミコは銀秋を見ない。
銀秋も、すぐには触れない。
しばらく静かな時間が続く。
キミコは目を閉じている。
銀秋は眠らない。
隣にいる気配だけを確かめる。
少しして、声をかける。
「キミコ」
「何?」
返事がある。
それだけで、銀秋の肩から少し力が抜ける。
銀秋が手を伸ばす。
暗闇の中で、キミコの頬に触れる。
キミコは逃げない。
銀秋が身体を寄せる。
顔を寄せる。
唇が重なる。
以前より長かった。
離れる。
銀秋の手は頬に残ったままだった。
親指が頬を撫でる。
もう一度、口付ける。
キミコは拒まない。
銀秋がさらに身体を寄せる。
肩が触れる。
胸が触れる。
キミコも、そのまま受け入れる。
その夜も、銀秋の方からだった。
次の夜も。
また次の夜も。
毎晩ではなかった。
けれど、銀秋が求めることは以前より増えた。
昼間はほとんど触れない。
キミコが隣にいても、手を伸ばさない。
餅屋へ行くと言われても止めない。
山へ行くと言われても、必要以上には聞かない。
誰と話した。
どこへ行った。
いつ帰る。
聞きたいことがあっても、飲み込む。
けれど、夜になると違った。
銀秋から手を伸ばす。
頬に触れる。
髪に触れる。
キミコがそこにいることを確かめるように抱き寄せる。
口付ける。
離れて、また口付ける。
キミコは拒まなかった。
何も聞かなかった。
銀秋も、理由を言わなかった。
ある夜。
口付けのあと。
銀秋はキミコを抱いたまま、しばらく動かなかった。
キミコの頭が、銀秋の胸元にある。
銀秋の腕が背中へ回っている。
キミコはしばらくそのままにされていた。
「銀秋」
「ん」
「寝る?」
「もうちょっと」
「何するの?」
「何もしねえよ」
「じゃあ何?」
銀秋は少し黙った。
「このままでいる」
キミコは少し考えた。
「うん」
それ以上、動かない。
銀秋の腕の中にいる。
胸の音が聞こえる。
規則正しい。
キミコはそこに耳をつけたまま、しばらく黙っていた。
銀秋も何も言わない。
腕だけが、時々少し強くなる。
しばらくして、口を開く。
「銀秋」
「何」
「私、いるよ」
銀秋の身体がわずかに止まった。
腕が強くなる。
「……分かってる」
「うん」
「分かってるよ」
「うん」
キミコはそれ以上言わなかった。
銀秋も言わなかった。
そのまま、眠るまで離さなかった。
朝になれば、また銀秋はいつも通りだった。
「起きろ」
「起きてる」
「じゃあ退け。布団畳むぞ」
「嫌」
「何でだよ」
「まだここいる」
「もう朝だぞ」
「知ってる」
銀秋が呆れた顔をする。
キミコは寝具の上に座ったまま動かない。
やがて銀秋がため息をついた。
「勝手にしろ」
そう言いながら、少し笑った。
月日が流れた。
飢饉は終わった。
餅屋には、前のように餅が並ぶようになった。
炊き出しも、いつの間にかしなくなった。
銀秋の店にも客が戻った。
戸口には、変わらず藤の鉢がある。
枝は伸びない。
花房だけが、季節に関係なく咲き続けていた。
銀秋とキミコも、変わらず同じ店で暮らしていた。
二人は別れていなかった。
キミコも、もう店を出るとは言わなかった。
銀秋も、出ていくなとは言わなかった。
けれど、以前と同じでもなかった。
何が変わったのか。
銀秋も、キミコも、口にはしなかった。
藤の花だけが、何も知らないように、戸口で咲き続けていた。




