変化
銀秋は、少し変わった。
最初は、キミコも気にしていなかった。
朝になれば店を開ける。
客が来れば、銀秋はいつも通り商売をする。
帳場に座り、品を見て、銭を数える。
キミコはその隣にいたり、店の奥にいたりする。
餅屋へ行くこともあった。
山へ行くこともあった。
飯を食べ、夜になれば店を閉める。
以前と変わらないように見えた。
変わったのは、キミコが外へ出るときだった。
「どこ行くんだ」
キミコが立ち上がると、銀秋が聞くようになった。
振り返る。
銀秋は帳簿を開いたまま、こちらを見ていた。
「餅屋」
「何しに」
「おばちゃんに呼ばれた」
「いつ帰る」
「分からない」
キミコが銀秋を見る。
銀秋は少し黙ってから、目を帳簿へ戻した。
「行っていい?」
「……駄目とは言ってねえよ」
「じゃあ行ってくる」
「ああ」
キミコは店を出た。
戻れば、誰と会ったのかを聞かれた。
山へ行けば、どこまで行ったのか。
人に会えば、何を話したのか。
帰りが少し遅くなれば、何をしていたのか。
最初のうちは、キミコも一つずつ答えていた。
隠すことなど何もなかった。
けれど、それは何度も続いた。
聞いたあと、銀秋は決まって少し黙った。
答えを聞いて安心したように息を吐くこともあれば、何でもなかったように帳簿へ目を戻すこともあった。
けれど、またキミコが外へ出ようとすれば、顔を上げる。
どこへ行く。
何をする。
いつ帰る。
前なら、銀秋はそんなことを聞かなかった。
その日の夜。
二人で寝具へ横になった。
いつものように口付けをする。
唇が離れる。
銀秋はそのまま仰向けになった。
キミコは横を向き、銀秋を見る。
「銀秋」
「何?」
「変」
銀秋の眉が動く。
「何が」
「いっぱい聞く」
「……」
「私がどこ行くか」
「ああ」
「誰と会うか」
「……ああ」
「何してたか」
銀秋は何も言わなかった。
「前はそんなに聞かなかった」
少しして、銀秋が目を逸らす。
天井を見る。
「気になるんだよ」
「何で?」
「知らねえよ」
キミコは銀秋を見る。
銀秋の顔はいつもと同じように見えた。
けれど、眉間に少し皺が寄っている。
寝るだけなのに、肩にも力が入っていた。
「前は、好きにしろって言った」
銀秋の顔が少し強張った。
「今は違う」
「……そうかもな」
「何で?」
銀秋は答えなかった。
代わりに、布団の上に出ていた手を握る。
それから、また開いた。
キミコはその手を見る。
銀秋を見る。
「銀秋」
「何だ」
「嫌なの?」
「何が」
「私が外行くの」
銀秋はしばらく黙っていた。
「……別に」
「そう?」
「ああ」
それ以上は言わなかった。
キミコもしばらく銀秋を見ていた。
やがて目を閉じる。
その夜は、それ以上話さなかった。
翌日の夕暮れ。
キミコは一人で餅屋へ行った。
二人分の飯を受け取り、そのついでに炊き出しのことを少し話した。
話しているうちに、少し時間が経った。
飯の包みを持ち、餅屋を出る。
外はもう薄暗くなり始めていた。
帰る途中、キミコは足を止めた。
銀秋の店がある方を見る。
昨日のことを思い出す。
いつ帰る。
誰と会う。
何を話した。
銀秋は今日も聞くだろうか。
少し考えてから、また歩き出した。
店へ戻る。
「ただいま」
「おう」
銀秋は帳場にいた。
顔を上げる。
キミコが持っている飯の包みを見る。
キミコは店の奥へ入り、包みをいつも飯を食べる場所に置いた。
それから戻ってくると、銀秋はまだこちらを見ていた。
「遅かったな」
「そう?」
「ああ」
銀秋は帳簿を閉じなかった。
けれど、もう見てもいなかった。
「何してた」
「おばちゃんと話してた」
「何を」
「炊き出し」
「それだけか」
「うん」
銀秋は少し黙った。
それで終わるのかとキミコは思った。
けれど、銀秋はまた口を開いた。
「他に誰かいたか」
「いた」
「誰が」
「近所の人」
「話した?」
「ううん」
「そうか」
銀秋は目を伏せた。
帳簿へ視線を戻す。
けれど、筆は動かなかった。
キミコはその場に立ったまま、銀秋を見る。
「銀秋」
「何だ」
「やっぱり変」
銀秋の表情が固まる。
「またそれかよ」
「うん」
「何がそんなに変なんだよ」
声は少し強かった。
けれど、怒っているというより、困っているように聞こえた。
「前はこんなに聞かなかった」
銀秋は黙る。
「私がどこ行くか」
「……」
「誰と会うか」
「……」
「何してたか」
キミコはまっすぐ銀秋を見る。
「前は、好きにしろって言った」
「それは……」
銀秋が何かを言おうとして、やめる。
「今は違う」
銀秋は何も言わなかった。
キミコはしばらく待った。
銀秋の手は帳簿の端に置かれている。
指に力が入っていた。
さっきから帳簿を見ているのに、一度も頁をめくっていない。
「銀秋」
「何だよ」
「私が出ると嫌?」
「……」
「帰ってこないと思う?」
銀秋の指が動いた。
「そんなこと言ってねえだろ」
「でも、いっぱい聞く」
「気になるだけだ」
「何で?」
「だから、知らねえよ」
銀秋が顔を上げる。
眉間に皺が寄っている。
怒っているようにも見える。
けれど、それだけではなかった。
昨日の夜と同じ顔だった。
何かをずっと考えている。
考えても答えが出なくて、それでもやめられない。
そんな顔に見えた。
キミコは少し首を傾げた。
「銀秋、苦しそう」
「苦しくねえよ」
「苦しそう」
「何でお前に分かるんだよ」
「分かる」
「何が分かるんだよ」
銀秋が顔をしかめる。
キミコはすぐには答えなかった。
銀秋を見る。
少し前から、自分が外へ出るたびに聞く。
帰ればまた聞く。
聞かずにはいられないのに、聞いたあとはいつも嫌そうな顔をする。
「私のこと、ずっと気にしてる」
「……」
「聞いたあとも、変な顔する」
「してねえよ」
「してる」
「してねえ」
「してる」
銀秋は何も言わなくなった。
キミコは少し考えた。
「私」
「何だ」
「ここ出る」
銀秋の顔から表情が消えた。
「……何?」
「ここ出る」
「どこ行く」
「分からない」
「何で」
「これ以上、変になってほしくない」
「は?」
「私がいると、銀秋ずっと気にする」
「違う」
「違わない」
「違うって言ってんだろ」
「前は好きにしろって言った」
「キミコ」
「今は違う」
銀秋が立ち上がる。
「だからって、出てく必要ねえだろ」
「ある」
「ねえよ」
「ある」
キミコは銀秋を見る。
「銀秋、前と違う」
「……」
「ずっと私のこと見てる」
「見てねえよ」
「見てる」
「……」
「このままもっと変になったら嫌」
「ならねえよ」
「分からない」
「俺が分かる」
「分かってない」
銀秋が帳場の向こうから出てくる。
「待て」
キミコは動かない。
「どこ行く気だよ」
「分からない」
「分からないのに出てくのか」
「うん」
「何でだよ」
「銀秋のため」
「俺のため?」
「うん」
「ふざけんな」
銀秋の声が大きくなる。
キミコは少し目を細めた。
「銀秋」
「何だよ」
「怒ってる」
「当たり前だろ」
「だから」
「何がだからだよ」
「変」
銀秋は言葉を失った。
キミコは静かに続ける。
「私が出るって言ったら、もっと変になった」
「……」
「だから出る」
「行くな」
「出る」
「キミコ」
「銀秋」
「行くな」
銀秋の顔から血の気が引いていた。
さっきまでの怒りが消えている。
口を開く。
けれど、すぐには声が出なかった。
「……頼む」
ようやく出た声は低かった。
「行かないでくれ」
キミコは少し黙った。
銀秋が一歩近づく。
「銀秋」
「何だ」
「離れて」
「嫌だ」
「離れて」
「嫌だ」
銀秋がさらに近づく。
キミコは一歩下がった。
銀秋も止まらない。
次の瞬間。
紫の炎が上がった。
キミコの身体を包む。
銀秋の足が止まった。
炎が揺れる。
紫色の光が、薄暗い店の中を照らした。
銀秋の顔からさらに血の気が引く。
一瞬、呼吸が止まった。
目が炎へ向く。
身体が固まる。
キミコはそれを見た。
「怖いでしょう」
銀秋は答えない。
止まっていた呼吸が戻る。
浅い。
何度も短く息を吸う。
キミコは銀秋を見る。
「近づかないで」
炎が大きくなる。
銀秋は動かなかった。
動けなかった。
キミコは少しずつ後ろへ下がる。
「銀秋」
銀秋の指が震えた。
「私がいると、銀秋変になる」
「……」
「だから離れる」
銀秋は炎を見る。
炎の向こうにいるキミコを見る。
紫色の向こうに、別の炎が重なる。
あの日の火。
家。
煙。
熱。
何度呼んでも返らなかった声。
戻れなかった場所。
失った妻。
失った子供。
銀秋の呼吸が荒くなる。
胸が大きく上下する。
それでも目だけは、キミコから離れなかった。
キミコはそれを見ていた。
「怖いでしょう」
もう一度言った。
「だから」
銀秋が一歩踏み出した。
キミコの目が少し開く。
「銀秋」
もう一歩。
「近づかないで」
銀秋は止まらない。
紫の炎が揺れる。
銀秋は顔を歪めた。
足が震える。
息が苦しい。
進むたびに、身体が止まろうとする。
それでも進む。
「来ないで」
キミコが少し強く言った。
銀秋は手を伸ばした。
炎の中へ。
「銀秋」
腕が紫の炎に包まれる。
銀秋の肩が一度大きく震えた。
それでも手を引かなかった。
そのままキミコを抱きしめる。
キミコの身体が固まった。
「……銀秋」
紫の炎が銀秋の身体まで包んだ。
けれど、焼かなかった。
銀秋はキミコを強く抱きしめる。
顔を肩へ押しつけた。
「行くな」
声が震えていた。
「銀秋」
「行かないでくれ」
キミコは動かなかった。
「頼むから」
銀秋の腕に力が入る。
「一人にしないでくれ」
キミコの目が少し揺れる。
「怖いでしょう」
「ああ」
「火」
「怖い」
「じゃあ離れて」
「嫌だ」
即答だった。
キミコは銀秋を見る。
銀秋は顔を上げない。
身体はまだ少し震えている。
「怖いのに?」
「ああ」
「何で?」
銀秋はしばらく答えなかった。
炎の中で、キミコを抱きしめたまま。
「お前がいなくなる方が嫌だ」
キミコは何も言わなかった。
紫の炎が揺れる。
銀秋の身体を包んでいる。
けれど、銀秋は離れない。
キミコはしばらく、その腕の中にいた。
やがて。
炎が少しずつ小さくなった。
肩から消える。
腕から消える。
最後に、二人の間に残っていた紫の光も消えた。
店の中が暗くなる。
銀秋はまだキミコを抱いている。
「銀秋」
「……」
「離して」
銀秋の腕が少し緩む。
けれど、完全には離れなかった。
キミコは銀秋を見る。
「私」
銀秋の顔が強張る。
「今日は出ない」
少しの沈黙があった。
銀秋が長く息を吐いた。
張りつめていた身体から、少しだけ力が抜ける。
「……そうか」
「うん」
キミコは銀秋の胸元を見る。
「でも」
「何だ」
「銀秋、変」
「……分かってる」
「戻って」
銀秋はすぐには答えなかった。
キミコを抱いている腕を見る。
もう少しだけ力を緩める。
それでも、離せなかった。
しばらくして、
「……分かんねえ」
とだけ言った。
キミコは何も言わなかった。
銀秋も、それ以上は言わなかった。
ただ、キミコを抱いたままだった。
その日、キミコは店を出なかった。




