不足
祀煙の屋敷は、山を降りたところにあった。
山裾から少し離れた場所。
人里からも距離があり、周囲には祀煙が張った結界がある。
結界の内側だけは、外よりも幾分ましだった。
井戸の水は枯れていない。
庭の木々も、山の外で見るものほど弱ってはいない。
屋敷の裏には畑もある。
それでも、飢饉そのものを消せるわけではなかった。
屋敷には二十人ほどの女が暮らしている。
二十人もいれば、毎日の飯だけでも相当な量になる。
米は減った。
雑穀も減った。
芋はまだある。
肉もある。
問題は、菜だった。
屋敷の裏にある畑では、女たちが芋や蕪、菜を育てている。
結界の中だからか、外の畑ほど酷くはなかった。
それでも以前のようには育たない。
葉が小さい。
育つのも遅い。
虫に食われたものまで捨てずに使った。
朝。
祀煙が廊下を歩いていると、庭先で女が二人、収穫した菜を選り分けていた。
籠の中には、細い葉が少しだけ入っている。
一人が葉についた土を払いながら、小さく呟いた。
「菜っ葉、腹いっぱい食べたいなあ」
隣の女が笑った。
「贅沢言うんじゃないよ。食えるだけいいだろ」
「分かってるけどさ」
女は菜を持ち上げた。
「肉ばっかり食ってると、青いもん食べたくならない?」
「なる」
「味噌で煮た菜っ葉食べたい」
「私は蕪がいい」
「蕪もいいなあ」
二人はそんな話をしながら、細い葉を大事そうに籠へ戻した。
祀煙は少し離れたところで足を止めていた。
女の一人が気づく。
「あ、祀煙さま」
「何だ」
「今日も山行くの?」
「ああ」
「熊はもういいからね」
「何でだ」
「肉はあるんだよ」
女は畑を見る。
「できれば、何か青いもん拾ってきて」
「山菜か」
「何でもいいよ。食えるなら」
「あったらな」
祀煙はそのまま歩き出した。
肉には困っていない。
それは本当だった。
祀煙が取ってくるからだ。
昼前。
祀煙は山へ入った。
今日は一人ではなかった。
少し後ろを、猟師の男が二人ついてきている。
一人は以前から何度か肉を捌かせている男だった。
もう一人は、その男が連れてきた若い猟師だった。
「今日は鹿か?」
後ろから声が飛んでくる。
「いればな」
「熊は?」
「いてもいい」
「簡単に言う」
猟師が苦笑した。
若い方は黙っている。
祀煙が獣を取るところを見たことがないらしい。
何度か肉を渡している猟師から話を聞いても、いまいち信じていない顔をしていた。
三人でしばらく山を歩いた。
飢饉になってから、人が山へ入ることが増えている。
木の実を探し、草を摘む。
食えるものなら何でも持っていく。
以前なら残っていたものまで、ほとんど見当たらなかった。
祀煙は辺りを見回した。
「山菜も少ないな」
「ああ」
猟師が答える。
「人が入りすぎてる。根まで掘ってく奴もいる」
「馬鹿だな」
「腹が減りゃ、来年のことなんか考えられん奴もいるさ」
祀煙は何も答えなかった。
さらに奥へ入る。
やがて、前方で草が揺れた。
猟師がすぐに足を止める。
「鹿だ」
小さく声を落とした。
木々の向こうに、一頭の鹿がいた。
こちらにはまだ気づいていない。
若い猟師が弓へ手を伸ばした。
「待て」
祀煙が言った。
猟師が手を止める。
祀煙は鹿を見る。
ゆっくり片手を上げた。
若い猟師が怪訝そうに眉を寄せた。
「何を――」
その時。
祀煙の袖から、灰色の薄い煙がするりと伸びた。
淡く頼りなく見える煙だった。
だがそれは地を這うように進み、木々の間を抜け、音もなく鹿の足元へ辿り着く。
煙は鹿の身体に触れたかと思うと、必要なところへだけ、すっと形を変えた。
首筋。
胸のあたり。
薄い灰色の煙が、その二か所をやわらかく包む。
まるで薄布をそっと当てるような、静かなまとわりつき方だった。
鹿がはっとしたように頭を上げた。
次の瞬間、祀煙が手を握る。
鹿の身体が跳ねた。
「……っ」
若い猟師が息を呑んだ。
鹿は突然、その場に縫い止められたように止まっていた。
前脚が宙を掻く。
後脚で地面を蹴る。
何度も身体を前へ押し出そうとする。
蹄が土を削った。
だが、灰色の煙は離れない。
首を包んだ煙が喉元を締め、胸に触れた煙が呼吸を押さえる。
全身を押し潰しているわけではない。
必要なところだけを、的確に絞めている。
それでも、一歩も進まない。
鹿が甲高い声を上げた。
首を大きく振る。
身体を捩る。
逃れようとしている。
だが、喉を締める煙は外れず、呼吸を奪われた鹿の動きは次第に乱れていく。
「何だ、あれ」
若い猟師が呟いた。
祀煙は答えない。
握った指を少し閉じる。
鹿の首筋を包んだ煙が、さらにぴたりと沿った。
鹿の脚が震えた。
それでもまだ逃げようとする。
前脚を激しく振る。
首を振る。
身体を左右へ捩る。
地面の土が飛んだ。
灰色の煙がそのたびに揺れる。
だが、剥がれない。
祀煙がさらに指へ力を込めた。
鹿の身体が大きく震えた。
前脚が折れる。
腹が地面についた。
それでもしばらく脚だけが動いていた。
蹴る。
掻く。
必死に身体を起こそうとする。
やがて、それもゆっくりになっていく。
最後に首が一度持ち上がり、そのまま力が抜けた。
祀煙が手を開く。
鹿の首と胸元を包んでいた灰色の煙が、するりと薄れて消えた。
「死んでない」
猟師が鹿へ近づいた。
鼻先へ手を寄せる。
「……本当だ」
若い猟師はまだ祀煙を見ていた。
「今、何した」
「捕まえた」
「どうやって」
「どうやってと言われてもな」
祀煙は鹿の前脚を掴んだ。
そのまま軽々と持ち上げる。
若い猟師がまた黙った。
「血を抜けるか」
「あ、ああ」
いつもの猟師が答えた。
「少し先に水がある。そこでやる」
「頼む」
祀煙は鹿を担いだ。
若い猟師がその背中を見ながら、小さな声で隣へ聞いた。
「毎回こうなのか」
「だから言っただろ」
「聞いてたのと見るのは違う」
祀煙には全部聞こえていた。
気にせず歩いた。
別の日には熊を見つけた。
今度も猟師が一人ついてきていた。
藪の向こうから大きな身体が現れる。
熊はこちらに気づくと、足を止めた。
鼻を動かす。
それから身体を起こした。
「おい」
猟師の声が低くなる。
祀煙は動かなかった。
熊が唸る。
前脚を地面へ落とした。
そのままこちらへ走ってくる。
「祀煙!」
猟師が下がった。
祀煙は片手を上げた。
その袖から、また灰色の薄い煙が流れ出た。
地を這い、木の根を回り、走ってくる熊へ向かう。
一瞬遅れて、煙が熊の身体へ触れる。
すると灰色の薄煙は、巨体の必要なところへだけ、すっと寄った。
首。
胸。
前脚の付け根。
そこへ薄く張りつくように煙が広がる。
熊の全身を包むわけではない。
暴れる力を削ぎ、呼吸を詰まらせ、動きを止めるのに足る場所だけを押さえていた。
祀煙が手を握る。
熊の身体が止まった。
勢いだけが残り、土が前へ飛ぶ。
熊が吠えた。
祀煙へ前脚を伸ばすが、届かない。
首を包んだ煙が喉元を締め、胸の煙が呼吸を詰まらせ、前脚の付け根にまとわりついた煙が動きを鈍らせる。
熊は身体を左右へ振る。
後脚で立ち上がろうとする。
また地面へ落ちる。
何度も何度も暴れた。
逃れようとしている。
太い前脚が空を掻く。
爪が木の幹を削った。
低い唸り声が山に響く。
そのたびに、熊へまとわりついた灰色の煙が揺れた。
だが、散らない。
淡い煙とは思えない力で、急所だけを正確に絞め落としにかかっている。
猟師は弓を構えたまま、祀煙と熊を交互に見ていた。
「……化け物だな」
「熊か」
「お前だよ」
「そうか」
祀煙は握った指を少し狭めた。
首元の煙がさらに密着する。
熊が吠えた。
さらに激しく身体を振る。
前脚が地面を抉る。
それでも祀煙はその場から動かない。
指をもう少し閉じる。
熊の動きが鈍くなった。
暴れる。
止まる。
また暴れる。
次第に間隔が長くなる。
最後には、荒い息だけが聞こえていた。
祀煙がさらに少し力を込める。
熊の身体が崩れた。
そのまま地面へ横たわる。
熊の首元と胸を押さえていた灰色の煙が、ゆっくりと薄れて消えていく。
「死んだか?」
「まだだ」
祀煙が答える。
「殺した方が楽だろ」
「生かしたまま持っていった方がいいんだろ」
「……血抜きするならな」
祀煙は倒れた熊へ歩み寄った。
「持っていくぞ」
「待て。一人で持つ気か」
「そうだが」
「……もう何でもいい」
猟師は黙った。
肉は屋敷へ持ち帰った。
すべてを持ち帰るわけではない。
血を抜き、捌いてもらった分として猟師にも渡す。
残った肉でも、二十人が食べるには十分だった。
だから肉は足りている。
問題はやはり、野菜だった。
祀煙は何度か山へ入り、山菜も探した。
だが、以前ほど取れない。
見つけても少量だった。
屋敷へ帰れば、すぐになくなる。
「今日はこれだけ?」
籠を覗き込んだ女が言った。
「ああ」
「そっか」
少し落胆した声だった。
それでも女はすぐに笑った。
「ありがと。汁に入れるよ」
その夜。
大鍋には肉と芋が入っていた。
そこへ祀煙が持ち帰った山菜が少しだけ散らされている。
女たちはそれを残さず食べた。
「やっぱり葉っぱ入るとうまいね」
「もっと食べたい」
「また祀煙さまに探してもらいな」
「自分でも探しに行くよ」
そんな声を聞きながら、祀煙はしばらく鍋を見ていた。
それから数日。
祀煙は屋敷と山を行き来していた。
女たちが食えているかを見る。
畑を見る。
水を見る。
山へ行く。
獣を取る。
食える草を探す。
そんなことを繰り返していた。
ふと、銀秋のことを思い出したのは、その日の夕方だった。
縁側に座っていた祀煙は、庭を見ながら考えた。
兄様は大丈夫だろう。
兄様が食べ物に困って死ぬ姿は、どうにも想像できない。
だが、銀秋は人間だ。
人間は、飯を食わなければ痩せる。
さらに食わなければ動けなくなる。
その先は死ぬ。
「……大丈夫か、あいつ」
祀煙は立ち上がった。
兄様がいるから平気だろう。
そう思いながらも、一度気になると確認したくなった。
身体が灰色の煙へ変わる。
煙は庭を這い、空へ上がった。
銀秋は帳場に座っていた。
客はいない。
表の戸は開いている。
通りを歩く人間も、以前より少なくなっていた。
店の奥ではキミコが座っている。
銀秋は帳簿へ目を落としていた。
その時。
戸口から、灰色の煙が流れ込んできた。
「――っ!」
銀秋の顔色が変わった。
煙は低く床を這った。
戸口から次々と入ってくる。
「何だ!?」
銀秋が立ち上がった。
煙は床を覆い、帳場の足元を回り、柱へまとわりついた。
銀秋がさらに一歩下がる。
「おい、キミコ!」
「何?」
店の奥からキミコが顔を出した。
銀秋は煙を指した。
「何じゃねえよ!」
煙が一か所へ集まり、膨らむ。
人の形になる。
やがて、見覚えのある男がそこに立っていた。
銀秋はしばらく黙った。
「……お前かよ」
「久しぶりだな」
「ふざけんな!」
銀秋が怒鳴った。
「普通に戸から入れ!」
「戸から入っただろ」
「煙で入ってくんなって言ってんだよ!」
「早いからな」
銀秋の顔が引きつった。
「……っ! この野郎! そういう話じゃねえよ!」
祀煙は気にした様子もない。
店の奥を見る。
キミコがこちらへ歩いてくる。
「祀煙」
祀煙の表情が少し変わった。
「兄様」
すぐに姿勢を正す。
「お久しぶりです」
「うん」
「お変わりありませんか」
「ない」
「それならよかった」
銀秋が横から口を挟む。
「こいつにはずいぶん態度違うな、お前」
「兄様とお前が同じなわけないだろ」
「腹立つな」
祀煙は銀秋を見る。
そのまま少し目を細めた。
「……お前」
「何だよ」
祀煙が近づく。
銀秋が眉を寄せる。
「痩せたな」
「そうか?」
「痩せた」
「食ってるよ」
祀煙は銀秋の前へ立った。
顔を近くから見る。
頬を見る。
顎を見る。
銀秋が顔を逸らした。
「近えよ」
祀煙は気にしない。
片手で銀秋の頬を掴んだ。
「おい」
顔を左右へ向ける。
「やっぱり痩せた」
「触んな!」
銀秋が手を払おうとする。
祀煙はその前に手を離した。
今度は両手を銀秋の肩へ置く。
「肩も細くなった」
「だから触んなって」
そのまま肩から腕へ手を滑らせる。
上腕を掴む。
揉む。
「前より肉がない」
「揉むな!」
銀秋が腕を引く。
祀煙はようやく腕を離した。
次は銀秋の胸へ手を置いた。
「おい」
そのまま胸板を押す。
鎖骨のあたりも触る。
脇へ手を回す。
「おい!」
「やっぱり薄くなってる」
「だから何でそんな触るんだよ!」
「どれくらい痩せたか見てる」
「見りゃいいだろ!」
「触った方が分かる」
「分からなくていい!」
祀煙の手が脇腹へ移る。
着物の上から、遠慮なく身体の厚みを確かめる。
「脇も落ちてるな」
「やめろ!」
銀秋が身体を捩った。
祀煙は今度は腰へ手を回した。
両側から掴む。
「細くなった」
「離せ!」
銀秋が祀煙の腕を叩いた。
祀煙はようやく少しだけ身体を離した。
「ちゃんと食ってるのか」
「食ってる!」
「何を」
「芋とか、山菜とか、肉とか!」
祀煙がキミコを見る。
「本当ですか、兄様」
「食べてるよ」
「量は?」
「私と同じくらい」
「なら大丈夫そうですね」
「俺の言うことは信用しねえのかよ」
「兄様の方が信用できる」
「帰れ」
祀煙はまた銀秋を見る。
そして懲りずに腹へ手を伸ばした。
「もういいだろ!」
銀秋がその手を掴んだ。
「腹も見せろ」
「嫌だよ!」
「骨が浮いてないか見る」
「見せねえ!」
その横から手が伸びた。
キミコが祀煙の腕を掴んでいた。
「祀煙」
「はい、兄様」
「銀秋にべたべたしないで」
祀煙はキミコを見る。
「痩せ具合を確認していただけです」
「べたべたしてた」
「申し訳ありません」
祀煙は素直に銀秋から手を離した。
「もう触りません」
「うん」
銀秋が自分の着物を整える。
「最初から触らせんなよ」
「祀煙だから」
「どういう意味だよ」
祀煙は店の奥へ視線を向けた。
食べ物らしいものがいくつか見える。
「まあ、食えてはいるようだな」
「だから言ってんだろ」
「兄様がいらっしゃるから、大丈夫だろうとは思っていました」
キミコが祀煙を見る。
「祀煙は?」
「俺も問題ありません」
「女たちは?」
祀煙は少し黙った。
「肉はあります」
「肉」
「はい。鹿や熊を取っています。猟師に捌かせて、その分け前として一部を渡しています」
「いっぱいある?」
「肉だけなら」
「じゃあ大丈夫?」
「いえ」
祀煙は首を振った。
「野菜が足りません」
キミコが祀煙を見る。
「野菜?」
「屋敷には今、二十人ほどいます」
「ふうん」
「畑でも育ててはいますが、今年はあまり出来がよくありません。結界の外よりはましですが、それでも二十人で食べるには足りません」
「何が足りないの?」
「菜や蕪ですね。芋はまだあります」
祀煙は少し考える。
「今朝も、屋敷の女が菜っ葉を腹いっぱい食べたいと言っていました」
キミコは黙った。
少し考えている。
「山菜は?」
「取れるだけ取っていますが、山にも人が入っていますから。以前ほど残っていません」
「そう」
キミコは何もないところへ手を伸ばした。
それから止まり、また少し考えた。
「祀煙、こっち来て」
「はい」
祀煙は言われるままにキミコについていく。
店の奥。人目につかない場所で、キミコは再び何もない空間に手を伸ばし、爪を立てた。
白い空間が開く。
祀煙が目を向ける。
「兄様?」
キミコは中へ腕を入れた。
何かを掴む。
引っ張り出す。
どさっ。
床へ山菜が落ちた。
祀煙がそれを見る。
次に芋。
また山菜。
栗。
胡桃。
さらに芋。
次々と床へ積まれていく。
「…………」
銀秋も店の奥に来て、それを見ていた。
「お前、まだそんなに持ってたのか」
「あるよ」
キミコはまた白い空間へ手を入れた。
山菜。
芋。
木の実。
どさどさと積み上がる。
祀煙が床とキミコを交互に見る。
「兄様」
「何?」
「どれだけ持っていらっしゃるんですか」
「いっぱい」
「……」
「まだあるよ」
「まだ」
「うん」
キミコはさらに出そうとした。
「兄様、もう十分です」
「足りる?」
「十分です」
「二十人だよ」
「これだけあればしばらくは食えます」
「そう」
キミコはようやく手を止めた。
白い空間が閉じる。
床には山菜や芋、栗、胡桃が山になっている。
キミコはそれを見る。
「持って行って」
祀煙がキミコを見る。
「よろしいんですか」
「うん」
「兄様たちの分は」
「まだある」
「……そうですか」
「女たちに食べさせて」
「ありがとうございます、兄様」
キミコは少し黙った。
床の食べ物を見る。
それから祀煙を見る。
「あと」
「はい」
「女たちに、ごめんって言っといて」
祀煙が黙った。
何のことかは、すぐに分かった。
以前、キミコが屋敷へ来た時のことだ。
女を食おうとした。
屋敷の中でも暴れた。
祀煙は少しだけ目を細めた。
「分かりました」
「うん」
「伝えておきます」
キミコは床に積まれた食べ物を見る。
「菜っ葉食べたい人にも、いっぱい食べさせて」
「そうします」
祀煙は笑った。
「喜びますよ」
「ならよかった」
祀煙が銀秋を見る。
「それじゃあな」
「待て」
「何だ」
「帰るなら普通に帰れよ」
銀秋が念を押した。
祀煙は少し考えた。
「兄様、それでは」
「うん」
「また来ます」
「おい」
祀煙の身体が、一気に灰色の煙へ崩れた。
「うわっ!」
銀秋が本気で飛び退いた。
灰色の煙が一気に店の中へ膨らむ。
床から天井近くまで広がり、銀秋の視界を覆った。
「キミコ!」
「大丈夫」
「――!」
銀秋が声にならない悲鳴を上げる。
煙が渦を巻く。
床を這い、積まれた山菜や芋、栗や胡桃を包み込んでいく。
それらも煙の中へ消えていった。
やがて灰色の煙が戸口へ流れ出していく。
最後の煙が外へ抜ける。
店の中に静けさが戻った。
銀秋はしばらく戸口を見ていた。
身体が固まっている。
「…………」
キミコが銀秋を見る。
「帰った」
「……」
銀秋はようやく息を吐いた。
「……何なんだよ、あいつ」
「祀煙」
「……きょうだい揃って、全く」
銀秋は戸口まで歩いた。
外を見る。
もう煙はどこにもいない。
それを確認してから店の中へ戻る。
「来る時も怖えし、帰る時も怖えよ」
「そう?」
「そうだよ!」
「煙なだけだよ」
「俺は怖えんだよ!」
銀秋が喚く。
「それに、人間が目の前で煙になるのを『煙なだけ』で済ませられるか!」
「祀煙は人間じゃない」
「余計怖えよ!」
キミコは少し考えた。
「次来たら、普通に歩いて来るように言う」
「絶対言えよ」
「うん」
「絶対だぞ」
「分かった」
銀秋はまだ戸口を気にしている。
しばらくしてから、もう一度外を覗いた。
何もいない。
そこでようやく帳場へ戻った。
「……心臓に悪い」
小さく呟いた。




