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スダマの鬼  作者: 肉
44/52

嫌

 飢饉は、まだ終わらなかった。

 食べ物は少ないままだった。

 道端には、京へ流れてきた者たちが座り込んでいる。

 咳をする者も増えた。

 餅屋の前では、数日に一度だけ飯を配った。

 大きくはやらない。

 近所の顔見知りだけ。

 銀秋がそう決めた。

 キミコはそのたびに食べ物を用意した。

 芋。

 山菜。

 栗。

 鳥や鹿の肉。

 足りなくなれば、山へ行った。

 人のいないところで「実れ」と言った。

 鳥や鹿も、必要な分だけ取った。

 それらを持ち帰った。

 銀秋も、もう止めなかった。

 ただし、人に見られるなとは何度も言った。

「分かった」

 キミコは毎回答えた。

 本当に分かっているのかは、銀秋にもよく分からなかった。




 その日も、餅屋の前で飯を配った。

 鍋から湯気が上がっている。

 集めたのは、近所の顔見知りだけだった。

 銀秋が飯をよそう。

 餅屋の女が人を並ばせる。

 キミコは鍋のそばにいた。

 しばらくすると、通りの向こうに人が集まり始めた。

 見覚えのない者たちだった。

 着物は汚れ、頬は痩せている。

 京へ流れてきた人間だった。

 一人の男が近づいてくる。

「飯、もらえるのか」

 銀秋が男を見る。

「……悪い。今日はこの辺の奴だけだ」

「少しでいい」

「足りねえんだ」

 男は鍋を見る。

 まだ中には残っている。

「あるじゃねえか」

「並んでる奴の分だ」

「俺だって何日も食ってねえんだよ」

 男が一歩近づく。

 その後ろから、別の男も来た。

「俺にもくれ」

「子供がいるんだ」

 少し離れたところから、女の声もした。

 列に並んでいた者たちが振り返る。

 餅屋の女が声を張った。

「押すんじゃないよ」

 一人が列へ入ろうとする。

「悪いけど、今日は呼んだ人だけだ」

 銀秋が前へ出た。

「頼むよ」

「これ以上は出せねえ」

「そこにあるだろ」

 男が鍋へ近づこうとする。

 銀秋が腕を出して止めた。

「触るな」

 男が銀秋を睨む。

「自分らだけ食うのかよ」

 銀秋は何も言わなかった。

 キミコが男を見る。

 それから、後ろにいる者たちを見る。

「銀秋」

「何だ」

「あの人たちも食べてない」

「ああ」

「増やす?」

「駄目だ」

「できるよ」

「分かってる」

 銀秋は声を落とした。

「ここでいくらでも出したら、もっと集まる」

「いっぱい作ればいい」

「それを続けたら、お前のことが隠せなくなる」

 キミコは黙った。

 見知らぬ者たちは、まだこちらを見ている。

「お腹空いてる」

「ああ」

「死ぬかもしれない」

 銀秋は少し黙った。

「……全部は助けられねえ」

 キミコは銀秋を見る。

 何も言わなかった。

 結局、銀秋はその日の分を増やさなかった。

 見知らぬ者の何人かは、鍋が空になるまでその場に残っていた。




 その日の夜。

 店へ戻り、戸を閉めた。

 昼間のことは、どちらも口にしなかった。

 二人で飯を食べる。

 以前よりは、量があった。

 銀秋は残さず食べた。

 キミコも食べた。

 それから二人で座敷へ入った。

 寝具へ横になる。

 しばらく、何も話さなかった。

 外は静かだった。

 時々、遠くから咳が聞こえる。

 銀秋は仰向けになって天井を見ていた。

 キミコは隣にいる。

「ごほっ」

 銀秋が一度だけ咳をした。

 キミコがすぐに銀秋を見る。


「治れ」


 銀秋が目を見開く。

 少し黙ってから、キミコを見る。

「……お前な、咳しただけだぞ」

「病気かもしれない」

「違うと思うけどな」

 銀秋は喉へ手を当てた。

 少し引っかかっていたものが、もうない。

「……治った?」

「ああ。たぶんな」

「よかった」

 キミコはそれで安心したように、銀秋から目を離した。

 銀秋はしばらく、その横顔を見ていた。

 少しして、銀秋が呟く。

「……死にたくねえな」

 キミコが銀秋を見る。

「死ぬの?」

「今すぐじゃねえよ」

「じゃあ死なない」

「いつかは死ぬ」

 銀秋が横を向く。

 キミコと目が合った。

「お前は死なねえんだろ」

「たぶん」

「たぶんかよ」

「今まで死ななかった」

「そうだな」

 銀秋は少し笑った。

 すぐに笑みが消える。

「この前、寝てた時さ」

「うん」

「このまま死ぬかと思った」

 キミコは黙って聞いている。

「身体動かねえし、飯もねえし」

「私が取ってきた」

「ああ」

「食べた」

「ああ」

「治った」

「……助かったよ」

 銀秋は目を閉じた。

「でも、あの時は分かんなかったんだよ」

「何が?」

「次の日まで生きてるか」

 キミコが銀秋を見る。

「怖かった?」

 銀秋は少し黙った。

「……怖かったな」

「銀秋、死ぬの怖い?」

「今はな」

「前は?」

「前は……」

 銀秋は天井を見る。

 答えなかった。

 しばらくして、口を開く。

「別に、いつ死んでもいいと思ってた」

 キミコが瞬きをする。

「何で?」

「色々あったからだよ」

「奥方?」

 銀秋の目が少し動いた。

「……まあ、それもある」

「子供も?」

「ああ」

 キミコはそれ以上聞かなかった。

 銀秋も黙った。

 しばらく、夜の音だけがあった。

「でも」

 銀秋が言う。

「今は死にたくねえ」

「うん」

「お前がいるからかな」

 キミコが銀秋を見る。

「私?」

「ああ」

 銀秋は少し笑った。

「分かんねえけど」

 キミコは少し考えた。

「じゃあ死ななければいい」

「簡単に言うなよ」

「治れって言えばいい?」

 銀秋がキミコを見る。

「……お前、それで何でもどうにかなると思ってんだろ」

「ならない?」

「分かんねえよ」

「死にそうになったら言う」

「何を」

「治れって」

「死ぬ直前まで付き合う気か」

「うん」

 銀秋は黙った。

 キミコは普通に答えただけだった。

 銀秋はしばらく、その顔を見ていた。

「……なあ」

「何?」

「俺が死んだあと」

 言葉が止まる。

 キミコは待っている。

「他の奴と暮らすのか」

「分からない」

「……」

「その時にならないと分からない」

 銀秋の眉が少し寄った。

「誰かと暮らすかもしれないってことか」

「うん」

「……そうかよ」

 銀秋は反対側を向いた。

 キミコがその背を見る。

「銀秋?」

「何でもねえ」

「怒った?」

「怒ってねえよ」

「怒ってる」

「怒ってねえって」

 キミコはしばらく黙った。

「何で嫌なの?」

 銀秋は答えない。

「銀秋」

「……うるせえな」

「何で?」

「知らねえよ」

 キミコは少し考える。

「私が他の人と暮らすの嫌?」

 銀秋の背中が止まる。

「……嫌だよ」

「何で?」

「だから知らねえって」

「銀秋が死んだあとだよ」

「分かってるよ」

「銀秋いないのに?」

「分かってる」

 銀秋が振り返る。

「分かってるけど嫌なんだよ」

 キミコは銀秋を見る。

「変」

「うるせえ」

「死んだら分からないでしょう」

「そういうことじゃねえんだよ」

「じゃあどういうこと?」

「知らねえよ」

 銀秋はまた仰向けになる。

 腕で目元を隠した。

「……考えると嫌なんだよ」

 キミコは何も言わない。

 銀秋が続ける。

「俺がいなくなって」

「うん」

「お前が普通にどっか行って」

「うん」

「別の奴の隣にいて」

 そこで言葉が止まった。

「……嫌だ」

 キミコは銀秋を見ている。

「銀秋」

「何だよ」

「前はそんなこと言わなかった」

 銀秋が腕を下ろす。

「前?」

「前は、好きにしろって言った」

「……」

「私がどこ行っても、誰といても」

 銀秋は何も言わない。

「銀秋、前と違う」

「分かってるよ」

「何で?」

 銀秋は顔をしかめた。

「知らねえって言ってんだろ」

「でも変わった」

「ああ」

 しばらく黙る。

「……今は嫌なんだよ」

 キミコが聞く。

「何が?」

「お前が俺以外のところ行くのが」

「今?」

「今も」

「死んだあとも?」

「……死んだあとも」

「何で?」

「分かんねえよ」

 銀秋は少し苛立ったように言った。

 キミコは銀秋を見る。

「銀秋、不安?」

 銀秋はしばらく黙った。

「何が」

「私がいなくなるの」

 銀秋は答えなかった。

 少しして、キミコを見る。

「俺がいなくなっても、お前は平気なんだろ」

 キミコは黙って聞いていた。

「何十年でも生きるんだろ」

「……」

「俺なんかいなくなっても、そのうち忘れるんじゃねえのか」

 キミコは少し考えた。

「忘れないと思う」

「思う、か」

「うん」

 少し間が空いた。

「でも、生きていける」

 銀秋の顔が歪む。

「ほらな」

「何が?」

「俺がいなくなっても平気じゃねえか」

 キミコは銀秋を見る。

「死んだら悲しい」

 銀秋が一瞬黙る。

「……悲しい?」

「うん」

「どれくらい」

「分からない」

「またそれかよ」

「なったことないから」

 銀秋は何も言えなくなった。

 キミコが少し近づく。

「でも、嫌」

「……」

「銀秋が死ぬの」

 銀秋を見る。

「いなくなったら嫌」

 銀秋の目が動いた。

 以前にも聞いた言葉だった。

「……そうか」

「うん」

 銀秋は手を伸ばした。

 キミコの腕を掴む。

 強くはない。

 ただ、離さないように握った。

「……じゃあ、俺がいる間は、どこにも行くなよ」

 キミコが銀秋を見る。

「どこにも?」

「……ずっとって意味じゃねえよ」

「山も?」

「そういう意味じゃねえ」

「餅屋も?」

「違う」

 銀秋は困ったように息を吐いた。

「もういい」

「分からない」

「俺も分かんねえよ」

 銀秋はキミコの腕を掴んだまま、目を閉じた。

 キミコはその手を見る。

「銀秋」

「ん」

「変」

「ああ」

 銀秋は目を開けなかった。

「自分でも分かってる」

 キミコはしばらく黙っていた。

 それから、銀秋の手に自分の手を重ねた。

 銀秋の指を一本ずつ、ゆっくり自分の腕から外していく。

 銀秋は抵抗しなかった。

 手が離れる。

 キミコはそのまま、銀秋のそばへ身体を寄せた。

 銀秋が目を開ける。

 身体ごと、キミコの方へ向き直った。

 そのまま背へ腕を回し、抱き寄せた。

 いつもより少し強かった。

 キミコは何も言わなかった。

 銀秋も、それ以上は話さなかった。

 外では、遠くから咳が聞こえていた。

 銀秋は眠るまで、キミコを離さなかった。

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