嫌
飢饉は、まだ終わらなかった。
食べ物は少ないままだった。
道端には、京へ流れてきた者たちが座り込んでいる。
咳をする者も増えた。
餅屋の前では、数日に一度だけ飯を配った。
大きくはやらない。
近所の顔見知りだけ。
銀秋がそう決めた。
キミコはそのたびに食べ物を用意した。
芋。
山菜。
栗。
鳥や鹿の肉。
足りなくなれば、山へ行った。
人のいないところで「実れ」と言った。
鳥や鹿も、必要な分だけ取った。
それらを持ち帰った。
銀秋も、もう止めなかった。
ただし、人に見られるなとは何度も言った。
「分かった」
キミコは毎回答えた。
本当に分かっているのかは、銀秋にもよく分からなかった。
その日も、餅屋の前で飯を配った。
鍋から湯気が上がっている。
集めたのは、近所の顔見知りだけだった。
銀秋が飯をよそう。
餅屋の女が人を並ばせる。
キミコは鍋のそばにいた。
しばらくすると、通りの向こうに人が集まり始めた。
見覚えのない者たちだった。
着物は汚れ、頬は痩せている。
京へ流れてきた人間だった。
一人の男が近づいてくる。
「飯、もらえるのか」
銀秋が男を見る。
「……悪い。今日はこの辺の奴だけだ」
「少しでいい」
「足りねえんだ」
男は鍋を見る。
まだ中には残っている。
「あるじゃねえか」
「並んでる奴の分だ」
「俺だって何日も食ってねえんだよ」
男が一歩近づく。
その後ろから、別の男も来た。
「俺にもくれ」
「子供がいるんだ」
少し離れたところから、女の声もした。
列に並んでいた者たちが振り返る。
餅屋の女が声を張った。
「押すんじゃないよ」
一人が列へ入ろうとする。
「悪いけど、今日は呼んだ人だけだ」
銀秋が前へ出た。
「頼むよ」
「これ以上は出せねえ」
「そこにあるだろ」
男が鍋へ近づこうとする。
銀秋が腕を出して止めた。
「触るな」
男が銀秋を睨む。
「自分らだけ食うのかよ」
銀秋は何も言わなかった。
キミコが男を見る。
それから、後ろにいる者たちを見る。
「銀秋」
「何だ」
「あの人たちも食べてない」
「ああ」
「増やす?」
「駄目だ」
「できるよ」
「分かってる」
銀秋は声を落とした。
「ここでいくらでも出したら、もっと集まる」
「いっぱい作ればいい」
「それを続けたら、お前のことが隠せなくなる」
キミコは黙った。
見知らぬ者たちは、まだこちらを見ている。
「お腹空いてる」
「ああ」
「死ぬかもしれない」
銀秋は少し黙った。
「……全部は助けられねえ」
キミコは銀秋を見る。
何も言わなかった。
結局、銀秋はその日の分を増やさなかった。
見知らぬ者の何人かは、鍋が空になるまでその場に残っていた。
その日の夜。
店へ戻り、戸を閉めた。
昼間のことは、どちらも口にしなかった。
二人で飯を食べる。
以前よりは、量があった。
銀秋は残さず食べた。
キミコも食べた。
それから二人で座敷へ入った。
寝具へ横になる。
しばらく、何も話さなかった。
外は静かだった。
時々、遠くから咳が聞こえる。
銀秋は仰向けになって天井を見ていた。
キミコは隣にいる。
「ごほっ」
銀秋が一度だけ咳をした。
キミコがすぐに銀秋を見る。
「治れ」
銀秋が目を見開く。
少し黙ってから、キミコを見る。
「……お前な、咳しただけだぞ」
「病気かもしれない」
「違うと思うけどな」
銀秋は喉へ手を当てた。
少し引っかかっていたものが、もうない。
「……治った?」
「ああ。たぶんな」
「よかった」
キミコはそれで安心したように、銀秋から目を離した。
銀秋はしばらく、その横顔を見ていた。
少しして、銀秋が呟く。
「……死にたくねえな」
キミコが銀秋を見る。
「死ぬの?」
「今すぐじゃねえよ」
「じゃあ死なない」
「いつかは死ぬ」
銀秋が横を向く。
キミコと目が合った。
「お前は死なねえんだろ」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「今まで死ななかった」
「そうだな」
銀秋は少し笑った。
すぐに笑みが消える。
「この前、寝てた時さ」
「うん」
「このまま死ぬかと思った」
キミコは黙って聞いている。
「身体動かねえし、飯もねえし」
「私が取ってきた」
「ああ」
「食べた」
「ああ」
「治った」
「……助かったよ」
銀秋は目を閉じた。
「でも、あの時は分かんなかったんだよ」
「何が?」
「次の日まで生きてるか」
キミコが銀秋を見る。
「怖かった?」
銀秋は少し黙った。
「……怖かったな」
「銀秋、死ぬの怖い?」
「今はな」
「前は?」
「前は……」
銀秋は天井を見る。
答えなかった。
しばらくして、口を開く。
「別に、いつ死んでもいいと思ってた」
キミコが瞬きをする。
「何で?」
「色々あったからだよ」
「奥方?」
銀秋の目が少し動いた。
「……まあ、それもある」
「子供も?」
「ああ」
キミコはそれ以上聞かなかった。
銀秋も黙った。
しばらく、夜の音だけがあった。
「でも」
銀秋が言う。
「今は死にたくねえ」
「うん」
「お前がいるからかな」
キミコが銀秋を見る。
「私?」
「ああ」
銀秋は少し笑った。
「分かんねえけど」
キミコは少し考えた。
「じゃあ死ななければいい」
「簡単に言うなよ」
「治れって言えばいい?」
銀秋がキミコを見る。
「……お前、それで何でもどうにかなると思ってんだろ」
「ならない?」
「分かんねえよ」
「死にそうになったら言う」
「何を」
「治れって」
「死ぬ直前まで付き合う気か」
「うん」
銀秋は黙った。
キミコは普通に答えただけだった。
銀秋はしばらく、その顔を見ていた。
「……なあ」
「何?」
「俺が死んだあと」
言葉が止まる。
キミコは待っている。
「他の奴と暮らすのか」
「分からない」
「……」
「その時にならないと分からない」
銀秋の眉が少し寄った。
「誰かと暮らすかもしれないってことか」
「うん」
「……そうかよ」
銀秋は反対側を向いた。
キミコがその背を見る。
「銀秋?」
「何でもねえ」
「怒った?」
「怒ってねえよ」
「怒ってる」
「怒ってねえって」
キミコはしばらく黙った。
「何で嫌なの?」
銀秋は答えない。
「銀秋」
「……うるせえな」
「何で?」
「知らねえよ」
キミコは少し考える。
「私が他の人と暮らすの嫌?」
銀秋の背中が止まる。
「……嫌だよ」
「何で?」
「だから知らねえって」
「銀秋が死んだあとだよ」
「分かってるよ」
「銀秋いないのに?」
「分かってる」
銀秋が振り返る。
「分かってるけど嫌なんだよ」
キミコは銀秋を見る。
「変」
「うるせえ」
「死んだら分からないでしょう」
「そういうことじゃねえんだよ」
「じゃあどういうこと?」
「知らねえよ」
銀秋はまた仰向けになる。
腕で目元を隠した。
「……考えると嫌なんだよ」
キミコは何も言わない。
銀秋が続ける。
「俺がいなくなって」
「うん」
「お前が普通にどっか行って」
「うん」
「別の奴の隣にいて」
そこで言葉が止まった。
「……嫌だ」
キミコは銀秋を見ている。
「銀秋」
「何だよ」
「前はそんなこと言わなかった」
銀秋が腕を下ろす。
「前?」
「前は、好きにしろって言った」
「……」
「私がどこ行っても、誰といても」
銀秋は何も言わない。
「銀秋、前と違う」
「分かってるよ」
「何で?」
銀秋は顔をしかめた。
「知らねえって言ってんだろ」
「でも変わった」
「ああ」
しばらく黙る。
「……今は嫌なんだよ」
キミコが聞く。
「何が?」
「お前が俺以外のところ行くのが」
「今?」
「今も」
「死んだあとも?」
「……死んだあとも」
「何で?」
「分かんねえよ」
銀秋は少し苛立ったように言った。
キミコは銀秋を見る。
「銀秋、不安?」
銀秋はしばらく黙った。
「何が」
「私がいなくなるの」
銀秋は答えなかった。
少しして、キミコを見る。
「俺がいなくなっても、お前は平気なんだろ」
キミコは黙って聞いていた。
「何十年でも生きるんだろ」
「……」
「俺なんかいなくなっても、そのうち忘れるんじゃねえのか」
キミコは少し考えた。
「忘れないと思う」
「思う、か」
「うん」
少し間が空いた。
「でも、生きていける」
銀秋の顔が歪む。
「ほらな」
「何が?」
「俺がいなくなっても平気じゃねえか」
キミコは銀秋を見る。
「死んだら悲しい」
銀秋が一瞬黙る。
「……悲しい?」
「うん」
「どれくらい」
「分からない」
「またそれかよ」
「なったことないから」
銀秋は何も言えなくなった。
キミコが少し近づく。
「でも、嫌」
「……」
「銀秋が死ぬの」
銀秋を見る。
「いなくなったら嫌」
銀秋の目が動いた。
以前にも聞いた言葉だった。
「……そうか」
「うん」
銀秋は手を伸ばした。
キミコの腕を掴む。
強くはない。
ただ、離さないように握った。
「……じゃあ、俺がいる間は、どこにも行くなよ」
キミコが銀秋を見る。
「どこにも?」
「……ずっとって意味じゃねえよ」
「山も?」
「そういう意味じゃねえ」
「餅屋も?」
「違う」
銀秋は困ったように息を吐いた。
「もういい」
「分からない」
「俺も分かんねえよ」
銀秋はキミコの腕を掴んだまま、目を閉じた。
キミコはその手を見る。
「銀秋」
「ん」
「変」
「ああ」
銀秋は目を開けなかった。
「自分でも分かってる」
キミコはしばらく黙っていた。
それから、銀秋の手に自分の手を重ねた。
銀秋の指を一本ずつ、ゆっくり自分の腕から外していく。
銀秋は抵抗しなかった。
手が離れる。
キミコはそのまま、銀秋のそばへ身体を寄せた。
銀秋が目を開ける。
身体ごと、キミコの方へ向き直った。
そのまま背へ腕を回し、抱き寄せた。
いつもより少し強かった。
キミコは何も言わなかった。
銀秋も、それ以上は話さなかった。
外では、遠くから咳が聞こえていた。
銀秋は眠るまで、キミコを離さなかった。




