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スダマの鬼  作者: 肉
43/52

秘密

 翌朝。

 銀秋が目を覚ますと、キミコは隣にいた。

 昨夜は久しぶりに、キミコをかわいがった。

 しばらくそんな余裕もなかった。

 目が合う。

「起きた?」

「ああ」

 銀秋は身体を起こした。

 昨日までの重さは、もうほとんどない。

 まだ少し身体はだるかったが、寝込んでいた時とは比べものにならなかった。

 キミコが銀秋を見る。

「元気?」

「昨日も聞いただろ」

「今日も聞いた」

「見りゃ分かるだろ」

「分からない」

「立てるし、飯も食える」

「じゃあ元気」

 銀秋は立ち上がった。

 キミコも起きる。

「店開ける?」

「ああ」

「倒れない?」

「倒れねえよ」

「本当?」

「本当だ」

 銀秋は苦笑した。

「心配しすぎだろ」

「心配した」

「……そうかよ」

 銀秋は少しだけ目を逸らした。

 それから表へ出た。




 朝から何人か客が来た。

 以前ほど多くはない。

 質に入れる物も、品を買う銭もない者が増えていた。

 一人の男が帳場の前へ座る。

 文書を差し出そうとして、急に顔を背けた。

「ごほっ」

 何度か咳き込む。

「悪い」

「大丈夫か」

「ああ」

 男は胸を押さえた。

「ちょっと風邪ひいただけだ」

「顔色悪いぞ」

「飯食ってねえからだろ」

 男は笑った。

 笑った途端、また咳き込んだ。

 銀秋は眉を寄せる。

 男が帰ったあとも、別の客が鼻をすすっていた。

 その次に来た女も、ひどく咳をしていた。

 昼前には、店の外を歩く人の中からも咳が聞こえてきた。

 キミコが戸口を見る。

「みんな咳してる」

「ああ」

「病気?」

「かもしれねえな」

「何で?」

「飯食えてねえ奴が増えてんだ。身体も弱るだろ」

「治らない?」

「治る奴もいる」

「死ぬ?」

 銀秋は少し黙った。

「死ぬ奴もいるだろうな」

「そう」

 キミコは通りを見る。

 また誰かの咳が聞こえた。




 昼になった。

 銀秋は帳簿を閉じた。

「そうだ。食い物、少し分けるか」

「誰に?」

「餅屋」

「おばちゃん?」

「ああ」

「米ないって言ってた」

「そう」

 キミコは頷いた。

「分かった」

 キミコが何もない空間へ爪を立てる。

「おい、待て」

 銀秋が慌てて声を上げた。

 キミコが手を止める。

「何?」

「ここでやるな」

「何で?」

「表だぞ。誰に見られるか分かんねえだろ」

 銀秋は店の奥を指した。

「分かった」

 キミコは手を下ろした。

 二人で店の奥へ入る。

 キミコがもう一度、何もない空間へ爪を立てた。

 横へ引く。

 空間が裂け、その向こうに真っ白な空間が現れた。

 キミコはそこから鹿肉と芋、山菜を取り出した。

 銀秋がそれを包む。

「こんだけありゃ、しばらく食えるだろ」

「もっとあげる?」

「いや。こっちもまだ分からねえからな」

「うん」

 二人で店を出た。




 通りを歩く。

 以前より、人の数が増えていた。

 ただし、見慣れた顔ばかりではない。

 着物は汚れ、荷を背負い、子供を連れて歩く者もいる。

 どこから来たのか分からない人間が、京へ入ってきていた。

 道端に座り込んでいる者も多い。

 壁にもたれ、目を閉じている者。

 地面に横たわっている者。

 布をかけられたまま、動かない者。

 銀秋は前を向いて歩いた。

 キミコも隣を歩く。

 少し先に、一人の男が倒れていた。

 見覚えのない男だった。

 着ているものは土で汚れ、足元には小さな荷が転がっている。

 仰向けになったまま、動かない。

 通り過ぎる者は、ほとんど見向きもしなかった。

 キミコが男を見る。

「死んでる?」

「……たぶんな」

「見ない顔」

「そうだな」

 キミコはもう一度、倒れた男を見る。

 銀秋は足を止めなかった。

 さらに歩く。

 少しして、キミコがまた足を止めた。

「銀秋」

「ん?」

「あれ」

 キミコが指差す。

 銀秋もそちらを見る。

 一人の男が、道端にしゃがみ込んでいた。

 その前には、人が倒れている。

 どちらも、近所では見たことのない顔だった。

 しゃがんでいる男の着物はひどく汚れ、頬は落ちくぼんでいる。

 手には、小さな刃物があった。

 刃を動かす。

 倒れた人間の身体から、何かを切り取る。

 それを口へ運んだ。

 銀秋の顔が強張った。

 すぐにキミコの手を引く。

「……見るな」

 キミコが銀秋を見る。

「何で?」

「いいから」

 銀秋はキミコを促した。

 二人で歩き出す。

 キミコは一度だけ振り返った。

 男はまだ食べていた。

「人間も人間食べるんだ」

 銀秋の足が一瞬止まりかけた。

「……今は言うな」

「何で?」

「頼むから」

「分かった」

 キミコはそれ以上言わなかった。

 銀秋も振り返らなかった。




 餅屋の前まで来た。

 銀秋が足を止める。

 戸が閉まっている。

「……休みか?」

 銀秋が戸を叩く。

「おい」

 返事がない。

「いるか?」

 もう一度叩く。

 やはり返事はなかった。

 キミコが戸を見る。

「いない?」

「分からねえ」

 銀秋は少し待った。

「おい」

 返事はない。

 キミコが戸へ手をかけた。

 戸が開く。

「開いてる」

「勝手に入るな」

 キミコはもう中へ入っていた。

「おい、キミコ」

 銀秋も仕方なくあとを追った。

 店の中は暗かった。

 餅を並べていた場所には、何もない。

 奥から、小さく咳き込む音が聞こえた。

「いる?」

 キミコが奥へ向かう。

「待てって」

 銀秋も続く。

 奥の部屋へ入る。

 女が横になっていた。

「……おい」

 銀秋が近づく。

 顔色が悪い。

 頬は痩せている。

 額には汗が浮かんでいた。

「おい」

 銀秋が肩へ触れる。

 女が薄く目を開ける。

「……銀秋かい」

「ああ」

「何しに来たんだい」

「飯持ってきた」

「そうかい」

 声に力がない。

 すぐに目を閉じる。

 咳が出た。

 身体を丸め、何度も咳き込む。

 銀秋が眉を寄せる。

「いつからだ」

「何が」

「咳だよ」

「少し前からさ」

「少しじゃ分かんねえよ」

「うるさいねえ」

 いつもの言い方だった。

 だが、声が弱い。

 キミコが女の顔を覗き込んだ。

「弱くなった?」

「誰が弱いって?」

「弱い」

「失礼な子だね」

 そう言って、また咳き込む。

 キミコは女を見る。

 少し考えた。


「治れ」


 銀秋が顔を上げる。

 女も目を開けた。

 一瞬、何も起きなかった。

 次の瞬間、女の呼吸が変わった。

 浅かった息が深くなる。

 額の汗が引いていく。

 青白かった顔に色が戻った。

 女が瞬きをする。

「……何だい」

 身体を起こした。

 銀秋が固まる。

 女自身も自分を見る。

「……何だい、これ」

 胸へ手を当てる。

 咳が出ない。

 呼吸も苦しくない。

 腕を動かす。

「身体が軽い」

 キミコが言う。

「治った」

 女がキミコを見る。

「今、何した」

「治れって言った」

「……」

 女が銀秋を見る。

 銀秋は額を押さえた。

「キミコ」

「何?」

「人前でやるなって言っただろ」

「でも、この人弱くなってた」

「そうだけどよ」

「死ぬかもしれない」

 銀秋は黙る。

 女が二人を交互に見る。

「ちょっと待ちな」

 銀秋を見る。

「何だい、この子」

「……」

「今の、何だい」

 銀秋はしばらく答えなかった。

 女は黙って待っている。

 やがて銀秋が息を吐いた。

「誰にも言うなよ」

「何を」

「今起きたことだ」

 女がキミコを見る。

 キミコは何も言わない。

「……この子がやったのかい」

「ああ」

「本当に?」

「ああ」

 女はまた自分の身体を見る。

 立ち上がる。

 少しふらついたが、すぐに姿勢を戻した。

「治っちまった」

「だから言った」

「そういう話じゃないよ」

 キミコが首を傾げる。

 銀秋が言う。

「こいつ、そういうことができる」

「そういうことって」

「色々だよ」

「雑だねえ」

「全部説明すると長えんだよ」

 女はキミコを見る。

「病気を治すだけじゃないのかい」

「うん」

「他に何ができる」

 キミコが答えようとする。

 銀秋が先に言った。

「言うな」

「何で?」

「お前は何でも喋るからだよ」

「聞かれたから」

「だからって全部答えるな」

 女が銀秋を見る。

「そんなにまずいのかい」

「ああ」

 銀秋は真剣だった。

「知られたら、こいつを使おうとする奴が出る」

 女は少し黙る。

「……そうだろうね」

「だから今のは、ここだけだ」

「分かったよ」

「本当に頼むぞ」

「誰に言うってんだい」

 女は息を吐く。

 それから、ふと思い出したように言った。

「飯持ってきたって言ったね」

「ああ」

 銀秋が包みを見せる。

「鹿と、芋と、山菜」

「どこでそんなもんを」

 銀秋がキミコを見る。

 女も見る。

「……まさか」

「キミコが取ってきた」

「山から?」

「うん」

「今、山にそんなに残ってるのかい」

「なかった」

「じゃあ何で」

 キミコが答える。

「実れって言った」

 銀秋が目を閉じた。

「言うなって今言っただろ」

「聞かれた」

「お前なあ」

 女は黙った。

 しばらく、何も言わなかった。

 それから店の外の方を見る。

「……実らせられるのかい」

「うん」

「米も?」

「できる」

「野菜も?」

「たぶん」

 銀秋が女を見る。

「何考えてる」

 女はすぐには答えなかった。

 やがて、口を開く。

「この辺だけでも、食わせられないかね」

 銀秋の顔が険しくなる。

「駄目だ」

「まだ言ってないだろ」

「何言いだすかくらい分かる」

 銀秋が息を吐く。

「こいつの力を使って、飯を配ろうってんだろ」

「そうだよ」

「駄目だ」

「何で」

「見つかる」

「見つからないようにやりゃいい」

「そんな簡単じゃねえよ」

「でも、このままじゃ死ぬよ」

 銀秋が黙る。

 女は続ける。

「どこを見ても痩せた顔ばっかりだ」

「……ああ」

「流れてきた連中も、この辺で倒れてる」

「ああ」

「このままじゃ、近所の連中だって同じになるよ」

 銀秋は何も言わない。

「咳してる奴も増えてる」

「……」

「今日、あたしだって死んでたかもしれない」

 銀秋は黙ったままだった。

「全部助けろとは言わないよ」

 女は少し声を落とした。

「この辺だけでもいい」

「……」

「顔を知ってる奴らくらい、食わせられないかね」

 キミコが銀秋を見る。

「できるよ」

「分かってる」

「できる」

「分かってるよ」

 銀秋は額を押さえた。

 しばらく考える。

「大々的にはやらねえ」

「そうだね」

「人を集めすぎるのも駄目だ」

「ああ」

「食い物の出どころは絶対言うな」

「言わないよ」

「いきなり山ほど出すのも駄目だ」

「何で?」

 キミコが聞く。

「怪しまれるからだよ」

「いっぱいあった方がいい」

「それでお前が目ぇつけられたら意味ねえだろ」

「捕まらない」

「そういう話じゃねえ」

 女が笑った。

「相変わらず大変だねえ、あんた」

「誰のせいだと思ってんだ」

「キミコだろ」

 キミコが二人を見る。

「私のせい?」

「…………いや。違う」

 銀秋は長く息を吐いた。

「……少しだけだ」

「うん」

「近所だけ」

「うん」

「毎日山ほど出したりすんな」

「分かった」

「本当に分かってんだろうな」

「うん」

 女が笑う。

「じゃあ決まりだね」




 翌日。

 餅屋の前に、大きな鍋が置かれた。

 中には、芋と山菜。

 少しの鹿肉。

 餅屋に残っていたわずかな米も入っている。

 見た目は立派なものではない。

 味も薄い。

 けれど、温かかった。

 鍋の中から湯気が上がっている。

 銀秋は店の前に立っていた。

「並べ」

 声を張る。

「押すな。まだある」

 声をかけて集めたのは、近所の顔見知りだけだった。

 最初に来たのは、近所の老人だった。

「本当にいいのか」

「ああ」

「銭は」

「いらねえ」

「でも」

「いいから持ってけ」

 銀秋が器へよそう。

 老人は何度も頭を下げた。

 次に、痩せた女が来た。

 子供を連れている。

 銀秋は二人分をよそう。

「子供の分、少し多くして」

 キミコが言う。

「分かってるよ」

 銀秋が少し多めに入れる。

 子供が器を両手で持った。

 湯気を見ている。

「熱いから気をつけろよ」

 銀秋が言う。

 子供は頷いた。

 女が何度も礼を言った。

 少し離れたところでは、餅屋の女が人を並ばせている。

「一列だよ。一列」

「横入りすんじゃないよ」

「まだあるから慌てるんじゃない」

 昨日まで寝込んでいたとは思えない声だった。

 キミコは鍋のそばに立っている。

 減っていく中身を見る。

「少なくなった」

「まだ出すなよ」

 銀秋が小声で言う。

「でもなくなる」

「なくなったら今日は終わりだ」

「もっと作れる」

「分かってる」

「じゃあ作る」

「駄目」

「何で?」

「いくらでも出てきたらおかしいだろ」

 キミコは少し考える。

「おかしい?」

「おかしい」

「そう」

 納得しているのか分からない返事だった。

 それでも、追加では出さなかった。

 やがて鍋の底が見えた。

 最後に来た男へ、残ったものをよそう。

「これで終わりだ」

 銀秋が言った。

「またあるか」

 男が聞く。

 銀秋は少し迷う。

「……できる時はな」

「そうか」

 男は器を抱えた。

「助かる」

 それだけ言って、離れていった。

 人がいなくなる。

 空になった鍋が残った。

 銀秋はそれを見る。

 餅屋の女が隣へ来る。

「思ったより来たね」

「ああ」

「明日もやるかい」

「毎日は無理だ」

「そうかい」

「でも」

 銀秋は通りを見る。

 器を抱えた人たちが、それぞれの家へ帰っていく。

 子供が母親の隣で、器を大事そうに抱えて歩いている。

「……また少しならな」

 女が笑った。

「そうかい」

 キミコが銀秋を見る。

「また作る?」

「ああ」

「煮えろって言う?」

「それ以外に作り方知らねえだろ、お前」

「うん」

「少しは覚えろよ」

「塩入れる」

「そこだけ覚えてんじゃねえよ」

 餅屋の女が声を上げて笑った。

 銀秋も少し笑う。

 キミコは二人を見る。

 それから、空になった鍋を見た。

「全部なくなった」

「ああ」

「みんな食べた」

「ああ」

 銀秋が答える。

 キミコは少しだけ目を細めた。

「よかった」

 通りの向こうで、また咳が聞こえた。

 それでも、その日の夕方、この辺りでは、久しぶりに温かい飯を食べた者が何人もいた。

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