秘密
翌朝。
銀秋が目を覚ますと、キミコは隣にいた。
昨夜は久しぶりに、キミコをかわいがった。
しばらくそんな余裕もなかった。
目が合う。
「起きた?」
「ああ」
銀秋は身体を起こした。
昨日までの重さは、もうほとんどない。
まだ少し身体はだるかったが、寝込んでいた時とは比べものにならなかった。
キミコが銀秋を見る。
「元気?」
「昨日も聞いただろ」
「今日も聞いた」
「見りゃ分かるだろ」
「分からない」
「立てるし、飯も食える」
「じゃあ元気」
銀秋は立ち上がった。
キミコも起きる。
「店開ける?」
「ああ」
「倒れない?」
「倒れねえよ」
「本当?」
「本当だ」
銀秋は苦笑した。
「心配しすぎだろ」
「心配した」
「……そうかよ」
銀秋は少しだけ目を逸らした。
それから表へ出た。
朝から何人か客が来た。
以前ほど多くはない。
質に入れる物も、品を買う銭もない者が増えていた。
一人の男が帳場の前へ座る。
文書を差し出そうとして、急に顔を背けた。
「ごほっ」
何度か咳き込む。
「悪い」
「大丈夫か」
「ああ」
男は胸を押さえた。
「ちょっと風邪ひいただけだ」
「顔色悪いぞ」
「飯食ってねえからだろ」
男は笑った。
笑った途端、また咳き込んだ。
銀秋は眉を寄せる。
男が帰ったあとも、別の客が鼻をすすっていた。
その次に来た女も、ひどく咳をしていた。
昼前には、店の外を歩く人の中からも咳が聞こえてきた。
キミコが戸口を見る。
「みんな咳してる」
「ああ」
「病気?」
「かもしれねえな」
「何で?」
「飯食えてねえ奴が増えてんだ。身体も弱るだろ」
「治らない?」
「治る奴もいる」
「死ぬ?」
銀秋は少し黙った。
「死ぬ奴もいるだろうな」
「そう」
キミコは通りを見る。
また誰かの咳が聞こえた。
昼になった。
銀秋は帳簿を閉じた。
「そうだ。食い物、少し分けるか」
「誰に?」
「餅屋」
「おばちゃん?」
「ああ」
「米ないって言ってた」
「そう」
キミコは頷いた。
「分かった」
キミコが何もない空間へ爪を立てる。
「おい、待て」
銀秋が慌てて声を上げた。
キミコが手を止める。
「何?」
「ここでやるな」
「何で?」
「表だぞ。誰に見られるか分かんねえだろ」
銀秋は店の奥を指した。
「分かった」
キミコは手を下ろした。
二人で店の奥へ入る。
キミコがもう一度、何もない空間へ爪を立てた。
横へ引く。
空間が裂け、その向こうに真っ白な空間が現れた。
キミコはそこから鹿肉と芋、山菜を取り出した。
銀秋がそれを包む。
「こんだけありゃ、しばらく食えるだろ」
「もっとあげる?」
「いや。こっちもまだ分からねえからな」
「うん」
二人で店を出た。
通りを歩く。
以前より、人の数が増えていた。
ただし、見慣れた顔ばかりではない。
着物は汚れ、荷を背負い、子供を連れて歩く者もいる。
どこから来たのか分からない人間が、京へ入ってきていた。
道端に座り込んでいる者も多い。
壁にもたれ、目を閉じている者。
地面に横たわっている者。
布をかけられたまま、動かない者。
銀秋は前を向いて歩いた。
キミコも隣を歩く。
少し先に、一人の男が倒れていた。
見覚えのない男だった。
着ているものは土で汚れ、足元には小さな荷が転がっている。
仰向けになったまま、動かない。
通り過ぎる者は、ほとんど見向きもしなかった。
キミコが男を見る。
「死んでる?」
「……たぶんな」
「見ない顔」
「そうだな」
キミコはもう一度、倒れた男を見る。
銀秋は足を止めなかった。
さらに歩く。
少しして、キミコがまた足を止めた。
「銀秋」
「ん?」
「あれ」
キミコが指差す。
銀秋もそちらを見る。
一人の男が、道端にしゃがみ込んでいた。
その前には、人が倒れている。
どちらも、近所では見たことのない顔だった。
しゃがんでいる男の着物はひどく汚れ、頬は落ちくぼんでいる。
手には、小さな刃物があった。
刃を動かす。
倒れた人間の身体から、何かを切り取る。
それを口へ運んだ。
銀秋の顔が強張った。
すぐにキミコの手を引く。
「……見るな」
キミコが銀秋を見る。
「何で?」
「いいから」
銀秋はキミコを促した。
二人で歩き出す。
キミコは一度だけ振り返った。
男はまだ食べていた。
「人間も人間食べるんだ」
銀秋の足が一瞬止まりかけた。
「……今は言うな」
「何で?」
「頼むから」
「分かった」
キミコはそれ以上言わなかった。
銀秋も振り返らなかった。
餅屋の前まで来た。
銀秋が足を止める。
戸が閉まっている。
「……休みか?」
銀秋が戸を叩く。
「おい」
返事がない。
「いるか?」
もう一度叩く。
やはり返事はなかった。
キミコが戸を見る。
「いない?」
「分からねえ」
銀秋は少し待った。
「おい」
返事はない。
キミコが戸へ手をかけた。
戸が開く。
「開いてる」
「勝手に入るな」
キミコはもう中へ入っていた。
「おい、キミコ」
銀秋も仕方なくあとを追った。
店の中は暗かった。
餅を並べていた場所には、何もない。
奥から、小さく咳き込む音が聞こえた。
「いる?」
キミコが奥へ向かう。
「待てって」
銀秋も続く。
奥の部屋へ入る。
女が横になっていた。
「……おい」
銀秋が近づく。
顔色が悪い。
頬は痩せている。
額には汗が浮かんでいた。
「おい」
銀秋が肩へ触れる。
女が薄く目を開ける。
「……銀秋かい」
「ああ」
「何しに来たんだい」
「飯持ってきた」
「そうかい」
声に力がない。
すぐに目を閉じる。
咳が出た。
身体を丸め、何度も咳き込む。
銀秋が眉を寄せる。
「いつからだ」
「何が」
「咳だよ」
「少し前からさ」
「少しじゃ分かんねえよ」
「うるさいねえ」
いつもの言い方だった。
だが、声が弱い。
キミコが女の顔を覗き込んだ。
「弱くなった?」
「誰が弱いって?」
「弱い」
「失礼な子だね」
そう言って、また咳き込む。
キミコは女を見る。
少し考えた。
「治れ」
銀秋が顔を上げる。
女も目を開けた。
一瞬、何も起きなかった。
次の瞬間、女の呼吸が変わった。
浅かった息が深くなる。
額の汗が引いていく。
青白かった顔に色が戻った。
女が瞬きをする。
「……何だい」
身体を起こした。
銀秋が固まる。
女自身も自分を見る。
「……何だい、これ」
胸へ手を当てる。
咳が出ない。
呼吸も苦しくない。
腕を動かす。
「身体が軽い」
キミコが言う。
「治った」
女がキミコを見る。
「今、何した」
「治れって言った」
「……」
女が銀秋を見る。
銀秋は額を押さえた。
「キミコ」
「何?」
「人前でやるなって言っただろ」
「でも、この人弱くなってた」
「そうだけどよ」
「死ぬかもしれない」
銀秋は黙る。
女が二人を交互に見る。
「ちょっと待ちな」
銀秋を見る。
「何だい、この子」
「……」
「今の、何だい」
銀秋はしばらく答えなかった。
女は黙って待っている。
やがて銀秋が息を吐いた。
「誰にも言うなよ」
「何を」
「今起きたことだ」
女がキミコを見る。
キミコは何も言わない。
「……この子がやったのかい」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
女はまた自分の身体を見る。
立ち上がる。
少しふらついたが、すぐに姿勢を戻した。
「治っちまった」
「だから言った」
「そういう話じゃないよ」
キミコが首を傾げる。
銀秋が言う。
「こいつ、そういうことができる」
「そういうことって」
「色々だよ」
「雑だねえ」
「全部説明すると長えんだよ」
女はキミコを見る。
「病気を治すだけじゃないのかい」
「うん」
「他に何ができる」
キミコが答えようとする。
銀秋が先に言った。
「言うな」
「何で?」
「お前は何でも喋るからだよ」
「聞かれたから」
「だからって全部答えるな」
女が銀秋を見る。
「そんなにまずいのかい」
「ああ」
銀秋は真剣だった。
「知られたら、こいつを使おうとする奴が出る」
女は少し黙る。
「……そうだろうね」
「だから今のは、ここだけだ」
「分かったよ」
「本当に頼むぞ」
「誰に言うってんだい」
女は息を吐く。
それから、ふと思い出したように言った。
「飯持ってきたって言ったね」
「ああ」
銀秋が包みを見せる。
「鹿と、芋と、山菜」
「どこでそんなもんを」
銀秋がキミコを見る。
女も見る。
「……まさか」
「キミコが取ってきた」
「山から?」
「うん」
「今、山にそんなに残ってるのかい」
「なかった」
「じゃあ何で」
キミコが答える。
「実れって言った」
銀秋が目を閉じた。
「言うなって今言っただろ」
「聞かれた」
「お前なあ」
女は黙った。
しばらく、何も言わなかった。
それから店の外の方を見る。
「……実らせられるのかい」
「うん」
「米も?」
「できる」
「野菜も?」
「たぶん」
銀秋が女を見る。
「何考えてる」
女はすぐには答えなかった。
やがて、口を開く。
「この辺だけでも、食わせられないかね」
銀秋の顔が険しくなる。
「駄目だ」
「まだ言ってないだろ」
「何言いだすかくらい分かる」
銀秋が息を吐く。
「こいつの力を使って、飯を配ろうってんだろ」
「そうだよ」
「駄目だ」
「何で」
「見つかる」
「見つからないようにやりゃいい」
「そんな簡単じゃねえよ」
「でも、このままじゃ死ぬよ」
銀秋が黙る。
女は続ける。
「どこを見ても痩せた顔ばっかりだ」
「……ああ」
「流れてきた連中も、この辺で倒れてる」
「ああ」
「このままじゃ、近所の連中だって同じになるよ」
銀秋は何も言わない。
「咳してる奴も増えてる」
「……」
「今日、あたしだって死んでたかもしれない」
銀秋は黙ったままだった。
「全部助けろとは言わないよ」
女は少し声を落とした。
「この辺だけでもいい」
「……」
「顔を知ってる奴らくらい、食わせられないかね」
キミコが銀秋を見る。
「できるよ」
「分かってる」
「できる」
「分かってるよ」
銀秋は額を押さえた。
しばらく考える。
「大々的にはやらねえ」
「そうだね」
「人を集めすぎるのも駄目だ」
「ああ」
「食い物の出どころは絶対言うな」
「言わないよ」
「いきなり山ほど出すのも駄目だ」
「何で?」
キミコが聞く。
「怪しまれるからだよ」
「いっぱいあった方がいい」
「それでお前が目ぇつけられたら意味ねえだろ」
「捕まらない」
「そういう話じゃねえ」
女が笑った。
「相変わらず大変だねえ、あんた」
「誰のせいだと思ってんだ」
「キミコだろ」
キミコが二人を見る。
「私のせい?」
「…………いや。違う」
銀秋は長く息を吐いた。
「……少しだけだ」
「うん」
「近所だけ」
「うん」
「毎日山ほど出したりすんな」
「分かった」
「本当に分かってんだろうな」
「うん」
女が笑う。
「じゃあ決まりだね」
翌日。
餅屋の前に、大きな鍋が置かれた。
中には、芋と山菜。
少しの鹿肉。
餅屋に残っていたわずかな米も入っている。
見た目は立派なものではない。
味も薄い。
けれど、温かかった。
鍋の中から湯気が上がっている。
銀秋は店の前に立っていた。
「並べ」
声を張る。
「押すな。まだある」
声をかけて集めたのは、近所の顔見知りだけだった。
最初に来たのは、近所の老人だった。
「本当にいいのか」
「ああ」
「銭は」
「いらねえ」
「でも」
「いいから持ってけ」
銀秋が器へよそう。
老人は何度も頭を下げた。
次に、痩せた女が来た。
子供を連れている。
銀秋は二人分をよそう。
「子供の分、少し多くして」
キミコが言う。
「分かってるよ」
銀秋が少し多めに入れる。
子供が器を両手で持った。
湯気を見ている。
「熱いから気をつけろよ」
銀秋が言う。
子供は頷いた。
女が何度も礼を言った。
少し離れたところでは、餅屋の女が人を並ばせている。
「一列だよ。一列」
「横入りすんじゃないよ」
「まだあるから慌てるんじゃない」
昨日まで寝込んでいたとは思えない声だった。
キミコは鍋のそばに立っている。
減っていく中身を見る。
「少なくなった」
「まだ出すなよ」
銀秋が小声で言う。
「でもなくなる」
「なくなったら今日は終わりだ」
「もっと作れる」
「分かってる」
「じゃあ作る」
「駄目」
「何で?」
「いくらでも出てきたらおかしいだろ」
キミコは少し考える。
「おかしい?」
「おかしい」
「そう」
納得しているのか分からない返事だった。
それでも、追加では出さなかった。
やがて鍋の底が見えた。
最後に来た男へ、残ったものをよそう。
「これで終わりだ」
銀秋が言った。
「またあるか」
男が聞く。
銀秋は少し迷う。
「……できる時はな」
「そうか」
男は器を抱えた。
「助かる」
それだけ言って、離れていった。
人がいなくなる。
空になった鍋が残った。
銀秋はそれを見る。
餅屋の女が隣へ来る。
「思ったより来たね」
「ああ」
「明日もやるかい」
「毎日は無理だ」
「そうかい」
「でも」
銀秋は通りを見る。
器を抱えた人たちが、それぞれの家へ帰っていく。
子供が母親の隣で、器を大事そうに抱えて歩いている。
「……また少しならな」
女が笑った。
「そうかい」
キミコが銀秋を見る。
「また作る?」
「ああ」
「煮えろって言う?」
「それ以外に作り方知らねえだろ、お前」
「うん」
「少しは覚えろよ」
「塩入れる」
「そこだけ覚えてんじゃねえよ」
餅屋の女が声を上げて笑った。
銀秋も少し笑う。
キミコは二人を見る。
それから、空になった鍋を見た。
「全部なくなった」
「ああ」
「みんな食べた」
「ああ」
銀秋が答える。
キミコは少しだけ目を細めた。
「よかった」
通りの向こうで、また咳が聞こえた。
それでも、その日の夕方、この辺りでは、久しぶりに温かい飯を食べた者が何人もいた。




