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スダマの鬼  作者: 肉
42/52

交渉

 山へ入る頃には、日が高くなっていた。

 キミコは一人で歩いていた。

 銀秋の店を出てから、ほとんど休んでいない。

 山道を進む。

 以前来た時とは、少し様子が違っていた。

 人の踏み跡が増えている。

 道の脇に生えている草も少ない。

 木の下を見ても、落ちている実はほとんどなかった。

 キミコは足を止めた。

 辺りを見る。

 少し離れたところに栗の木があった。

 近づく。

 枝には、ほとんど何もついていない。

 キミコは木を見上げた。


「実れ」


 枝が揺れた。

 葉の間から、小さな毬が現れる。

 それは見る間に膨らんだ。

 一つ。

 二つ。

 次々と増えていく。

 やがて枝いっぱいに栗が実った。

 キミコは少し考えた。

 それから、幹を蹴った。

 どん、と鈍い音がする。

 枝が大きく揺れた。

 栗がいくつも落ちてくる。

 キミコはしゃがみ込み、拾った。

 さらに山の奥へ進む。

 今度は胡桃の木を見つけた。


「実れ」


 枝に実が増える。

 キミコはまた幹を蹴った。

 葉と一緒に、胡桃がばらばらと落ちてくる。

 それも拾った。

 さらに歩く。

 山菜を見つけた。

 地面の下に芋があるものも見つけた。

 キミコはそのたびに、

「実れ」と言った。

 痩せていた葉が伸びる。

 土の中で芋が膨らむ。

 生えたものは抜いた。

 土も掘った。

 木に実がつけば、幹を蹴って落とした。

 栗。

 胡桃。

 芋。

 山菜。

 キミコは次々と集めていった。

 やがて、両腕では持ちきれなくなった。

 キミコは抱えた食べ物を見る。

 少し考える。

 それから、何もない空間へ爪を立てた。

 横へ引く。

 空間が裂けた。

 細い裂け目の向こうに、真っ白な空間が覗く。

 キミコは栗を放り込んだ。

 胡桃も入れる。

 芋も山菜も、その中へ入れていく。

 いくら入れても、白い空間が埋まる様子はない。

 全部入れ終えると、指の腹で裂け目をなぞり、閉じた。

 何もなかったように空間が元へ戻る。

「もっと」

 キミコはまた山の奥へ歩き出した。

「おい」

 後ろから声がした。

 キミコが振り返る。

 一人の老婆が立っていた。

 白髪を後ろで束ねている。

 年寄りには違いないが、腰は曲がっていない。

 背筋をまっすぐ伸ばし、しっかりした足取りでこちらへ歩いてくる。

「たぬき」

「今はそう呼ぶな」

 古狸だった。

 近頃は山へ入ってくる人間が増えたせいか、今日は人の姿をしている。

 古狸は地面に散った葉や小枝を見る。

 それから、キミコが今しがた蹴った木を見る。

「山を禿げさせるなよ」

 キミコも周囲を見る。

「もう禿げかけてる」

「何?」

「人が取ってる」

 古狸が辺りを見る。

 少し離れたところでは、木の根元が掘り返されていた。

 枝も折られている。

 食べられる草も、ほとんど残っていない。

 古狸はしばらく黙った。

「……そうだな」

「うん」

「だからって木を蹴るな」

「落ちるから」

「加減しろ」

「うん」

「それで、何に使う」

「銀秋が食べる」

「あの人間か」

「弱くなった」

 古狸の顔から少しだけ険が抜けた。

「……飯がないのか」

「うん」

「そうか」

 キミコはまた歩き出そうとした。

「待て」

 古狸が呼び止める。

 キミコが振り返る。

「鹿は取るか」

「いたら取る」

「取ってもいいが、取りすぎるな」

「一頭ならいい?」

「いい」

「分かった」

「毎日取るなよ」

「うん」

「山からいなくなったら困るからな」

「分かった」

「あと、狸は取るな。身内だ」

「分かった」

 古狸はキミコを見る。

「本当に分かったか?」

「うん」

「ならいい」

 古狸はそれだけ言うと、しゃんと背筋を伸ばしたまま山道を歩いていった。

 キミコも山の奥へ進んだ。




 しばらく歩くと、木々の向こうに動くものが見えた。

 鹿だった。

 一頭。

 少し痩せていた。

 草の少ない地面を歩いている。

 キミコは足を止めた。

 鹿が顔を上げる。

 目が合った。

 キミコは一度、瞬きをした。

 鹿の身体が揺れた。

 脚から力が抜ける。

 そのまま地面へ倒れた。

 キミコは近づいた。

 しゃがみ込み、鹿を見る。

 息はしている。

「寝た」

 キミコは鹿を持ち上げた。

 肩へ担ぐ。

 白い着物の裾には、山道を歩いた泥がついていた。

 袖にも土がついている。

 キミコは気にせず、山を下りた。




 麓近くまで来ると、一軒の家が見えた。

 外には男がいた。

 そばには猟に使う道具が置かれている。

 キミコはそちらへ歩いていった。

 男がキミコを見る。

 次に、肩へ担がれた鹿を見る。

 傷はなく、目を閉じている。

「……何だ、それ」

「鹿」

「そりゃ見りゃ分かる」

 キミコは男の前まで行き、鹿を地面へ下ろした。

「これ、切って」

「は?」

「血も抜いて」

 男はキミコを見る。

「何で俺が」

 キミコは少し考えた。

 銀秋ならどうするか考える。

 何かをしてもらう時には、代わりに何かを渡していた。

 キミコは鹿を指した。

「三分の一あげる」

 男の眉が上がる。

「俺に?」

「うん」

「血抜いて、捌けばいいのか」

「うん」

 男は鹿を見る。

「……三分の一もらえるなら、やる」

「じゃあお願い」

 男は鹿のそばへしゃがんだ。

「どうやって捕ったんだ」

「寝かせた」

「寝かせたって……」

 男はキミコを見る。

 キミコも見る。

「……まあいい」

 男はそれ以上聞かなかった。

 キミコは近くに座った。

 男が鹿を処理するところを、じっと見ている。

「見るのか?」

「うん」

「気分悪くなっても知らねえぞ」

「ならない」

 男は作業を続けた。




 しばらくして、肉が分けられた。

 男は自分の取り分を脇へ置いた。

 残りは籠へ詰めていく。

「これでいいだろ」

 キミコは籠を見る。

「うん」

「重いぞ」

「平気」

 キミコは籠を片手に下げた。

「ありがとう」

「ああ」

 男は短く答えた。

 キミコはそのまま歩き出した。




 山を離れ、京へ戻る。

 片手には鹿肉の入った籠。

 白い着物は泥だらけだった。

 栗や胡桃、芋や山菜は、白い空間の中に入れてある。

 しばらく歩く。

 道端に、人が横たわっていた。

 キミコはそちらを見る。

 痩せた男だった。

 目を閉じたまま、動かない。

 少し離れたところにも、一人いた。

 壁にもたれるように座っている。

 頭が下がったまま、動かなかった。

 キミコは足を止めなかった。

 そのまま歩く。

 さらに先へ進むと、道端に座っていた男がキミコを見た。

 ひどく痩せていた。

 男の視線が、キミコの持っている籠へ向く。

「なあ」

 キミコは歩き続ける。

「なあ、少しくれよ」

 男はふらつきながら立ち上がった。

 キミコの後ろをついてくる。

「肉だろ、それ」

「うん」

「少しでいい」

 キミコは答えない。

「頼むよ。何日もまともに食ってねえんだ」

 男が前へ回り込んだ。

 キミコが止まる。

「邪魔」

「少しだけでいいから」


「退け」


 低い声だった。

 男の身体が勝手に横へ動いた。

 道を空ける。

 男は驚いた顔で自分の身体を見る。

 キミコはその横を通り過ぎた。

 振り返らず、銀秋の店へ向かった。




 店へ戻った頃には、日が傾き始めていた。

 キミコは戸を開ける。

「ただいま」

 返事は少し遅れて返ってきた。

「……おう」

 銀秋は座敷に横になっていた。

 キミコが入ってくる。

 銀秋はその姿を見て眉を寄せた。

「何だ、お前。泥だらけじゃねえか」

 キミコは自分を見る。

 手も、白い着物の裾も袖も、土と泥で汚れている。

「山歩いたから」

「にしたって……」

 銀秋の視線が籠へ移る。

「それは?」

「鹿」

「……鹿?」

「取った」

「お前が?」

「うん」

 キミコは籠を置く。

「猟師に切ってもらった」

「頼んだのか」

 銀秋が意外そうに言う。

「三分の一あげるから、血抜いて切ってって」

 銀秋が少し黙る。

「……ちゃんと交渉してきたのか」

「うん」

「そうか」

 銀秋は少しだけ笑った。

「偉いじゃねえか」

「銀秋がやってるの見てたから」

「俺?」

「何かしてもらったら、払う」

「ああ」

 銀秋は目を細めた。

「覚えてたんだな」

「うん」

 キミコは籠のそばへしゃがんだ。

 それから何もない空間へ爪を立てる。

 横へ引いた。

 空間が裂ける。

 白い空間が現れた。

 銀秋が目を見開く。

「……何だそれ」

「入れるところ」

「何だ、入れるところって」

 キミコは裂け目を少し広げた。

 白い空間の中には、栗や胡桃、芋、山菜が入っている。

 土のついたものも、そのままだった。

 銀秋が中を覗く。

「……お前、どんだけ取ってきたんだよ」

「いっぱい」

「山一つ食い尽くしてねえだろうな」

「してない」

「本当か?」

「たぬきにも言われた」

「何を」

「山を禿げさせるなって」

「言われてんじゃねえか」

「もう禿げかけてるって言った」

「言い返すなよ」

「本当のこと言った」

 銀秋は額を押さえた。

「鹿も何頭も取ってねえだろうな」

「一頭」

「ならいい」

「たぬきにも、取りすぎるなって言われた」

「そこはちゃんと聞いたんだな」

「うん」

 キミコは少し考える。

「帰る時、人がいた」

「人?」

「食べ物くれって言われた」

 銀秋がキミコを見る。

「それで?」

「邪魔だったから、退けって言った」

「……いつもの、あれで?」

「うん」

 銀秋は黙った。

「どんな奴だった」

「痩せてた」

「一人?」

「うん」

「食ってなさそうだった?」

「何日も食べてないって言ってた」

 銀秋はしばらく何も言わなかった。

 キミコは続ける。

「その前にも、人いた」

「また?」

「うん」

「何してた」

「何もしてない。道に寝てた」

 銀秋の顔から表情が消えた。

「寝てた?」

「うん。動かなかった」

「……一人か」

「二人」

 銀秋は黙った。

 キミコが銀秋を見る。

「寝てたんじゃない?」

「たぶんな」

「死んでた?」

「……たぶんな」

「そう」

 キミコはそれ以上聞かなかった。

 銀秋はもう一度、白い空間の中を見る。

 しばらくして、息を吐く。

「次からは、少しくらいやれ」

 キミコが首を傾げる。

「何で?」

「これだけあるだろ」

「銀秋の」

「俺一人で全部食えるかよ」

「食べて」

「腐るわ」

「この中に入れておけば腐らない」

 キミコは白い空間を指す。

「……それはすげえな」

 銀秋が呆れたように言う。

「全部やれとは言わねえよ」

「うん」

「でも、明らかに飢えてる奴がいたら、少しくらい分けてやれ」

「銀秋が食べる分がなくなる」

「なくならねえ程度でいい」

 キミコは少し考えた。

「分かった」

「じゃあ次は『退け』の前にちょっと考えろ」

「邪魔だったら?」

「……それでもだ」

「分かった」

 銀秋は息を吐いた。

 キミコは指の腹で裂け目をなぞり、白い空間を閉じた。

 少しして、銀秋はまた横になった。

 キミコは鹿肉の入った籠を見る。

 それから店の奥へ入った。

 もう一度、何もない空間へ爪を立てる。

 裂け目を開き、中から芋と山菜を取り出した。

 どちらにも土がついている。

 キミコは水で洗った。

 それから辺りを見る。

 鍋がどこにあるのか分からなかった。

 棚を開ける。

 ない。

 別のところも見る。

 器や使っていない道具が入っている。

 キミコはその奥へ手を入れた。

 いくつか動かす。

 ようやく、一つの鍋を見つけた。

 取り出す。

 しばらく使われていなかったのか、埃がついていた。

 キミコはそれを洗った。

 芋や鹿の肉は、食べられそうな大きさに切って鍋に入れた。

 山菜も入れる。

 水を入れる。

 鍋を見る。

 塩を取った。

 量は測らず、適当に入れた。

 少し考える。


「煮えろ」


 鍋の中の水が音を立てた。

 すぐに湯気が上がる。

 芋や山菜が煮えていく。

 キミコはじっと見ていた。

 しばらくして、また少し考える。

 芋を一つ取った。

 口へ入れる。

「食べられる」

 器によそう。

 湯気が立っている。

 キミコはそれを持って座敷へ戻った。

 銀秋は眠っていた。

「銀秋」

 返事がない。

「銀秋」

「……ん」

 銀秋が目を開ける。

 キミコは器を差し出した。

「食べて」

 銀秋が器を見る。

「……何だこれ」

「芋と、山菜と、いろいろ」

「……鹿も入ってるか」

「うん」

 銀秋はゆっくり身体を起こした。

 器を受け取る。

 中を見る。

「お前が作ったのか」

「うん。でも火は使ってない」

「ならどうやって」

「煮えろって言った」

「……」

 銀秋がキミコを見る。

「便利すぎんだろ、お前」

「うん」

「自分で言うなよ」

 キミコは銀秋の隣に座った。

「食べて」

 銀秋は匙を取った。

 一口食べる。

 少し止まる。

 キミコが見る。

「食べられない?」

「いや」

 銀秋はもう一口食べた。

「食える」

「よかった」

「塩、適当に入れただろ」

「うん」

「分かるよ」

「多い?」

「ちょっとな」

「でも食べられる」

「ああ」

 銀秋は少し笑った。

「食えるよ」

 キミコはそのまま、銀秋が食べるところを見ていた。




 それから数日。

 キミコは山から持ち帰ったものを使って、何度も食事を作った。

 芋。

 山菜。

 栗。

 鹿の肉。

 それらを鍋に入れる。

 水を入れる。

 塩を入れる。

「煮えろ」と言う。

 それだけだった。

 胡桃は、そのまま食べることもあった。

 切り方も雑だった。

 味も日によって濃かったり薄かったりした。

 それでも食べられた。

 銀秋は少しずつ食べた。

 最初は、半分も食べられなかった。

 それでも翌日には少し増えた。

 その次の日には、もう少し。

 顔色も少しずつよくなった。

 立ち上がっても、柱へ手をつかなくなった。

 数日後には、帳場へ座って店を開けられるようになった。

 キミコはその隣にいた。

「銀秋」

「ん?」

「治った」

「まだ完全じゃねえよ」

「でも立ってる」

「立つくらいできる」

「倒れない?」

「倒れねえよ」

 キミコは銀秋を見る。

「よかった」

 銀秋は少し黙った。

「ありがとな」

 小さく答えた。




 その夜。

 店を閉め、飯を食べた。

 二人で座敷へ入る。

 いつものように寝具へ横になる。

 キミコは銀秋の隣にいた。

 銀秋がキミコを見る。

「キミコ」

「何?」

 銀秋は少し迷ったあと、手を伸ばした。

 キミコの頬に触れる。

 久しぶりだった。

 キミコは逃げない。

 銀秋が顔を寄せる。

 唇が重なる。

 一度離れる。

 もう一度重なる。

 今度は、少し長かった。

 キミコが銀秋を見る。

「元気になった?」

「……まあな」

「よかった」

 銀秋は笑った。

 そのままキミコを抱き寄せた。

 夜は静かに更けていった。

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