交渉
山へ入る頃には、日が高くなっていた。
キミコは一人で歩いていた。
銀秋の店を出てから、ほとんど休んでいない。
山道を進む。
以前来た時とは、少し様子が違っていた。
人の踏み跡が増えている。
道の脇に生えている草も少ない。
木の下を見ても、落ちている実はほとんどなかった。
キミコは足を止めた。
辺りを見る。
少し離れたところに栗の木があった。
近づく。
枝には、ほとんど何もついていない。
キミコは木を見上げた。
「実れ」
枝が揺れた。
葉の間から、小さな毬が現れる。
それは見る間に膨らんだ。
一つ。
二つ。
次々と増えていく。
やがて枝いっぱいに栗が実った。
キミコは少し考えた。
それから、幹を蹴った。
どん、と鈍い音がする。
枝が大きく揺れた。
栗がいくつも落ちてくる。
キミコはしゃがみ込み、拾った。
さらに山の奥へ進む。
今度は胡桃の木を見つけた。
「実れ」
枝に実が増える。
キミコはまた幹を蹴った。
葉と一緒に、胡桃がばらばらと落ちてくる。
それも拾った。
さらに歩く。
山菜を見つけた。
地面の下に芋があるものも見つけた。
キミコはそのたびに、
「実れ」と言った。
痩せていた葉が伸びる。
土の中で芋が膨らむ。
生えたものは抜いた。
土も掘った。
木に実がつけば、幹を蹴って落とした。
栗。
胡桃。
芋。
山菜。
キミコは次々と集めていった。
やがて、両腕では持ちきれなくなった。
キミコは抱えた食べ物を見る。
少し考える。
それから、何もない空間へ爪を立てた。
横へ引く。
空間が裂けた。
細い裂け目の向こうに、真っ白な空間が覗く。
キミコは栗を放り込んだ。
胡桃も入れる。
芋も山菜も、その中へ入れていく。
いくら入れても、白い空間が埋まる様子はない。
全部入れ終えると、指の腹で裂け目をなぞり、閉じた。
何もなかったように空間が元へ戻る。
「もっと」
キミコはまた山の奥へ歩き出した。
「おい」
後ろから声がした。
キミコが振り返る。
一人の老婆が立っていた。
白髪を後ろで束ねている。
年寄りには違いないが、腰は曲がっていない。
背筋をまっすぐ伸ばし、しっかりした足取りでこちらへ歩いてくる。
「たぬき」
「今はそう呼ぶな」
古狸だった。
近頃は山へ入ってくる人間が増えたせいか、今日は人の姿をしている。
古狸は地面に散った葉や小枝を見る。
それから、キミコが今しがた蹴った木を見る。
「山を禿げさせるなよ」
キミコも周囲を見る。
「もう禿げかけてる」
「何?」
「人が取ってる」
古狸が辺りを見る。
少し離れたところでは、木の根元が掘り返されていた。
枝も折られている。
食べられる草も、ほとんど残っていない。
古狸はしばらく黙った。
「……そうだな」
「うん」
「だからって木を蹴るな」
「落ちるから」
「加減しろ」
「うん」
「それで、何に使う」
「銀秋が食べる」
「あの人間か」
「弱くなった」
古狸の顔から少しだけ険が抜けた。
「……飯がないのか」
「うん」
「そうか」
キミコはまた歩き出そうとした。
「待て」
古狸が呼び止める。
キミコが振り返る。
「鹿は取るか」
「いたら取る」
「取ってもいいが、取りすぎるな」
「一頭ならいい?」
「いい」
「分かった」
「毎日取るなよ」
「うん」
「山からいなくなったら困るからな」
「分かった」
「あと、狸は取るな。身内だ」
「分かった」
古狸はキミコを見る。
「本当に分かったか?」
「うん」
「ならいい」
古狸はそれだけ言うと、しゃんと背筋を伸ばしたまま山道を歩いていった。
キミコも山の奥へ進んだ。
しばらく歩くと、木々の向こうに動くものが見えた。
鹿だった。
一頭。
少し痩せていた。
草の少ない地面を歩いている。
キミコは足を止めた。
鹿が顔を上げる。
目が合った。
キミコは一度、瞬きをした。
鹿の身体が揺れた。
脚から力が抜ける。
そのまま地面へ倒れた。
キミコは近づいた。
しゃがみ込み、鹿を見る。
息はしている。
「寝た」
キミコは鹿を持ち上げた。
肩へ担ぐ。
白い着物の裾には、山道を歩いた泥がついていた。
袖にも土がついている。
キミコは気にせず、山を下りた。
麓近くまで来ると、一軒の家が見えた。
外には男がいた。
そばには猟に使う道具が置かれている。
キミコはそちらへ歩いていった。
男がキミコを見る。
次に、肩へ担がれた鹿を見る。
傷はなく、目を閉じている。
「……何だ、それ」
「鹿」
「そりゃ見りゃ分かる」
キミコは男の前まで行き、鹿を地面へ下ろした。
「これ、切って」
「は?」
「血も抜いて」
男はキミコを見る。
「何で俺が」
キミコは少し考えた。
銀秋ならどうするか考える。
何かをしてもらう時には、代わりに何かを渡していた。
キミコは鹿を指した。
「三分の一あげる」
男の眉が上がる。
「俺に?」
「うん」
「血抜いて、捌けばいいのか」
「うん」
男は鹿を見る。
「……三分の一もらえるなら、やる」
「じゃあお願い」
男は鹿のそばへしゃがんだ。
「どうやって捕ったんだ」
「寝かせた」
「寝かせたって……」
男はキミコを見る。
キミコも見る。
「……まあいい」
男はそれ以上聞かなかった。
キミコは近くに座った。
男が鹿を処理するところを、じっと見ている。
「見るのか?」
「うん」
「気分悪くなっても知らねえぞ」
「ならない」
男は作業を続けた。
しばらくして、肉が分けられた。
男は自分の取り分を脇へ置いた。
残りは籠へ詰めていく。
「これでいいだろ」
キミコは籠を見る。
「うん」
「重いぞ」
「平気」
キミコは籠を片手に下げた。
「ありがとう」
「ああ」
男は短く答えた。
キミコはそのまま歩き出した。
山を離れ、京へ戻る。
片手には鹿肉の入った籠。
白い着物は泥だらけだった。
栗や胡桃、芋や山菜は、白い空間の中に入れてある。
しばらく歩く。
道端に、人が横たわっていた。
キミコはそちらを見る。
痩せた男だった。
目を閉じたまま、動かない。
少し離れたところにも、一人いた。
壁にもたれるように座っている。
頭が下がったまま、動かなかった。
キミコは足を止めなかった。
そのまま歩く。
さらに先へ進むと、道端に座っていた男がキミコを見た。
ひどく痩せていた。
男の視線が、キミコの持っている籠へ向く。
「なあ」
キミコは歩き続ける。
「なあ、少しくれよ」
男はふらつきながら立ち上がった。
キミコの後ろをついてくる。
「肉だろ、それ」
「うん」
「少しでいい」
キミコは答えない。
「頼むよ。何日もまともに食ってねえんだ」
男が前へ回り込んだ。
キミコが止まる。
「邪魔」
「少しだけでいいから」
「退け」
低い声だった。
男の身体が勝手に横へ動いた。
道を空ける。
男は驚いた顔で自分の身体を見る。
キミコはその横を通り過ぎた。
振り返らず、銀秋の店へ向かった。
店へ戻った頃には、日が傾き始めていた。
キミコは戸を開ける。
「ただいま」
返事は少し遅れて返ってきた。
「……おう」
銀秋は座敷に横になっていた。
キミコが入ってくる。
銀秋はその姿を見て眉を寄せた。
「何だ、お前。泥だらけじゃねえか」
キミコは自分を見る。
手も、白い着物の裾も袖も、土と泥で汚れている。
「山歩いたから」
「にしたって……」
銀秋の視線が籠へ移る。
「それは?」
「鹿」
「……鹿?」
「取った」
「お前が?」
「うん」
キミコは籠を置く。
「猟師に切ってもらった」
「頼んだのか」
銀秋が意外そうに言う。
「三分の一あげるから、血抜いて切ってって」
銀秋が少し黙る。
「……ちゃんと交渉してきたのか」
「うん」
「そうか」
銀秋は少しだけ笑った。
「偉いじゃねえか」
「銀秋がやってるの見てたから」
「俺?」
「何かしてもらったら、払う」
「ああ」
銀秋は目を細めた。
「覚えてたんだな」
「うん」
キミコは籠のそばへしゃがんだ。
それから何もない空間へ爪を立てる。
横へ引いた。
空間が裂ける。
白い空間が現れた。
銀秋が目を見開く。
「……何だそれ」
「入れるところ」
「何だ、入れるところって」
キミコは裂け目を少し広げた。
白い空間の中には、栗や胡桃、芋、山菜が入っている。
土のついたものも、そのままだった。
銀秋が中を覗く。
「……お前、どんだけ取ってきたんだよ」
「いっぱい」
「山一つ食い尽くしてねえだろうな」
「してない」
「本当か?」
「たぬきにも言われた」
「何を」
「山を禿げさせるなって」
「言われてんじゃねえか」
「もう禿げかけてるって言った」
「言い返すなよ」
「本当のこと言った」
銀秋は額を押さえた。
「鹿も何頭も取ってねえだろうな」
「一頭」
「ならいい」
「たぬきにも、取りすぎるなって言われた」
「そこはちゃんと聞いたんだな」
「うん」
キミコは少し考える。
「帰る時、人がいた」
「人?」
「食べ物くれって言われた」
銀秋がキミコを見る。
「それで?」
「邪魔だったから、退けって言った」
「……いつもの、あれで?」
「うん」
銀秋は黙った。
「どんな奴だった」
「痩せてた」
「一人?」
「うん」
「食ってなさそうだった?」
「何日も食べてないって言ってた」
銀秋はしばらく何も言わなかった。
キミコは続ける。
「その前にも、人いた」
「また?」
「うん」
「何してた」
「何もしてない。道に寝てた」
銀秋の顔から表情が消えた。
「寝てた?」
「うん。動かなかった」
「……一人か」
「二人」
銀秋は黙った。
キミコが銀秋を見る。
「寝てたんじゃない?」
「たぶんな」
「死んでた?」
「……たぶんな」
「そう」
キミコはそれ以上聞かなかった。
銀秋はもう一度、白い空間の中を見る。
しばらくして、息を吐く。
「次からは、少しくらいやれ」
キミコが首を傾げる。
「何で?」
「これだけあるだろ」
「銀秋の」
「俺一人で全部食えるかよ」
「食べて」
「腐るわ」
「この中に入れておけば腐らない」
キミコは白い空間を指す。
「……それはすげえな」
銀秋が呆れたように言う。
「全部やれとは言わねえよ」
「うん」
「でも、明らかに飢えてる奴がいたら、少しくらい分けてやれ」
「銀秋が食べる分がなくなる」
「なくならねえ程度でいい」
キミコは少し考えた。
「分かった」
「じゃあ次は『退け』の前にちょっと考えろ」
「邪魔だったら?」
「……それでもだ」
「分かった」
銀秋は息を吐いた。
キミコは指の腹で裂け目をなぞり、白い空間を閉じた。
少しして、銀秋はまた横になった。
キミコは鹿肉の入った籠を見る。
それから店の奥へ入った。
もう一度、何もない空間へ爪を立てる。
裂け目を開き、中から芋と山菜を取り出した。
どちらにも土がついている。
キミコは水で洗った。
それから辺りを見る。
鍋がどこにあるのか分からなかった。
棚を開ける。
ない。
別のところも見る。
器や使っていない道具が入っている。
キミコはその奥へ手を入れた。
いくつか動かす。
ようやく、一つの鍋を見つけた。
取り出す。
しばらく使われていなかったのか、埃がついていた。
キミコはそれを洗った。
芋や鹿の肉は、食べられそうな大きさに切って鍋に入れた。
山菜も入れる。
水を入れる。
鍋を見る。
塩を取った。
量は測らず、適当に入れた。
少し考える。
「煮えろ」
鍋の中の水が音を立てた。
すぐに湯気が上がる。
芋や山菜が煮えていく。
キミコはじっと見ていた。
しばらくして、また少し考える。
芋を一つ取った。
口へ入れる。
「食べられる」
器によそう。
湯気が立っている。
キミコはそれを持って座敷へ戻った。
銀秋は眠っていた。
「銀秋」
返事がない。
「銀秋」
「……ん」
銀秋が目を開ける。
キミコは器を差し出した。
「食べて」
銀秋が器を見る。
「……何だこれ」
「芋と、山菜と、いろいろ」
「……鹿も入ってるか」
「うん」
銀秋はゆっくり身体を起こした。
器を受け取る。
中を見る。
「お前が作ったのか」
「うん。でも火は使ってない」
「ならどうやって」
「煮えろって言った」
「……」
銀秋がキミコを見る。
「便利すぎんだろ、お前」
「うん」
「自分で言うなよ」
キミコは銀秋の隣に座った。
「食べて」
銀秋は匙を取った。
一口食べる。
少し止まる。
キミコが見る。
「食べられない?」
「いや」
銀秋はもう一口食べた。
「食える」
「よかった」
「塩、適当に入れただろ」
「うん」
「分かるよ」
「多い?」
「ちょっとな」
「でも食べられる」
「ああ」
銀秋は少し笑った。
「食えるよ」
キミコはそのまま、銀秋が食べるところを見ていた。
それから数日。
キミコは山から持ち帰ったものを使って、何度も食事を作った。
芋。
山菜。
栗。
鹿の肉。
それらを鍋に入れる。
水を入れる。
塩を入れる。
「煮えろ」と言う。
それだけだった。
胡桃は、そのまま食べることもあった。
切り方も雑だった。
味も日によって濃かったり薄かったりした。
それでも食べられた。
銀秋は少しずつ食べた。
最初は、半分も食べられなかった。
それでも翌日には少し増えた。
その次の日には、もう少し。
顔色も少しずつよくなった。
立ち上がっても、柱へ手をつかなくなった。
数日後には、帳場へ座って店を開けられるようになった。
キミコはその隣にいた。
「銀秋」
「ん?」
「治った」
「まだ完全じゃねえよ」
「でも立ってる」
「立つくらいできる」
「倒れない?」
「倒れねえよ」
キミコは銀秋を見る。
「よかった」
銀秋は少し黙った。
「ありがとな」
小さく答えた。
その夜。
店を閉め、飯を食べた。
二人で座敷へ入る。
いつものように寝具へ横になる。
キミコは銀秋の隣にいた。
銀秋がキミコを見る。
「キミコ」
「何?」
銀秋は少し迷ったあと、手を伸ばした。
キミコの頬に触れる。
久しぶりだった。
キミコは逃げない。
銀秋が顔を寄せる。
唇が重なる。
一度離れる。
もう一度重なる。
今度は、少し長かった。
キミコが銀秋を見る。
「元気になった?」
「……まあな」
「よかった」
銀秋は笑った。
そのままキミコを抱き寄せた。
夜は静かに更けていった。




