↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スダマの鬼  作者: 肉
41/52

奇跡

 翌朝、銀秋は店を閉め、キミコとともに外へ出た。

 昨日来た男の田は、京の町中から少し離れたところにある。

 夏だった。

 朝から日差しは強く、道を歩けば乾いた土が足元で細かく舞った。

 二人はそのまま郊外へ向かった。

 通りを歩いていると、向こうから何人かの人間がやってきた。

 見慣れない顔だった。

 着物は汚れ、荷を背負っている。

 痩せた男。

 子供の手を引いた女。

 小さな包みを抱えた老人。

 皆、京の中へ向かって歩いていた。

 キミコがその姿を見る。

「どこ行くの?」

「京だろ」

「何で?」

「さあな」

 銀秋も一度振り返った。

「食うもんでも探しに来たんじゃねえか」

「京に?」

「ああ」

 キミコはしばらく彼らの背中を見ていた。

 それから銀秋について歩き出した。




 町を離れるにつれ、家の数が少なくなる。

 道の脇には田畑が広がっていた。

 だが、どこも様子がおかしい。

 本来なら水が張っているはずの田が、ところどころ乾いている。

 土はひび割れ、稲は青いまま力なく垂れていた。

 葉の先が茶色くなっているものもある。

 キミコが足を止めた。

「銀秋」

「ん?」

「これ、田?」

「そうだよ」

「水ない」

 銀秋も田を見る。

「足りてねえんだろ」

 しばらく歩くと、昨日の男が待っていた。

「来たか」

「ああ」

 銀秋は男のそばまで行く。

「どれだ」

 男が田を指した。

「あれだ」

 銀秋は目を向けた。

 他と大して変わらなかった。

 水はほとんどなく、稲は細い。

 伸びきらないまま、ところどころ倒れている。

 銀秋は田の端まで歩いた。

 しゃがみ込み、近くの稲を見る。

「ひでえな」

「ああ」

「いつからだ」

「しばらく前からだ」

「水は」

「足りねえ」

「他も?」

 男は周囲を見る。

「見りゃ分かるだろ」

 乾いた笑いを漏らした。

「今年はどこもこんなもんだ」

 銀秋は立ち上がった。

「これじゃ返せねえな」

「だから言っただろ」

「ああ」

 男はしばらく黙った。

「来年まで待ってくれ」

 銀秋は田を見る。

「来年どうなるかも分かんねえだろ」

「それでも待ってもらうしかねえ」

「……そうだな」

 キミコは少し離れたところから、二人を見ていた。

 それから田を見る。

「これ、死ぬ?」

 銀秋が振り返る。

「田か?」

「うん」

「このままならな」

「全部?」

「全部とは言わねえけど」

「いっぱい死ぬ?」

「……たぶんな」

 キミコは田を見る。

 しばらく黙っていた。

 男が田の向こうを指した。

「こっちも見てくれ」

 銀秋がそちらを見る。

 男は畦を歩き、少し離れた場所へ向かった。

 銀秋もあとを追う。

 キミコだけがその場に残った。

 青い稲が、力なく垂れている。

 キミコは少し考えた。


「実れ」


 一瞬、何も起きなかった。

 次の瞬間、風が吹いた。

 乾いた田を渡る風に、稲が一斉に揺れる。

 細かった茎が伸びる。

 萎れていた葉が起き上がる。

 まだ出ていなかった穂が現れ、膨らみ、重く垂れていく。

 青かった稲が、見る間に色を変えた。

 夏の日差しの下で、田一面が黄金色になる。

 キミコはしばらくそれを見ていた。

 それから銀秋の方へ歩いていく。

「銀秋」

「ん?」

「実った」

「は?」

 銀秋が振り返る。

 黄金色に染まった田を見た。

 しばらく動かなかった。

 それから、血相を変えてキミコを見る。

「お前、何した」

「実れって言った」

「……」

 銀秋はすぐに男を見る。

 男はまだ少し離れたところで、別の田を見ていた。

 こちらには背を向けたままだ。

 銀秋は周囲も見回す。

 誰もこちらを見ていない。

「行くぞ」

「どこ?」

「帰る」

「もう?」

「いいから来い!」

 銀秋はキミコの手を掴んだ。

 そのまま走り出す。

 キミコも引かれるまま走る。

「銀秋」

「何だよ!」

「何で走るの?」

「お前が余計なことするからだよ!」

「でも米ないって言ってた」

「そうだけど!」

 キミコは銀秋に手を引かれながら走った。

「いっぱい実ったのに」

 後ろでは、夏の日差しを受けた黄金色の稲穂が、風に揺れていた。




 店へ戻る頃には、銀秋はすっかり息を切らしていた。

 戸を開けて中へ入り、キミコの手をようやく離す。

「はあ……」

 銀秋はそのまま帳場へ腰を下ろした。

 キミコは隣に立っている。

「疲れた?」

「誰のせいだよ」

「私?」

「お前だよ」

 銀秋は額の汗を拭った。

 少し息を整えてから、キミコを見る。

「いいか。さっきの、もう人前でやるなよ」

「実れ?」

「それ」

 キミコは首を傾げた。

「何で?」

「何でって……」

 銀秋は言葉に詰まった。

「あんなもん見られたら騒ぎになるだろ」

「でも、米が少ないんでしょう」

「ああ」

「じゃあ、いっぱい実らせればいい」

 銀秋はキミコを見る。

「駄目だ」

「何で?」

「駄目なもんは駄目だ」

「いっぱいあったら、みんな食べられる」

「そうだけどよ」

 銀秋は眉間を押さえた。

「お前がやったって知られたら、どうなると思ってんだ」

「分からない」

「だろうな」

 銀秋は息を吐いた。

「とにかく、田や畑で勝手にやるな」

「でも」

「やるな」

 キミコは銀秋を見る。

 しばらく黙っていた。

「……うん」

「分かってんのか」

「分からないけど、銀秋が駄目って言うからやらない」

「それでいい」

 銀秋は帳場にもたれた。

 キミコはまだ納得していない顔をしていた。

 それから、田畑に奇跡を起こすことはなくなった。




 それから、しばらく経った。

 食べ物はますます手に入りにくくなった。

 銭を出しても買えない日が増えた。

 買えたとしても、以前よりずっと少ない。

 京へ入ってくる人間も増えていた。

 初めのうちは、通りで数人見かける程度だった。

 それが、日を追うごとに増えていった。

 寺の前や軒下、道端で休む者も珍しくなくなった。

 京の外から流れてきた者たちだった。




 ある日、銀秋とキミコが食べ物を探して歩いていると、道の端に男が座り込んでいた。

 その少し先にも、一人いる。

 さらに向こうには、子供を抱いた女が壁にもたれていた。

 キミコが見る。

「またいる」

「ああ」

「昨日もいた」

「そうだな」

「増えてる」

「増えてんだよ」

 銀秋は前を向いたまま答えた。

「何で?」

「向こうに食うもんがねえからだろ」

「京にはある?」

「あると思って来るんだよ」

「ないのに?」

「ないよりはましだと思ってんじゃねえか」

 キミコは振り返った。

 さっきの男は、まだ同じところに座っている。

「どこで寝るの?」

「知らねえよ」

「家は?」

「捨ててきた奴もいるだろうし、戻るに戻れねえ奴もいるだろ」

「ふうん」

 少し先を歩く。

 道端に、人が横になっていた。

 眠っているのか。

 倒れているのか。

 キミコには分からなかった。

 銀秋は一度そちらを見た。

 何も言わず、歩き続けた。




 銀秋は毎日、店を閉める頃になると外へ出た。

 食べ物を探して歩き、何か買えれば持ち帰る。

 何も買えずに戻る日もあった。




 ある日の昼。

 前日に手に入れた飯を、銀秋は二つに分けた。

 一つをキミコの前へ置く。

 もう一つを自分の前へ置いた。

 キミコは自分の分を見る。

 それから、銀秋の分を見る。

「銀秋」

「何だ」

「少ない」

「今はこれしかねえんだよ」

 銀秋は箸を取った。

 キミコも一口食べる。

 銀秋は二口ほど食べたところで、箸を置いた。

 キミコが見る。

「もう食べないの?」

「ああ」

「残ってる」

「腹減ってねえ」

 キミコは銀秋を見た。

「嘘」

 銀秋が顔を上げる。

「何で分かんだよ」

「分かる」

「何だそれ」

 銀秋は笑った。

 だが、キミコは笑わなかった。

 自分の前にある飯を銀秋の方へ押す。

「食べて」

「いらねえよ」

「私はいい」

「よくねえ」

「私は食べなくても死なない」

 銀秋の手が止まった。

 キミコはもう一度、飯を押した。

「銀秋が食べて」

「お前だって腹減るだろ」

「減る」

「じゃあ食え」

「銀秋も減ってる」

「……」

「嘘ついた」

「うるせえな」

 銀秋は少し顔をしかめた。

 それでも、キミコは飯を引かなかった。

「食べて」

「いいって」

「食べて」

「……分かったよ」

 銀秋は諦めたように箸を取った。

 キミコの飯を少しだけ自分の方へ移す。

「これだけな」

「もっと」

「これ以上は食わねえ」

「何で?」

「お前も食え」

 キミコは銀秋を見る。

「全部食べればいいのに」

「嫌だよ」

「銀秋が死ぬ方が嫌」

 銀秋は黙った。

 しばらくして、小さく言った。

「まだ死なねえよ」

 キミコは何も答えなかった。




 それからも、似たような日が続いた。

 食べ物を買えれば、銀秋はキミコにも分けた。

 キミコがいらないと言っても分けた。

 自分の分だけ少なくすることもあった。

 そのたびにキミコが気づいた。

「銀秋、少ない」

「気のせいだ」

「嘘」

「お前、最近そればっかりだな」

 銀秋は笑う。

 だが、日に日に頬が痩せていった。

 肩も以前より細くなった。

 帳場に座っている時間が長くなった。

 立ち上がる時に、柱へ手をつくことも増えた。

 キミコはそれを見ていた。

「銀秋」

「ん?」

「弱くなった」

「うるせえよ」

「前より細い」

「食ってねえんだから当たり前だろ」

「食べて」

「ねえもんは食えねえよ」

 銀秋はそう言って立ち上がった。

 その瞬間、身体が傾いた。

「銀秋」

 キミコが腕を掴む。

 銀秋は柱へ手をついた。

「……大丈夫だ」

「大丈夫じゃない」

「立ちくらみしただけだよ」

 銀秋はキミコの手を外した。

 その日は、そのまま店を続けた。




 翌朝。

 キミコが目を覚ますと、銀秋はまだ横になっていた。

 いつもなら、もう起きている頃だった。

「銀秋」

 返事がない。

 キミコは身体を起こした。

「銀秋」

「……起きてるよ」

 掠れた声が返ってきた。

 銀秋は目を開けた。

 だが、起き上がらない。

「店」

「今日は……いい」

 キミコは銀秋を見る。

「起きないの?」

「……ちょっと寝てる」

「何で?」

「身体が重い」

 キミコは銀秋の顔へ手を伸ばした。

 頬に触れる。

 前よりずっと肉が薄くなっていた。

「銀秋」

「何だよ」

「弱くなった」

「……そうだな」

 今度は、否定しなかった。

 キミコはしばらく銀秋の顔を見ていた。

 それから立ち上がった。

「どこ行くんだ」

「山」

 銀秋がゆっくり目を開く。

「何しに」

「食べ物、取ってくる」

「おい」

 キミコは座敷を出た。

 少しして戻ってくる。

 手には、水を入れた小さな壺と湯呑みを持っていた。

 キミコはそれを、銀秋の寝具のそばへ置く。

「水」

「ああ」

「喉乾いたら飲んで」

「分かった」

 キミコは壺と湯呑みの位置を少し直した。

 銀秋が横になったままでも、手を伸ばせば届くところだった。

「どれくらいで帰る?」

「分からない」

「そうか」

 キミコは立ち上がった。

「キミコ」

「何?」

「変なことすんなよ」

「分かった」

 そう答えて、店の外へ出ていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。