奇跡
翌朝、銀秋は店を閉め、キミコとともに外へ出た。
昨日来た男の田は、京の町中から少し離れたところにある。
夏だった。
朝から日差しは強く、道を歩けば乾いた土が足元で細かく舞った。
二人はそのまま郊外へ向かった。
通りを歩いていると、向こうから何人かの人間がやってきた。
見慣れない顔だった。
着物は汚れ、荷を背負っている。
痩せた男。
子供の手を引いた女。
小さな包みを抱えた老人。
皆、京の中へ向かって歩いていた。
キミコがその姿を見る。
「どこ行くの?」
「京だろ」
「何で?」
「さあな」
銀秋も一度振り返った。
「食うもんでも探しに来たんじゃねえか」
「京に?」
「ああ」
キミコはしばらく彼らの背中を見ていた。
それから銀秋について歩き出した。
町を離れるにつれ、家の数が少なくなる。
道の脇には田畑が広がっていた。
だが、どこも様子がおかしい。
本来なら水が張っているはずの田が、ところどころ乾いている。
土はひび割れ、稲は青いまま力なく垂れていた。
葉の先が茶色くなっているものもある。
キミコが足を止めた。
「銀秋」
「ん?」
「これ、田?」
「そうだよ」
「水ない」
銀秋も田を見る。
「足りてねえんだろ」
しばらく歩くと、昨日の男が待っていた。
「来たか」
「ああ」
銀秋は男のそばまで行く。
「どれだ」
男が田を指した。
「あれだ」
銀秋は目を向けた。
他と大して変わらなかった。
水はほとんどなく、稲は細い。
伸びきらないまま、ところどころ倒れている。
銀秋は田の端まで歩いた。
しゃがみ込み、近くの稲を見る。
「ひでえな」
「ああ」
「いつからだ」
「しばらく前からだ」
「水は」
「足りねえ」
「他も?」
男は周囲を見る。
「見りゃ分かるだろ」
乾いた笑いを漏らした。
「今年はどこもこんなもんだ」
銀秋は立ち上がった。
「これじゃ返せねえな」
「だから言っただろ」
「ああ」
男はしばらく黙った。
「来年まで待ってくれ」
銀秋は田を見る。
「来年どうなるかも分かんねえだろ」
「それでも待ってもらうしかねえ」
「……そうだな」
キミコは少し離れたところから、二人を見ていた。
それから田を見る。
「これ、死ぬ?」
銀秋が振り返る。
「田か?」
「うん」
「このままならな」
「全部?」
「全部とは言わねえけど」
「いっぱい死ぬ?」
「……たぶんな」
キミコは田を見る。
しばらく黙っていた。
男が田の向こうを指した。
「こっちも見てくれ」
銀秋がそちらを見る。
男は畦を歩き、少し離れた場所へ向かった。
銀秋もあとを追う。
キミコだけがその場に残った。
青い稲が、力なく垂れている。
キミコは少し考えた。
「実れ」
一瞬、何も起きなかった。
次の瞬間、風が吹いた。
乾いた田を渡る風に、稲が一斉に揺れる。
細かった茎が伸びる。
萎れていた葉が起き上がる。
まだ出ていなかった穂が現れ、膨らみ、重く垂れていく。
青かった稲が、見る間に色を変えた。
夏の日差しの下で、田一面が黄金色になる。
キミコはしばらくそれを見ていた。
それから銀秋の方へ歩いていく。
「銀秋」
「ん?」
「実った」
「は?」
銀秋が振り返る。
黄金色に染まった田を見た。
しばらく動かなかった。
それから、血相を変えてキミコを見る。
「お前、何した」
「実れって言った」
「……」
銀秋はすぐに男を見る。
男はまだ少し離れたところで、別の田を見ていた。
こちらには背を向けたままだ。
銀秋は周囲も見回す。
誰もこちらを見ていない。
「行くぞ」
「どこ?」
「帰る」
「もう?」
「いいから来い!」
銀秋はキミコの手を掴んだ。
そのまま走り出す。
キミコも引かれるまま走る。
「銀秋」
「何だよ!」
「何で走るの?」
「お前が余計なことするからだよ!」
「でも米ないって言ってた」
「そうだけど!」
キミコは銀秋に手を引かれながら走った。
「いっぱい実ったのに」
後ろでは、夏の日差しを受けた黄金色の稲穂が、風に揺れていた。
店へ戻る頃には、銀秋はすっかり息を切らしていた。
戸を開けて中へ入り、キミコの手をようやく離す。
「はあ……」
銀秋はそのまま帳場へ腰を下ろした。
キミコは隣に立っている。
「疲れた?」
「誰のせいだよ」
「私?」
「お前だよ」
銀秋は額の汗を拭った。
少し息を整えてから、キミコを見る。
「いいか。さっきの、もう人前でやるなよ」
「実れ?」
「それ」
キミコは首を傾げた。
「何で?」
「何でって……」
銀秋は言葉に詰まった。
「あんなもん見られたら騒ぎになるだろ」
「でも、米が少ないんでしょう」
「ああ」
「じゃあ、いっぱい実らせればいい」
銀秋はキミコを見る。
「駄目だ」
「何で?」
「駄目なもんは駄目だ」
「いっぱいあったら、みんな食べられる」
「そうだけどよ」
銀秋は眉間を押さえた。
「お前がやったって知られたら、どうなると思ってんだ」
「分からない」
「だろうな」
銀秋は息を吐いた。
「とにかく、田や畑で勝手にやるな」
「でも」
「やるな」
キミコは銀秋を見る。
しばらく黙っていた。
「……うん」
「分かってんのか」
「分からないけど、銀秋が駄目って言うからやらない」
「それでいい」
銀秋は帳場にもたれた。
キミコはまだ納得していない顔をしていた。
それから、田畑に奇跡を起こすことはなくなった。
それから、しばらく経った。
食べ物はますます手に入りにくくなった。
銭を出しても買えない日が増えた。
買えたとしても、以前よりずっと少ない。
京へ入ってくる人間も増えていた。
初めのうちは、通りで数人見かける程度だった。
それが、日を追うごとに増えていった。
寺の前や軒下、道端で休む者も珍しくなくなった。
京の外から流れてきた者たちだった。
ある日、銀秋とキミコが食べ物を探して歩いていると、道の端に男が座り込んでいた。
その少し先にも、一人いる。
さらに向こうには、子供を抱いた女が壁にもたれていた。
キミコが見る。
「またいる」
「ああ」
「昨日もいた」
「そうだな」
「増えてる」
「増えてんだよ」
銀秋は前を向いたまま答えた。
「何で?」
「向こうに食うもんがねえからだろ」
「京にはある?」
「あると思って来るんだよ」
「ないのに?」
「ないよりはましだと思ってんじゃねえか」
キミコは振り返った。
さっきの男は、まだ同じところに座っている。
「どこで寝るの?」
「知らねえよ」
「家は?」
「捨ててきた奴もいるだろうし、戻るに戻れねえ奴もいるだろ」
「ふうん」
少し先を歩く。
道端に、人が横になっていた。
眠っているのか。
倒れているのか。
キミコには分からなかった。
銀秋は一度そちらを見た。
何も言わず、歩き続けた。
銀秋は毎日、店を閉める頃になると外へ出た。
食べ物を探して歩き、何か買えれば持ち帰る。
何も買えずに戻る日もあった。
ある日の昼。
前日に手に入れた飯を、銀秋は二つに分けた。
一つをキミコの前へ置く。
もう一つを自分の前へ置いた。
キミコは自分の分を見る。
それから、銀秋の分を見る。
「銀秋」
「何だ」
「少ない」
「今はこれしかねえんだよ」
銀秋は箸を取った。
キミコも一口食べる。
銀秋は二口ほど食べたところで、箸を置いた。
キミコが見る。
「もう食べないの?」
「ああ」
「残ってる」
「腹減ってねえ」
キミコは銀秋を見た。
「嘘」
銀秋が顔を上げる。
「何で分かんだよ」
「分かる」
「何だそれ」
銀秋は笑った。
だが、キミコは笑わなかった。
自分の前にある飯を銀秋の方へ押す。
「食べて」
「いらねえよ」
「私はいい」
「よくねえ」
「私は食べなくても死なない」
銀秋の手が止まった。
キミコはもう一度、飯を押した。
「銀秋が食べて」
「お前だって腹減るだろ」
「減る」
「じゃあ食え」
「銀秋も減ってる」
「……」
「嘘ついた」
「うるせえな」
銀秋は少し顔をしかめた。
それでも、キミコは飯を引かなかった。
「食べて」
「いいって」
「食べて」
「……分かったよ」
銀秋は諦めたように箸を取った。
キミコの飯を少しだけ自分の方へ移す。
「これだけな」
「もっと」
「これ以上は食わねえ」
「何で?」
「お前も食え」
キミコは銀秋を見る。
「全部食べればいいのに」
「嫌だよ」
「銀秋が死ぬ方が嫌」
銀秋は黙った。
しばらくして、小さく言った。
「まだ死なねえよ」
キミコは何も答えなかった。
それからも、似たような日が続いた。
食べ物を買えれば、銀秋はキミコにも分けた。
キミコがいらないと言っても分けた。
自分の分だけ少なくすることもあった。
そのたびにキミコが気づいた。
「銀秋、少ない」
「気のせいだ」
「嘘」
「お前、最近そればっかりだな」
銀秋は笑う。
だが、日に日に頬が痩せていった。
肩も以前より細くなった。
帳場に座っている時間が長くなった。
立ち上がる時に、柱へ手をつくことも増えた。
キミコはそれを見ていた。
「銀秋」
「ん?」
「弱くなった」
「うるせえよ」
「前より細い」
「食ってねえんだから当たり前だろ」
「食べて」
「ねえもんは食えねえよ」
銀秋はそう言って立ち上がった。
その瞬間、身体が傾いた。
「銀秋」
キミコが腕を掴む。
銀秋は柱へ手をついた。
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
「立ちくらみしただけだよ」
銀秋はキミコの手を外した。
その日は、そのまま店を続けた。
翌朝。
キミコが目を覚ますと、銀秋はまだ横になっていた。
いつもなら、もう起きている頃だった。
「銀秋」
返事がない。
キミコは身体を起こした。
「銀秋」
「……起きてるよ」
掠れた声が返ってきた。
銀秋は目を開けた。
だが、起き上がらない。
「店」
「今日は……いい」
キミコは銀秋を見る。
「起きないの?」
「……ちょっと寝てる」
「何で?」
「身体が重い」
キミコは銀秋の顔へ手を伸ばした。
頬に触れる。
前よりずっと肉が薄くなっていた。
「銀秋」
「何だよ」
「弱くなった」
「……そうだな」
今度は、否定しなかった。
キミコはしばらく銀秋の顔を見ていた。
それから立ち上がった。
「どこ行くんだ」
「山」
銀秋がゆっくり目を開く。
「何しに」
「食べ物、取ってくる」
「おい」
キミコは座敷を出た。
少しして戻ってくる。
手には、水を入れた小さな壺と湯呑みを持っていた。
キミコはそれを、銀秋の寝具のそばへ置く。
「水」
「ああ」
「喉乾いたら飲んで」
「分かった」
キミコは壺と湯呑みの位置を少し直した。
銀秋が横になったままでも、手を伸ばせば届くところだった。
「どれくらいで帰る?」
「分からない」
「そうか」
キミコは立ち上がった。
「キミコ」
「何?」
「変なことすんなよ」
「分かった」
そう答えて、店の外へ出ていった。




