前兆
年月が流れた。
その間にも、京では何度か一揆が起きた。
土倉が襲われ、質屋が破られ、徳政を求める声が通りを埋めたこともある。
それでも、不思議なことに銀秋の店の周りまで騒ぎが及ぶことはなかった。
銀秋は変わらず店を開け、客が来れば商売をした。
キミコも変わらず、その隣にいた。
戸口には、藤の鉢が置かれている。
数年前に植えたものだった。
枝はあれからほとんど伸びていない。
銀秋が剪定する必要もなくなった。
それでも、藤色の花房だけは絶えることがなかった。
春も夏も秋も冬も、季節に関係なく咲き続けている。
「最近、飯高いな」
昼だった。
銀秋は店の奥に座り、買ってきた飯の包みを開いていた。
向かいに座ったキミコが顔を上げる。
「そう?」
「そうだよ」
銀秋は包みの中を見る。
「前はこの銭でもう少しあっただろ」
「覚えてない」
「そうかよ」
キミコは箸を取った。
一口食べる。
「味は同じ」
「味の話じゃねえよ」
銀秋も箸を取る。
米も少ない。
添えられているものも、前より質素になっている。
だが、食えないほどではない。
銀秋はそのまま飯を口へ運んだ。
「米が少ねえんだって」
「米?」
「ああ」
「ないの?」
「ないってほどじゃねえよ。少ないんだと」
「ふうん」
キミコはそれ以上気にした様子もなく、また飯を食べた。
銀秋も、その時はそれ以上考えなかった。
少し値が上がった。
ただ、それだけのことだと思っていた。
それから数日経った。
銀秋は昼飯を買いに出て、少しして手ぶらで戻ってきた。
帳場のそばにいたキミコが顔を上げる。
「飯は?」
「ない」
「ない?」
「いつもの店、売り切れだとよ」
キミコが立ち上がる。
「じゃあ別の店」
「今から行く」
銀秋はまた外へ出た。
しばらくして戻ってきた時には、今度は包みを持っていた。
ただし、いつもより小さい。
キミコがそれを見る。
「少ない」
「分かるのかよ」
「うん」
「値段は前より高えぞ」
銀秋は包みを置いた。
「嫌になるな」
二人で分けて食べた。
それからまた何日か経った。
銀秋は、いつもの餅屋へ向かった。
店先には、おばちゃんがいた。
だが、いつものように餅は並んでいない。
「今日はねえのか」
銀秋が尋ねる。
「ないよ」
「売り切れた?」
「違う違う。作る分がないんだよ」
おばちゃんは困ったように息を吐いた。
「米が入ってこなくてね。うちで食べる分を残したら、売れるほどないんだ」
「そこまでか」
「そこまでだよ。あんたも買えるうちに買っときな」
「高えんだよ」
「こっちだって高いんだよ」
銀秋は少し黙った。
「ちゃんと食ってんのか」
「自分の分くらいはあるよ。心配すんじゃないよ」
「ならいいけどよ」
「餅はしばらく諦めな」
「俺じゃねえよ。食いたがる奴がいるんだよ」
「はいはい」
銀秋は店を離れた。
別の店へ行けば飯は買えたが、値はさらに上がっていた。
米だけではなかった。
野菜も少ない。
豆も高い。
干した魚も以前ほど見かけなくなった。
通りを歩く人間の中にも、痩せた者が目につくようになった。
それから、店へ来る客の様子も変わった。
「あと十日待ってくれ」
男が言った。
「前も十日って言っただろ」
「分かってる」
「じゃあ今度は?」
「……まだ銭がねえ」
銀秋は男を見る。
以前より頬がこけていた。
「飯は食ってんのか」
男は答えなかった。
銀秋はしばらく黙っていた。
「次も来いよ」
男が顔を上げる。
「いいのか」
「来いって言ってんだよ。逃げんな」
「……ああ」
男は何度も頭を下げて帰っていった。
キミコはその背中を見送った。
「銭、もらわないの?」
「今ねえもん取れねえだろ」
「じゃあ銀秋、困る?」
「困るよ」
銀秋は帳場へ戻った。
帳簿を開く。
最近は、似たような客が増えていた。
衣や道具、刀、家財まで持ち込んで銭を借りる。
だが、返す銭がない。
それでも腹は減る。
食うためには、また借りるしかなかった。
やせ細った客の顔を見て、銀秋自身も、貸したところで返せないだろうと分かりながら貸していた。
いくらでも貸せるわけではない。だが、目の前で飢えている人間を突き放すこともできなかった。
銀秋は帳簿の上で指を止めた。
しばらく数字を眺める。
「……まずいな」
キミコが隣から覗き込む。
「何が?」
「色々」
「分からない」
「だろうな」
銀秋は帳簿を閉じた。
その日の夕方。
一人の男が店へ来た。
郊外で田を持っている男だった。
以前、銀秋から銭を借りている。
男は帳場の前へ座ると、深く頭を下げた。
「すまねえ」
銀秋は男を見る。
「何が」
「今年は返せそうにねえ」
「理由は」
男はしばらく黙った。
「田が駄目だ」
銀秋の眉が動く。
「全部か」
「ほとんど」
「……そうか」
「もう少し待ってくれ」
銀秋は男の顔を見た。
やはり痩せている。
「明日、見に行く」
男が顔を上げる。
「田を?」
「ああ」
「来ても何もねえぞ」
「だから見るんだよ」
男は困ったような顔をしたが、やがて頷いた。
「分かった」
男が帰ったあと、キミコが銀秋を見る。
「明日、どこ行くの?」
「ちょっと外だ」
「私も行く」
銀秋はキミコを見る。
「好きにしろ」
キミコは頷いた。
戸口の藤が、夕暮れの風に揺れていた。
藤色の花房が、今日もいくつも垂れ下がっている。




