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スダマの鬼  作者: 肉
39/52

祇園会

 夏になった。

 京は暑かった。

 朝から強い日が照りつけている。

 表の戸を開け放っていても、涼しい風はほとんど入ってこない。

 戸口のそばには、いつものように藤の鉢が置かれていた。

 冬に植えたものだった。

 枝はあれから伸びてはいない。

 それでも藤色の花房だけは絶えず増え、今日もいくつも垂れ下がっていた。

 銀秋は帳場に座り、額に浮いた汗を手の甲で拭った。

「暑い」

 隣にいたキミコが銀秋を見る。

「そう?」

「そうだよ」

「私は暑くない」

「少しは暑がれ」

 銀秋は扇を開き、顔の前で何度か動かした。

 キミコは銀秋に近づき、顔を寄せる。

 銀秋が顔をしかめる。

「何だよ」

「銀秋の匂いがする」

「嗅ぐな」

 銀秋は面倒そうに答えた。

 冬には寒さを気にする様子もなく、夏になれば暑さも気にしない。

 キミコはいつもと変わらない顔で座っている。

 銀秋だけが暑い。




 表の通りは、朝からいつもより騒がしかった。

 行き交う人が多い。

 連れ立って歩く者たちの声が途切れず、時折、遠くから笛や鉦の音まで聞こえてくる。

 キミコが表を見る。

「何?」

「祭だ」

 銀秋は帳簿から顔を上げた。

「祇園会」

「ぎおんえ」

「そうだ」

 キミコはしばらく外を見ていた。

 また遠くで鉦が鳴った。

 それに笛の音が重なる。

「何するの」

「山とか鉾とかが出る」

 キミコが銀秋を見る。

「山?」

「山そのものじゃねえぞ」

「違うの?」

「違う」

 キミコはまた通りを見る。

「見たい」

「……だろうな」

「見たい」

「二回言わんでいい」

 銀秋は帳場の上の帳簿へ目を落とした。

 朝から人通りこそ多いものの、店へ入ってくる者はいない。

 皆、商いどころではないらしい。

 しばらく考えてから、銀秋は帳簿を閉じた。

「仕方ねえな」

 立ち上がる。

「閉めるぞ」

「もう?」

「今日はまともに客も来ねえよ」

「祭見る?」

「ああ」

 キミコはすぐに立ち上がった。

 銀秋は表の戸を閉めた。

 ふたりで通りへ出る。

 少し歩くだけで、人はさらに増えた。

 子供を連れた者。

 連れ立って歩く男や女。

 道の端に立ち止まり、何かを待っている者。

 家の前へ出て、通りの向こうを眺めている者もいる。

 皆が同じ方を気にしていた。

 笛と鉦の音が、先ほどより近い。

 キミコはあちこちへ顔を向けながら歩いた。

 銀秋はその隣を歩いている。

 進むにつれ、人の間が狭くなっていった。

 祭を見ようと通りへ出てきた者たちが重なり、前へ進むのも少し面倒になってきた。

 銀秋が足を止める。

「キミコ」

「何?」

 銀秋が手を差し出した。

 キミコはそれを見る。

「手?」

「はぐれるだろ」

「はぐれない」

「いいから」

 キミコは銀秋の手を見ていた。

 それから、自分の手を重ねる。

 銀秋が握った。

「離すなよ」

「うん」

 ふたりはそのまま人の中へ入っていった。

 しばらく歩く。

 やがて、人々の頭の向こうに、高く伸びるものが見えた。

 キミコが顔を上げる。

「何かある」

「鉾だ」

「あれ?」

「ああ」

 人の頭より遥かに高い。

 長く伸びた鉾の先が、夏の空へ突き出ていた。

 その下には屋根があり、人が乗っている。

 色鮮やかな布が垂れ、木組みのところどころにも飾りが見えた。

 ゆっくりと、大きな鉾が進んでくる。

 周りには大勢の人がいる。

 笛が鳴る。

 鉦の音が続く。

 先ほどから聞こえていた音は、これだったらしい。

 キミコは立ち止まって見上げた。

「大きい」

「そうだな」

「動いてる」

「人が引いてんだよ」

 鉾の前には何人もの人間がいる。

 太い綱を取り、大きなものを少しずつ前へ進めていた。

 キミコはじっと見る。

「人がいっぱい」

「一人じゃ動かせねえからな」

「私なら動かせる」

 銀秋が少し笑った。

 キミコは鉾から目を離さなかった。

 近づいてくるにつれ、飾りもよく見えるようになる。

 垂らされた布。

 屋根の下の細かな飾り。

 上に乗った者たち。

 通りの両側からも、人々がそれを眺めていた。

 子供を抱き上げて見せる親もいる。

 家の中から顔を出している者もいる。

 鉾が近くを通ると、ざわめきが一段と大きくなった。

「綺麗」

 キミコが言った。

 鉾が通り過ぎても、まだ人々は前を向いていた。

 次が来るらしい。

 しばらくすると、今度は先ほどとは違うものが見えてきた。

 鉾ほど高くはない。

 上には木が立ち、その下には人の姿をしたものが据えられている。

 周囲にはやはり、色のある布や飾りが施されていた。

 キミコが見る。

「あれも鉾?」

「いや、あれは山」

「山」

「ああ」

 キミコはしばらく見た。

「山じゃない」

「だから最初に言っただろ」

「木はある」

「あるな」

「でも山じゃない」

「名前が山なんだよ」

「変なの」

「俺に言うな」

 銀秋が答えた。

 人の流れが急に動いた。

 後ろから来た者に押されるように、何人かが前へ進む。

 銀秋はキミコの手を強く握った。

「こっち」

 キミコも銀秋の方へ寄る。

 ふたりで道の端へ少しずつ移動した。

 肩が触れる。

 人の流れが過ぎてから、銀秋が後ろを見た。

「危ねえな」

 キミコは銀秋を見る。

「手、強くなった」

「悪い。痛かったか」

「平気」

「……離れたら困るだろ」

「うん」

 キミコはそれだけ言った。

 手は繋いだままだった。

 また笛が聞こえる。

 鉦が鳴る。

 大きな山や鉾が進むたび、周囲の人々が顔を上げる。

 キミコも同じように見ていた。

 しばらくして、ふと思い出したように銀秋を見る。

「何の祭?」

「何のって」

 銀秋は前を見たまま答える。

「病だの災いだのが来ねえようにする祭だ」

「病」

「ああ」

 キミコが銀秋を見る。

「銀秋も?」

「俺?」

「病にならないように?」

「まあ、俺だけじゃねえけどな」

 キミコは少し考えた。

「じゃあ大事」

「祭がか?」

「銀秋が病にならないの」

 銀秋が黙った。

 隣を見る。

 キミコは何でもないことのような顔をしている。

「……そうかよ」

「うん」

 ふたりはまた歩き出した。

 人の集まるところを抜けながら、次の山を見に行く。

 その途中、キミコの顔が別の方へ向いた。

 銀秋もそちらを見る。

 食べ物を商う者がいる。

「おい」

「何?」

「祭見に来たんじゃなかったのか」

「見てる」

「今、食い物しか見てなかっただろ」

「餅あるかな」

「結局それかよ」

 キミコは辺りを見る。

「探す」

「はいはい。俺の分も買うからな」

「うん」

 ふたりで少し歩くと、餅を売っているところが見つかった。

「あった」

 キミコの足が少し速くなる。

「引っ張んな」

 繋いだ手のまま、銀秋もついていく。

 銀秋は二人分の餅を買った。

 キミコは受け取ると、すぐに一つ食べる。

「うまい?」

「うん」

「良かったな」

 銀秋も自分の分を食べた。

 キミコはまた前を向く。

 笛の音が近づいてきた。

「あっちから来る」

「じゃあ見に行くか」

「うん」

 ふたりは餅を食べながら、また人の集まる方へ歩いていった。

 その後も、いくつか山や鉾を見た。

 姿はどれも同じではない。

 高く伸びる鉾。

 木を立てた山。

 人の姿を飾ったもの。

 色鮮やかな布を垂らしたもの。

 キミコは一つ通るたびに見ていた。

「さっきと違う」

「全部同じじゃねえよ」

「あれは?」

「知らねえ」

「銀秋も知らない?」

「全部知ってると思うな」

「住んでるのに」

「住んでたら何でも知ってるわけじゃねえよ」

 日が傾き始める頃になっても、通りにはまだ人が多かった。

 朝から聞こえていた笛や鉦の音も、遠くから聞こえてくる。

 銀秋は空を見上げた。

「そろそろ帰るぞ」

「うん」

 ふたりで店の方へ戻り始める。

 しばらく歩くと、少しずつ人が減っていった。

 道にも余裕ができる。

 銀秋がふと手元を見る。

 まだキミコと手を繋いでいる。

「……キミコ」

「何?」

「もうそんなに人いねえぞ」

 キミコが辺りを見る。

「うん」

「もうはぐれねえだろ」

「うん」

「じゃあ手、離していいぞ」

「嫌」

 銀秋がキミコを見る。

「何でだよ」

「銀秋が繋いだから」

「はぐれねえようにだよ」

「うん」

「もうはぐれねえって。暑いし」

「うん」

「じゃあ――」

「このままがいい」

 銀秋は黙った。

 キミコは銀秋の手を握ったまま、前を向いている。

 しばらくして、銀秋が息を吐いた。

「……好きにしろ」

「うん」

 ふたりはそのまま歩いた。

 店へ戻る頃には、空が赤くなっていた。

 銀秋が戸を開ける。

 ふたりで中へ入った。

 キミコが先に上がる。

 銀秋は振り返り、戸を閉めようとした。

「楽しかったか」

「うん」

「何が一番良かった?」

 キミコは少し考えた。

「銀秋と見たこと」

 銀秋の手が止まった。

「……そういうこと聞いてんじゃねえよ」

「違う?」

 キミコが首を傾げる。

 銀秋はそれ以上何も言わず、戸を閉めた。

 そのまま奥へ入る。

 キミコが後ろからついていった。

 ふいに、その足が止まる。

「銀秋」

「ん?」

 銀秋が振り返る。

 キミコが少し近づいた。

 顔を寄せる。

 銀秋が眉を寄せた。

「何だよ」

 キミコは答えない。

 もう一度、銀秋の肩口へ顔を寄せた。

 衣に触れそうなほど近い。

「……臭い」

「あ?」

「人の匂いがする」

 銀秋が自分の袖を見る。

「そりゃあんだけ人ん中いたんだから、するだろ」

「嫌」

「何が」

「銀秋から、人の匂いするの」

「お前なあ」

 キミコが銀秋の衣を掴んだ。

「消したい」

「風呂なら――」

 言い終える前に、身体が傾いた。

「おい」

 銀秋の背が寝具へ落ちる。

 その上にキミコが覆いかぶさった。

 銀秋が目を見開く。

「キミコ」

「何?」

「何じゃねえよ」

 キミコは銀秋の胸元に手をついた。

 顔を近づける。

「私の匂いにする」

「……お前」

 銀秋が続きを口にする前に、キミコの唇が重なった。

 外ではまだ、遠くから祭の鉦が鳴っていた。

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