藤
店へ戻り、飯を食べ終えた。
昼間にもらった野菜のいくつかは、銀秋が言われた通りに切り、塩をして重しを乗せた。
すぐには食べられないらしい。
キミコは何度かその器を覗き込んだが、そのたびに銀秋に「まだだ」と言われた。
外はもう暗い。
銀秋は食べ終えた器を重ねていた。
「銀秋」
「ん?」
「鉢、ある?」
銀秋が手を止める。
「鉢?」
「うん」
キミコはずっと握っていた手を開いた。
掌の上には、小さな種が一つ載っている。
「これ植えたい」
「何だ、それ」
「たぬきにもらった」
銀秋が種を見る。
「またあの狸か」
「うん」
「何の種かも言わなかったのか」
「私の目と同じ色の花だって」
銀秋がキミコの大きな一つ目を見る。
「紫色か」
「たぶん」
「名前は?」
「聞いてない」
「……そうかよ」
銀秋は少し考えた。
「それで植えたいのか」
「うん」
「待ってろ」
立ち上がる。
店の奥へ入り、棚や荷物の間を探し始めた。
しばらくして、銀秋が一つの鉢を持って戻ってきた。
何の飾りもない、素焼きの簡素な鉢だった。
「これでいいか」
キミコが受け取る。
両手で持ち、見る。
「うん」
「前に何か入ってたやつだけどな」
「何?」
「忘れた」
キミコは鉢の中を見る。
空だった。
「土がない」
「そりゃな」
「取ってくる」
キミコは鉢を持ったまま立ち上がる。
銀秋が見る。
「どこ行く」
「山」
「は?」
「土、取ってくる」
「今から?」
「うん」
銀秋が表を見る。
戸の向こうはもう暗い。
昼間、あれだけ酷い色になった腕が頭に浮かんだ。
今はもう傷一つ残っていない。
本人も平気だと言っている。
それでも、一度見てしまったものは簡単には頭から離れなかった。
あの腕を見たときの嫌な感じも、床へ落ちた腕を見たときの血の気が引くような感覚も、まだ残っている。
そんな日に、今度は夜の山へ行くと言う。
「今日はやめとけ」
「何で」
「もう夜だぞ」
「見える」
「お前が見えるかどうかじゃねえよ」
「じゃあ何」
「昼間あんな目に遭ったばっかりだろ」
キミコが自分の腕を見る。
もう傷も変色も残っていない。
「治った」
「そうだな」
「平気」
「そういう話じゃねえんだよ」
治ったから心配しなくていい。
キミコは本気でそう思っているのだろう。
だが銀秋には、そう簡単に切り替えられなかった。
また何かに噛まれるかもしれない。
また怪我をするかもしれない。
キミコなら、それでも平然と帰ってくるのかもしれない。
それが余計に嫌だった。
銀秋は眉を寄せた。
「今日はもう大人しくしてろ」
「でも今植えたい」
「明日でいいだろ」
「今がいい」
「何でそんな急ぐんだよ」
「種、もらったから」
「種は明日まで逃げねえよ」
キミコは少し黙った。
それでも諦めた様子はない。
「すぐ戻る」
「山まで行ったらすぐじゃねえだろ」
「走る」
「走るな」
銀秋がため息をつく。
止めても行きそうだった。
こういうときのキミコは頑固だ。
無理に止めれば、余計に行きたがるかもしれない。
銀秋は少し考えた。
「土なら、その辺でも取れるだろ」
「山の土がいい」
「何で」
「木がいっぱいあるから」
「木なら寺にもあるだろ」
キミコが銀秋を見る。
「寺?」
「ああ。その辺の寺の林にでも行け。木の下なら土も柔らかいだろ」
山より近い。
人里から離れすぎることもない。
それなら、まだましだった。
キミコは少し考えた。
「山じゃなくてもいい?」
「何の種かも分からねえんだろ。とりあえず植えてみりゃいい」
「そう」
「遠くまで行くよりましだ」
キミコは頷いた。
「分かった」
「本当に?」
「寺に行く」
「すぐ戻ってこいよ」
「うん」
キミコは少し考えた。
それから、握っていた手を開く。
「銀秋」
「何だ」
「これ、持ってて」
掌の上には、古狸にもらった小さな種があった。
銀秋が見る。
「土取るから」
「まあ、落としたら面倒か」
キミコは種を差し出した。
「なくさないで」
銀秋が受け取る。
小さな種を指先でつまみ、そのまま帳場台の上へ置いた。
「早く帰ってこないと分からねえぞ」
キミコが帳場台を見る。
「なくす?」
「知らねえな」
「だめ」
「じゃあ早く帰ってこい」
「うん」
「変なの見つけても相手すんな」
「むかで?」
「むかでじゃなくてもだよ」
「分かった」
キミコは鉢を持った。
銀秋は戸口までついてくる。
「気をつけろよ」
「うん」
キミコは暗い通りへ出ていった。
銀秋はしばらくその背中を見ていた。
やがて見えなくなる。
「……花、ねえ」
小さく呟く。
店へ戻る。
帳場へ座った。
帳簿を開く気にはならなかった。
大した距離ではない。
すぐ戻ると言っていた。
寺の林なら、山へ行くよりよほど近い。
そう思っていても、表の方が気になる。
少し物音がするたびに顔を上げた。
まだか。
そう思ってから、それほど時間が経っていないことに気づく。
銀秋は息を吐いた。
帳場台の上を見る。
小さな種は、さっき置いた場所にそのままあった。
しばらくして、足音が聞こえた。
すぐに顔を上げる。
「ただいま」
キミコが戻ってくる。
両手には先ほどの鉢があった。
銀秋はまず、その姿を上から下まで見た。
怪我はない。
服も乱れていない。
そこでようやく、少し肩の力が抜けた。
「早かったな」
「近かった」
銀秋が鉢を見る。
中には黒い土が入っていた。
細かな枯れ葉も混じっている。
「それでいいのか」
「うん」
キミコは帳場台を見る。
種は、出ていったときと同じ場所にあった。
手を伸ばして取る。
「なくしてない」
「なくすかよ」
「早く帰らないと分からないって言った」
「冗談だよ」
キミコは鉢を戸口の少し内側へ置き、それから種を持った。
昼間なら、表から日が差し込む場所だった。
そこへ座り込む。
銀秋も少し離れたところから見る。
「それ、本当に植えりゃ育つのか?」
「分からない」
「何の花かも分からねえしな」
「うん」
キミコは指で土に小さな穴を作った。
そこへ種を入れる。
上から土をかぶせた。
「水」
「はいはい」
銀秋が水を持ってくる。
キミコは鉢へ少しずつ注いだ。
黒い土がさらに濃い色になる。
「やりすぎんなよ」
「どのくらい」
「俺も知らねえよ」
「そう」
キミコは少しだけ水を足して、手を止めた。
鉢を見る。
何もない。
ただ湿った土が入っているだけだった。
「いつ咲く?」
「知らねえよ」
「明日?」
「どうだろうな」
「明後日?」
「そんなに気になるなら毎朝見ろ」
「見る」
キミコは鉢を覗き込む。
銀秋はその横顔を見る。
「ずっと見てても今夜は出てこねえぞ」
「出るかも」
「出ねえよ」
「分からない」
「出ねえって」
銀秋は立ち上がった。
「ほら、寝るぞ」
キミコはまだ鉢を見ている。
「キミコ」
「うん」
「寝るぞ」
「分かった」
ようやく立ち上がる。
座敷へ向かいながら、一度だけ振り返った。
「明日、出てるかな」
「出てたら早いな」
「早い方がいい」
「お前は何でも早い方がいいんだな」
「うん」
二人は座敷へ入った。
戸口の内側には、土の入った鉢だけが残った。
翌朝。
銀秋は目を覚ました。
隣にはキミコがいない。
「……?」
身体を起こす。
表の方から物音がした。
「キミコ?」
「銀秋」
声がする。
銀秋は立ち上がり、座敷を出た。
店へ出る。
そして、足を止めた。
「……は?」
藤が咲いていた。
昨日まで何もなかった鉢から太い蔓が何本も伸び、戸口脇の柱へ絡みつき、近くの棚の上まで這っている。
青々とした葉が茂っていた。
その間から、いくつもの花房が垂れ下がっている。
長い房が重なるように下がり、店先の一角を埋めていた。
その根元にある鉢は、キミコが両手で持っていた程度の大きさしかない。
そこから伸びている藤は、とてもその中に収まるものには見えなかった。
銀秋は鉢を見る。
土の表面から、太い幹と蔓が伸びている。
だが、その下で根がどうなっているのかは分からない。
鉢が割れているわけでもない。
底から根が這い出している様子もなかった。
それなのに、目の前には店先の一角を埋めるほどの藤が咲いていた。
その下にキミコが立っていた。
大きな一つ目で、花を見上げている。
「銀秋」
「……」
「咲いた」
銀秋は答えなかった。
藤を見る。
鉢を見る。
また藤を見る。
「……これ、昨日の種か」
「うん」
「一晩で?」
「うん」
「何した」
「植えて、水やった」
「それは見てたけどよ……」
銀秋は藤へ近づく。
低いところまで垂れていた花房を一つ持ち上げる。
本物だった。
「……藤か」
「藤?」
「この花。藤っていうんだ」
キミコは垂れ下がる花を見る。
「私の目と同じ色の花だって」
銀秋が花を見る。
それからキミコの一つ目を見る。
「……まあ、似てるな」
「うん」
キミコはもう一度、藤を見上げた。
「綺麗」
「ああ」
銀秋も藤を見る。
「綺麗だけどよ……」
鉢から伸びた蔓は柱へ絡み、近くの棚の上まで這っている。
「何で一晩でこんなになるんだ」
「分からない」
「お前、何かしただろ」
「何もしてない」
「何もしてねえ奴の種が一晩でここまで育つかよ」
「育った」
「そうじゃなくて」
銀秋は頭を抱えた。
それから、ふと動きを止める。
もう一度藤を見る。
「……今、冬だぞ」
「うん」
「藤が咲く時期じゃねえだろ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「でも咲いた」
「だから何でだよ」
キミコは少し考える。
「分からない」
銀秋は長く息を吐いた。
キミコは藤の花房へ触れる。
嬉しそうに目を細めた。
「綺麗」
「分かったって」
銀秋は店先を見る。
藤は鉢から溢れるように伸びている。
戸口脇の柱に絡んだ蔓。
棚まで伸びた枝。
そこからいくつも垂れる花。
その下にある鉢だけが、やはり不釣り合いに小さい。
しばらく黙った。
「……切るぞ」
キミコが銀秋を見る。
「何を」
「これ」
銀秋が藤を指す。
「何で」
「このままじゃ店に入れなくなる」
「綺麗なのに」
「綺麗でも邪魔なもんは邪魔だ」
キミコは藤を見る。
「せっかく育った」
「育ちすぎなんだよ」
「いっぱい咲いた」
「咲いたな」
「切る?」
「切る」
キミコは黙った。
それから、藤へ目を戻す。
花房に触れていた手も、そのまま止まった。
銀秋がそれを見る。
「……全部じゃねえよ」
キミコが銀秋を見る。
「残す?」
「ああ」
「花も?」
「残せる分はな」
「いっぱい?」
「鉢に収まるくらい」
「少ない」
「今が多すぎるんだよ」
キミコはまた藤を見る。
手はまだ花房に触れたままだった。
銀秋はため息をついた。
「そんなに嫌か」
「綺麗だった」
「まだ切ってねえよ」
「切る」
「切るけどよ」
「少なくなる」
「店の戸口全部藤にするわけにいかねえだろ」
キミコはしばらく黙った。
それから花房を一つ、そっと持ち上げる。
「これ、残して」
「分かったよ」
「これも」
「一つずつ指定すんな」
「これも綺麗」
「全部綺麗なんだろ」
「うん」
「じゃあ俺に任せろ」
キミコは銀秋を見る。
「いっぱい残して」
「できるだけな」
「本当?」
「ああ」
ようやくキミコは藤から手を離した。
銀秋は刃物を持ってきた。
柱に絡んだ蔓を外す。
棚まで伸びた枝を落とす。
戸口を塞ぎそうなものも切っていく。
花房も、いくつかだけ残して切っていく。
キミコはその間、ずっとそばにいた。
「それも切る?」
「切る」
「これも?」
「切る」
「これは?」
「残す」
「本当?」
「ああ」
一本切るたびに聞かれる。
銀秋は途中から返事をするのも面倒になってきた。
「お前、いちいち聞くな」
「どれが残るか分からない」
「終わったら分かるだろ」
「今知りたい」
「待て」
「待つの嫌い」
「知ってるよ」
ようやく剪定を終える。
戸口の一角を埋めていた藤は、ずいぶん小さくなった。
鉢から伸びた幹と蔓が、形よくまとまっている。
低い位置からもいくつか枝が出て、その先から花房が垂れていた。
銀秋は少し離れて眺める。
「これならいいだろ」
キミコも見る。
しばらく黙っていた。
「小さい」
キミコは残された花房へ触れた。
「でも綺麗」
「だろ」
「うん」
少しは納得したらしい。
銀秋は刃物を片づけた。
翌朝。
銀秋は店へ出た。
足を止める。
「……」
藤が元に戻っていた。
昨日切ったはずの蔓が、また戸口脇の柱へ絡んでいる。
棚の上にも伸びている。
花房も増えていた。
「銀秋」
キミコが藤の下から顔を出す。
「育った」
「……」
銀秋はしばらく藤を見た。
「昨日切ったよな」
「うん」
「何で戻ってんだよ」
「育ったから」
「そうじゃなくて!」
銀秋は額を押さえた。
しばらく黙る。
それから、また刃物を取り出した。
「切るぞ」
「また?」
「まただよ」
キミコが藤を見る。
「いっぱい咲いたのに」
「昨日も聞いた」
「綺麗」
「それも聞いた」
「残して」
「残すから黙ってろ」
銀秋は再び藤を剪定した。
昨日と同じように蔓を外し、枝を落とし、花房を減らす。
キミコはその横で見ている。
「それ、残して」
「はいはい」
「それも」
「分かった」
「それは?」
「切る」
「何で」
「邪魔だから」
「綺麗なのに」
「お前それしか言わねえな」
ようやく終わる。
また鉢に収まる程度まで小さくなった。
銀秋は藤を見る。
「今度こそ、このままでいろよ」
銀秋は藤に言い聞かせる。
キミコが聞く。
「誰に言ってる?」
「藤だよ」
「分かるの?」
「分からねえよ!」
銀秋は疲れたように息を吐いた。
さらに翌朝。
銀秋は店へ出た。
そして、足を止めた。
「……」
まただった。
昨日切ったばかりの藤が、何事もなかったように茂っている。
戸口脇の柱に絡みつく蔓。
棚の上まで伸びた枝。
大量に垂れ下がる紫色の花房。
その下にキミコが立っていた。
「銀秋」
「……」
「また育った」
「…………」
銀秋は藤を見る。
しばらく何も言わなかった。
それから、昨日使った刃物を取りに行く。
キミコがその背中を見る。
「また切る?」
「切るよ」
「花、残して」
「分かってる」
銀秋は藤へ近づいた。
柱に絡んだ蔓を外す。
伸びすぎた枝を切る。
棚の上まで這っていたものも落としていく。
キミコはその横にいた。
「それは?」
「切る」
「こっちは?」
「残す」
「これは?」
「残す」
「それも?」
「……残す」
刃物を動かし続ける。
昨日も同じことをした。
その前の日にもした。
ようやく柱が見えるようになる。
棚も元通りになった。
銀秋は最後の蔓を切った。
「……よし」
刃物を置く。
そのまま座り込んだ。
息を吐く。
目の前には、また小さく整えられた藤がある。
花房も、いくつか残してあった。
キミコが隣へ来る。
「小さくなった」
「ああ」
「でも綺麗」
「そうかよ」
銀秋は藤を見る。
昨日も同じ姿だった。
その前の日も、切り終わったときには同じだった。
どうせ明日の朝になれば、また元に戻っている。
そう思うと、どっと疲れた。
銀秋はしばらく藤を見ていた。
それからキミコを見る。
「……お前」
「何」
銀秋は藤を指した。
「こいつに育つなって言え」
キミコは藤を見る。
少しして、口を開いた。
「育つな」
低い声だった。
言葉が落ちる。
藤には何の変化もない。
葉も萎れない。
花も散らない。
銀秋が藤を見る。
「……これでいいのか」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「また増えてたら?」
銀秋は黙った。
しばらくして、疲れたように答える。
「……また切る」
「大変」
「誰のせいだと思ってんだよ」
「藤」
「お前もだよ」
キミコは藤の花房へ触れた。
「私は何もしてない」
「……本当かよ」
銀秋は大きく息を吐いた。
翌朝。
銀秋は店へ出た。
藤を見る。
「……」
伸びていなかった。
昨日整えたままの大きさだった。
蔓も伸びていない。
枝も増えていない。
柱にも棚にも絡んでいない。
昨日のままだった。
銀秋は少し近づいた。
「……本当に止まってる」
「うん」
すでに起きていたキミコが隣に立つ。
銀秋は藤を見る。
そこで、何かがおかしいことに気づいた。
「……おい」
「何」
「花、増えてねえか」
キミコも藤を見る。
昨日よりも、明らかに花房が多い。
枝も蔓も伸びていない。
なのに、その限られた場所から花房だけが増えていた。
「増えてる」
「何でだよ」
「分からない」
「育つなって言っただろ」
「育ってない」
銀秋が黙る。
藤を見る。
確かに伸びてはいない。
大きさも変わっていない。
ただ花だけが増えている。
キミコが花房へ触れる。
「綺麗」
銀秋は何も言わなかった。




