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スダマの鬼  作者: 肉
38/52

藤

 店へ戻り、飯を食べ終えた。

 昼間にもらった野菜のいくつかは、銀秋が言われた通りに切り、塩をして重しを乗せた。

 すぐには食べられないらしい。

 キミコは何度かその器を覗き込んだが、そのたびに銀秋に「まだだ」と言われた。

 外はもう暗い。

 銀秋は食べ終えた器を重ねていた。

「銀秋」

「ん?」

「鉢、ある?」

 銀秋が手を止める。

「鉢?」

「うん」

 キミコはずっと握っていた手を開いた。

 掌の上には、小さな種が一つ載っている。

「これ植えたい」

「何だ、それ」

「たぬきにもらった」

 銀秋が種を見る。

「またあの狸か」

「うん」

「何の種かも言わなかったのか」

「私の目と同じ色の花だって」

 銀秋がキミコの大きな一つ目を見る。

「紫色か」

「たぶん」

「名前は?」

「聞いてない」

「……そうかよ」

 銀秋は少し考えた。

「それで植えたいのか」

「うん」

「待ってろ」

 立ち上がる。

 店の奥へ入り、棚や荷物の間を探し始めた。

 しばらくして、銀秋が一つの鉢を持って戻ってきた。

 何の飾りもない、素焼きの簡素な鉢だった。

「これでいいか」

 キミコが受け取る。

 両手で持ち、見る。

「うん」

「前に何か入ってたやつだけどな」

「何?」

「忘れた」

 キミコは鉢の中を見る。

 空だった。

「土がない」

「そりゃな」

「取ってくる」

 キミコは鉢を持ったまま立ち上がる。

 銀秋が見る。

「どこ行く」

「山」

「は?」

「土、取ってくる」

「今から?」

「うん」

 銀秋が表を見る。

 戸の向こうはもう暗い。

 昼間、あれだけ酷い色になった腕が頭に浮かんだ。

 今はもう傷一つ残っていない。

 本人も平気だと言っている。

 それでも、一度見てしまったものは簡単には頭から離れなかった。

 あの腕を見たときの嫌な感じも、床へ落ちた腕を見たときの血の気が引くような感覚も、まだ残っている。

 そんな日に、今度は夜の山へ行くと言う。

「今日はやめとけ」

「何で」

「もう夜だぞ」

「見える」

「お前が見えるかどうかじゃねえよ」

「じゃあ何」

「昼間あんな目に遭ったばっかりだろ」

 キミコが自分の腕を見る。

 もう傷も変色も残っていない。

「治った」

「そうだな」

「平気」

「そういう話じゃねえんだよ」

 治ったから心配しなくていい。

 キミコは本気でそう思っているのだろう。

 だが銀秋には、そう簡単に切り替えられなかった。

 また何かに噛まれるかもしれない。

 また怪我をするかもしれない。

 キミコなら、それでも平然と帰ってくるのかもしれない。

 それが余計に嫌だった。

 銀秋は眉を寄せた。

「今日はもう大人しくしてろ」

「でも今植えたい」

「明日でいいだろ」

「今がいい」

「何でそんな急ぐんだよ」

「種、もらったから」

「種は明日まで逃げねえよ」

 キミコは少し黙った。

 それでも諦めた様子はない。

「すぐ戻る」

「山まで行ったらすぐじゃねえだろ」

「走る」

「走るな」

 銀秋がため息をつく。

 止めても行きそうだった。

 こういうときのキミコは頑固だ。

 無理に止めれば、余計に行きたがるかもしれない。

 銀秋は少し考えた。

「土なら、その辺でも取れるだろ」

「山の土がいい」

「何で」

「木がいっぱいあるから」

「木なら寺にもあるだろ」

 キミコが銀秋を見る。

「寺?」

「ああ。その辺の寺の林にでも行け。木の下なら土も柔らかいだろ」

 山より近い。

 人里から離れすぎることもない。

 それなら、まだましだった。

 キミコは少し考えた。

「山じゃなくてもいい?」

「何の種かも分からねえんだろ。とりあえず植えてみりゃいい」

「そう」

「遠くまで行くよりましだ」

 キミコは頷いた。

「分かった」

「本当に?」

「寺に行く」

「すぐ戻ってこいよ」

「うん」

 キミコは少し考えた。

 それから、握っていた手を開く。

「銀秋」

「何だ」

「これ、持ってて」

 掌の上には、古狸にもらった小さな種があった。

 銀秋が見る。

「土取るから」

「まあ、落としたら面倒か」

 キミコは種を差し出した。

「なくさないで」

 銀秋が受け取る。

 小さな種を指先でつまみ、そのまま帳場台の上へ置いた。

「早く帰ってこないと分からねえぞ」

 キミコが帳場台を見る。

「なくす?」

「知らねえな」

「だめ」

「じゃあ早く帰ってこい」

「うん」

「変なの見つけても相手すんな」

「むかで?」

「むかでじゃなくてもだよ」

「分かった」

 キミコは鉢を持った。

 銀秋は戸口までついてくる。

「気をつけろよ」

「うん」

 キミコは暗い通りへ出ていった。

 銀秋はしばらくその背中を見ていた。

 やがて見えなくなる。

「……花、ねえ」

 小さく呟く。

 店へ戻る。

 帳場へ座った。

 帳簿を開く気にはならなかった。

 大した距離ではない。

 すぐ戻ると言っていた。

 寺の林なら、山へ行くよりよほど近い。

 そう思っていても、表の方が気になる。

 少し物音がするたびに顔を上げた。

 まだか。

 そう思ってから、それほど時間が経っていないことに気づく。

 銀秋は息を吐いた。

 帳場台の上を見る。

 小さな種は、さっき置いた場所にそのままあった。

 しばらくして、足音が聞こえた。

 すぐに顔を上げる。

「ただいま」

 キミコが戻ってくる。

 両手には先ほどの鉢があった。

 銀秋はまず、その姿を上から下まで見た。

 怪我はない。

 服も乱れていない。

 そこでようやく、少し肩の力が抜けた。

「早かったな」

「近かった」

 銀秋が鉢を見る。

 中には黒い土が入っていた。

 細かな枯れ葉も混じっている。

「それでいいのか」

「うん」

 キミコは帳場台を見る。

 種は、出ていったときと同じ場所にあった。

 手を伸ばして取る。

「なくしてない」

「なくすかよ」

「早く帰らないと分からないって言った」

「冗談だよ」

 キミコは鉢を戸口の少し内側へ置き、それから種を持った。

 昼間なら、表から日が差し込む場所だった。

 そこへ座り込む。

 銀秋も少し離れたところから見る。

「それ、本当に植えりゃ育つのか?」

「分からない」

「何の花かも分からねえしな」

「うん」

 キミコは指で土に小さな穴を作った。

 そこへ種を入れる。

 上から土をかぶせた。

「水」

「はいはい」

 銀秋が水を持ってくる。

 キミコは鉢へ少しずつ注いだ。

 黒い土がさらに濃い色になる。

「やりすぎんなよ」

「どのくらい」

「俺も知らねえよ」

「そう」

 キミコは少しだけ水を足して、手を止めた。

 鉢を見る。

 何もない。

 ただ湿った土が入っているだけだった。

「いつ咲く?」

「知らねえよ」

「明日?」

「どうだろうな」

「明後日?」

「そんなに気になるなら毎朝見ろ」

「見る」

 キミコは鉢を覗き込む。

 銀秋はその横顔を見る。

「ずっと見てても今夜は出てこねえぞ」

「出るかも」

「出ねえよ」

「分からない」

「出ねえって」

 銀秋は立ち上がった。

「ほら、寝るぞ」

 キミコはまだ鉢を見ている。

「キミコ」

「うん」

「寝るぞ」

「分かった」

 ようやく立ち上がる。

 座敷へ向かいながら、一度だけ振り返った。

「明日、出てるかな」

「出てたら早いな」

「早い方がいい」

「お前は何でも早い方がいいんだな」

「うん」

 二人は座敷へ入った。

 戸口の内側には、土の入った鉢だけが残った。




 翌朝。

 銀秋は目を覚ました。

 隣にはキミコがいない。

「……?」

 身体を起こす。

 表の方から物音がした。

「キミコ?」

「銀秋」

 声がする。

 銀秋は立ち上がり、座敷を出た。

 店へ出る。

 そして、足を止めた。

「……は?」

 藤が咲いていた。

 昨日まで何もなかった鉢から太い蔓が何本も伸び、戸口脇の柱へ絡みつき、近くの棚の上まで這っている。

 青々とした葉が茂っていた。

 その間から、いくつもの花房が垂れ下がっている。

 長い房が重なるように下がり、店先の一角を埋めていた。

 その根元にある鉢は、キミコが両手で持っていた程度の大きさしかない。

 そこから伸びている藤は、とてもその中に収まるものには見えなかった。

 銀秋は鉢を見る。

 土の表面から、太い幹と蔓が伸びている。

 だが、その下で根がどうなっているのかは分からない。

 鉢が割れているわけでもない。

 底から根が這い出している様子もなかった。

 それなのに、目の前には店先の一角を埋めるほどの藤が咲いていた。

 その下にキミコが立っていた。

 大きな一つ目で、花を見上げている。

「銀秋」

「……」

「咲いた」

 銀秋は答えなかった。

 藤を見る。

 鉢を見る。

 また藤を見る。

「……これ、昨日の種か」

「うん」

「一晩で?」

「うん」

「何した」

「植えて、水やった」

「それは見てたけどよ……」

 銀秋は藤へ近づく。

 低いところまで垂れていた花房を一つ持ち上げる。

 本物だった。

「……藤か」

「藤?」

「この花。藤っていうんだ」

 キミコは垂れ下がる花を見る。

「私の目と同じ色の花だって」

 銀秋が花を見る。

 それからキミコの一つ目を見る。

「……まあ、似てるな」

「うん」

 キミコはもう一度、藤を見上げた。

「綺麗」

「ああ」

 銀秋も藤を見る。

「綺麗だけどよ……」

 鉢から伸びた蔓は柱へ絡み、近くの棚の上まで這っている。

「何で一晩でこんなになるんだ」

「分からない」

「お前、何かしただろ」

「何もしてない」

「何もしてねえ奴の種が一晩でここまで育つかよ」

「育った」

「そうじゃなくて」

 銀秋は頭を抱えた。

 それから、ふと動きを止める。

 もう一度藤を見る。

「……今、冬だぞ」

「うん」

「藤が咲く時期じゃねえだろ」

「そうなの?」

「そうだよ」

「でも咲いた」

「だから何でだよ」

 キミコは少し考える。

「分からない」

 銀秋は長く息を吐いた。

 キミコは藤の花房へ触れる。

 嬉しそうに目を細めた。

「綺麗」

「分かったって」

 銀秋は店先を見る。

 藤は鉢から溢れるように伸びている。

 戸口脇の柱に絡んだ蔓。

 棚まで伸びた枝。

 そこからいくつも垂れる花。

 その下にある鉢だけが、やはり不釣り合いに小さい。

 しばらく黙った。

「……切るぞ」

 キミコが銀秋を見る。

「何を」

「これ」

 銀秋が藤を指す。

「何で」

「このままじゃ店に入れなくなる」

「綺麗なのに」

「綺麗でも邪魔なもんは邪魔だ」

 キミコは藤を見る。

「せっかく育った」

「育ちすぎなんだよ」

「いっぱい咲いた」

「咲いたな」

「切る?」

「切る」

 キミコは黙った。

 それから、藤へ目を戻す。

 花房に触れていた手も、そのまま止まった。

 銀秋がそれを見る。

「……全部じゃねえよ」

 キミコが銀秋を見る。

「残す?」

「ああ」

「花も?」

「残せる分はな」

「いっぱい?」

「鉢に収まるくらい」

「少ない」

「今が多すぎるんだよ」

 キミコはまた藤を見る。

 手はまだ花房に触れたままだった。

 銀秋はため息をついた。

「そんなに嫌か」

「綺麗だった」

「まだ切ってねえよ」

「切る」

「切るけどよ」

「少なくなる」

「店の戸口全部藤にするわけにいかねえだろ」

 キミコはしばらく黙った。

 それから花房を一つ、そっと持ち上げる。

「これ、残して」

「分かったよ」

「これも」

「一つずつ指定すんな」

「これも綺麗」

「全部綺麗なんだろ」

「うん」

「じゃあ俺に任せろ」

 キミコは銀秋を見る。

「いっぱい残して」

「できるだけな」

「本当?」

「ああ」

 ようやくキミコは藤から手を離した。

 銀秋は刃物を持ってきた。

 柱に絡んだ蔓を外す。

 棚まで伸びた枝を落とす。

 戸口を塞ぎそうなものも切っていく。

 花房も、いくつかだけ残して切っていく。

 キミコはその間、ずっとそばにいた。

「それも切る?」

「切る」

「これも?」

「切る」

「これは?」

「残す」

「本当?」

「ああ」

 一本切るたびに聞かれる。

 銀秋は途中から返事をするのも面倒になってきた。

「お前、いちいち聞くな」

「どれが残るか分からない」

「終わったら分かるだろ」

「今知りたい」

「待て」

「待つの嫌い」

「知ってるよ」

 ようやく剪定を終える。

 戸口の一角を埋めていた藤は、ずいぶん小さくなった。

 鉢から伸びた幹と蔓が、形よくまとまっている。

 低い位置からもいくつか枝が出て、その先から花房が垂れていた。

 銀秋は少し離れて眺める。

「これならいいだろ」

 キミコも見る。

 しばらく黙っていた。

「小さい」

 キミコは残された花房へ触れた。

「でも綺麗」

「だろ」

「うん」

 少しは納得したらしい。

 銀秋は刃物を片づけた。




 翌朝。

 銀秋は店へ出た。

 足を止める。

「……」

 藤が元に戻っていた。

 昨日切ったはずの蔓が、また戸口脇の柱へ絡んでいる。

 棚の上にも伸びている。

 花房も増えていた。

「銀秋」

 キミコが藤の下から顔を出す。

「育った」

「……」

 銀秋はしばらく藤を見た。

「昨日切ったよな」

「うん」

「何で戻ってんだよ」

「育ったから」

「そうじゃなくて!」

 銀秋は額を押さえた。

 しばらく黙る。

 それから、また刃物を取り出した。

「切るぞ」

「また?」

「まただよ」

 キミコが藤を見る。

「いっぱい咲いたのに」

「昨日も聞いた」

「綺麗」

「それも聞いた」

「残して」

「残すから黙ってろ」

 銀秋は再び藤を剪定した。

 昨日と同じように蔓を外し、枝を落とし、花房を減らす。

 キミコはその横で見ている。

「それ、残して」

「はいはい」

「それも」

「分かった」

「それは?」

「切る」

「何で」

「邪魔だから」

「綺麗なのに」

「お前それしか言わねえな」

 ようやく終わる。

 また鉢に収まる程度まで小さくなった。

 銀秋は藤を見る。

「今度こそ、このままでいろよ」

 銀秋は藤に言い聞かせる。

 キミコが聞く。

「誰に言ってる?」

「藤だよ」

「分かるの?」

「分からねえよ!」

 銀秋は疲れたように息を吐いた。




 さらに翌朝。

 銀秋は店へ出た。

 そして、足を止めた。

「……」

 まただった。

 昨日切ったばかりの藤が、何事もなかったように茂っている。

 戸口脇の柱に絡みつく蔓。

 棚の上まで伸びた枝。

 大量に垂れ下がる紫色の花房。

 その下にキミコが立っていた。

「銀秋」

「……」

「また育った」

「…………」

 銀秋は藤を見る。

 しばらく何も言わなかった。

 それから、昨日使った刃物を取りに行く。

 キミコがその背中を見る。

「また切る?」

「切るよ」

「花、残して」

「分かってる」

 銀秋は藤へ近づいた。

 柱に絡んだ蔓を外す。

 伸びすぎた枝を切る。

 棚の上まで這っていたものも落としていく。

 キミコはその横にいた。

「それは?」

「切る」

「こっちは?」

「残す」

「これは?」

「残す」

「それも?」

「……残す」

 刃物を動かし続ける。

 昨日も同じことをした。

 その前の日にもした。

 ようやく柱が見えるようになる。

 棚も元通りになった。

 銀秋は最後の蔓を切った。

「……よし」

 刃物を置く。

 そのまま座り込んだ。

 息を吐く。

 目の前には、また小さく整えられた藤がある。

 花房も、いくつか残してあった。

 キミコが隣へ来る。

「小さくなった」

「ああ」

「でも綺麗」

「そうかよ」

 銀秋は藤を見る。

 昨日も同じ姿だった。

 その前の日も、切り終わったときには同じだった。

 どうせ明日の朝になれば、また元に戻っている。

 そう思うと、どっと疲れた。

 銀秋はしばらく藤を見ていた。

 それからキミコを見る。

「……お前」

「何」

 銀秋は藤を指した。

「こいつに育つなって言え」

 キミコは藤を見る。

 少しして、口を開いた。

「育つな」

 低い声だった。

 言葉が落ちる。

 藤には何の変化もない。

 葉も萎れない。

 花も散らない。

 銀秋が藤を見る。

「……これでいいのか」

「たぶん」

「たぶんかよ」

「また増えてたら?」

 銀秋は黙った。

 しばらくして、疲れたように答える。

「……また切る」

「大変」

「誰のせいだと思ってんだよ」

「藤」

「お前もだよ」

 キミコは藤の花房へ触れた。

「私は何もしてない」

「……本当かよ」

 銀秋は大きく息を吐いた。




 翌朝。

 銀秋は店へ出た。

 藤を見る。

「……」

 伸びていなかった。

 昨日整えたままの大きさだった。

 蔓も伸びていない。

 枝も増えていない。

 柱にも棚にも絡んでいない。

 昨日のままだった。

 銀秋は少し近づいた。

「……本当に止まってる」

「うん」

 すでに起きていたキミコが隣に立つ。

 銀秋は藤を見る。

 そこで、何かがおかしいことに気づいた。

「……おい」

「何」

「花、増えてねえか」

 キミコも藤を見る。

 昨日よりも、明らかに花房が多い。

 枝も蔓も伸びていない。

 なのに、その限られた場所から花房だけが増えていた。

「増えてる」

「何でだよ」

「分からない」

「育つなって言っただろ」

「育ってない」

 銀秋が黙る。

 藤を見る。

 確かに伸びてはいない。

 大きさも変わっていない。

 ただ花だけが増えている。

 キミコが花房へ触れる。

「綺麗」

 銀秋は何も言わなかった。

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