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スダマの鬼  作者: 肉
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眠り

 キミコは、屋敷へ戻った。

 かつて、自分がいた屋敷だった。

 人の気配はない。

 庭には草木が茂り、木々の葉が風に揺れ、花が咲いていた。

 屋敷は、昔と変わらなかった。

 柱も、床も、建具も、長い間誰も手入れをしていないはずなのに、傷んだところは一つもない。


 表の戸を開ける。

 誰もいない。

 キミコは屋敷の中へ入った。

 廊下を歩く。

 いくつもの部屋があった。

 どれも使ったことのない部屋だった。

 かつて自分がいた座敷牢は、この屋敷にある。

 けれど、そちらへ行こうとは思わなかった。


 キミコは、通りかかった座敷の一つに入った。

 畳が敷かれていた。

 部屋の中には何もなかった。

 キミコはしばらく立っていた。

 それから、その場に座り込んだ。

 何をするでもなく、畳を見つめる。

 やがて、白い着物のまま横になった。

 畳に頬をつける。

 寝具を探そうとは思わなかった。

 何かをする気力もなかった。


「……銀秋」


 呼んでみた。

 返事はなかった。

 もう一度、名前を呼ぼうとした。

 けれど、声が出なかった。

 キミコは目を閉じた。




 次に目を覚ましたとき、どれくらい眠っていたのか分からなかった。

 夢は見なかった。

 キミコは天井を見ていた。


「……銀秋」


 返事はない。

 身体を起こす。

 黒い髪が肩から落ちた。

 銀秋と暮らし始めた頃よりも、ずっと長くなっていた。


 キミコは自分の手を見た。

 大きな手だった。

 指も長い。

 腕も、脚も、以前よりずっと長い。

 成人した男の姿。

 その姿に戻ったことを、銀秋は知らない。

 もう見せることもできない。

 キミコは手を握った。




 銀秋は死んだ。

 人間は死ぬ。

 それは知っていた。

 何度もこの手でやってきたことだった。

 けれど、銀秋が死んでしまうとは思っていなかった。

 ずっと一緒にいるものだと思っていた。


 明日も。

 明後日も。

 その次の日も。


 銀秋のところへ帰れば、いつものように飯があって、銀秋がいて、夜になれば隣で眠れると思っていた。

 もう、帰るところがなかった。


 キミコは自分の身体を見下ろした。


 人間は死ぬ。

 ならば、自分も死ねばいい。


 死ねば、銀秋に会えるかもしれない。


 そう思った。


 キミコは、自分の喉を引き裂いた。

 血が流れた。

 白い着物の胸元が赤く染まる。

 畳にも血が落ちた。

 身体から力が抜けていく。

 キミコはそのまま横へ倒れた。

 視界がぼやけ、天井が見えなくなる。


 銀秋に会えるだろうか。


 そう考えたところで、意識が途切れた。




 目を覚ました。

 天井が見えた。

 キミコはしばらく動かなかった。

 身体の下が冷たかった。

 着物が血に濡れている。

 畳にも血が広がっていた。


 キミコはゆっくりと手を動かした。

 喉に触れる。

 傷はなかった。

 もう一度、確かめる。

 皮膚は元通りになっていた。

 痛みもない。


「……なんで」


 死ねなかった。

 キミコは身体を起こした。

 血に汚れた手を見つめる。

 こんなにも血が出たのに。

 意識も失ったのに。


 キミコは喉に手を当てた。


「……治らなくていい」


 小さく呟いた。

 何も変わらなかった。


 キミコはもう一度、死のうとした。

 けれど、次に目を覚ましたときも、傷は塞がっていた。

 何度繰り返しても、同じだった。

 着物と畳だけが、血に汚れていった。


 キミコはその場に横たわった。

 血に濡れた髪が、畳に広がっている。

 しばらく天井を見ていた。


 銀秋に会いたかった。

 死ねば会えるのかどうかも、分からなかった。

 それでも、ほかに思いつかなかった。

 銀秋のいないところに、いたくなかった。


 キミコは目を閉じた。




 何日経ったのか、分からなかった。


 初めのうちは、目を覚ますたびに銀秋の名前を呼んでいた。


「銀秋」


 返事はない。


「銀秋」


 何度呼んでも、返事はなかった。

 時には、銀秋の声を思い出そうとした。


 自分の名前を呼ぶ声。

 飯を買ってきたと知らせる声。

 早く寝ろと叱る声。


 思い出すことはできた。

 けれど、聞こえてくるわけではなかった。

 キミコは目を閉じた。

 次に目を覚ましても、銀秋はいなかった。


 そのうち、名前を呼ばなくなった。

 忘れたわけではなかった。

 呼んでも来ないことが、分かっただけだった。




 春になった。

 庭の木々が芽吹き、花を咲かせた。

 キミコは眠っていた。


 夏になった。

 庭には虫の声が満ち、木々の葉が濃く茂った。

 キミコは眠っていた。


 秋になった。

 庭の木々が実をつけた。

 鳥がやって来て、実を啄んだ。

 キミコは眠っていた。


 冬になった。

 雪が降った。

 屋敷の屋根にも、庭の木々にも、雪が積もった。

 キミコは眠っていた。


 そして、また春が来た。


 屋敷は変わらなかった。

 庭の草木も、毎年変わらず花を咲かせた。

 誰も水をやらなくても枯れなかった。

 誰も手入れをしなくても、病に侵されることはなかった。

 柱は腐らず、屋根も崩れなかった。


 その一室に、血に汚れた着物をまとった鬼が一人、横たわっていた。

 最初に入った座敷から、ほとんど動いていなかった。

 着物は、もう白いとは言えなかった。

 幾度も血を浴びた布は、赤黒く変色している。

 畳にも血が染み込んでいた。


 キミコが着替えることはなかった。

 銀秋が買ってくれた衣は、白い空間にしまってあった。


 銀秋が選んでくれたもの。

 銀秋が銭を払ってくれたもの。


 最後に着たのがいつだったのか、もう分からなかった。

 取り出そうとは思わなかった。

 血で汚したくなかった。

 ただ、それだけだった。




 目を覚ます。

 身体が重かった。

 身体はどこも悪くなかった。

 腹は減っていなかった。

 喉も渇いていなかった。

 何かを食べたいとも思わなかった。


 キミコは天井を見つめた。

 もう、何度目なのかも分からない。


 身体を起こそうとした。

 けれど、途中でやめた。

 起きたところで、何もすることがなかった。

 銀秋はもういない。


 飯を買いに行くこともない。

 店の帳場に座ることもない。

 夜になって、銀秋の隣に入ることもない。


 キミコは目を閉じた。

 眠れば、何も考えなくて済んだ。


 夢は見なかった。

 銀秋が現れることもなかった。

 眠っている間には、何もなかった。

 そして目を覚ませば、また銀秋のいない屋敷にいた。




 キミコは、だんだんと目を覚まさなくなった。


 初めのうちは、眠ってもすぐに起きていた。

 それが、一日になった。

 数日になった。

 やがて、季節が変わるまで目を覚まさないこともあった。


 目覚めても、以前のように死のうとすることは減っていった。

 死ねないことは、もう分かっていた。

 それでも時折、思い出したように身体を傷つけた。

 次に目覚めれば、傷はなくなっていた。

 着物と畳には、新しい血の跡が残った。


 キミコは血を拭うこともしなかった。

 そのまま横になり、また眠った。




 何年か経った。

 屋敷には、誰も来なかった。


 春には花が咲き、夏には蝉が鳴いた。

 秋には実がなり、冬には雪が積もった。

 季節が巡るたび、庭の様子は変わった。

 それでも、屋敷は少しも古びなかった。

 廊下には埃がほとんど積もらず、建具が歪むこともなかった。

 キミコが横たわる座敷も、血に汚れた畳を除けば、何一つ変わっていなかった。


 長く伸びた黒髪が、畳に広がっている。

 髪は腰を越え、さらに伸びていた。

 もう何年も、外へ出ていなかった。

 庭にどんな花が咲いているのかも、知らなかった。


 時々、目を覚ます。

 隣を見る。

 銀秋はいない。

 身体を起こすこともなく、また目を閉じる。

 それだけだった。




 どれほど長く眠っても、銀秋の夢を見ることはなかった。

 夢の中で声を聞くことも、顔を見ることもなかった。


 キミコは、もう明日を待たなかった。

 何かを望むこともなくなった。

 死にたいと思うことさえ、目を覚ましたときにしかできなかった。


 何も見ずに眠る。

 目を覚ます。

 銀秋がいない。

 また眠る。


 そうしている間にも、屋敷の外では何度も朝が来た。

 キミコの知らないところで、人が生まれ、人が死んでいった。




 ある日、キミコが目を覚ました。

 障子の向こうが明るかった。

 朝なのか、昼なのか、分からなかった。


 キミコはしばらく天井を見ていた。

 何かを探すように、ゆっくりと視線を動かした。


 障子。

 襖。


 誰もいない。


 キミコは口を開いた。


「……銀秋」


 久しぶりに、その名前を呼んだ。

 返事はなかった。


 キミコは目を閉じた。

 長い髪が畳に広がっている。

 赤黒く汚れた着物をまとったまま、身体を丸めた。

 その姿勢で、しばらく動かなかった。


 やがて、眠った。

 夢は見なかった。




 庭では、今年も花が咲いていた。

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