熱
祀煙は、格子の向こうにいる鬼を見つめていた。
何かを言わなければならないと思った。けれど、言葉が出てこなかった。
普段ならば、迷うことなどない。人間へ命じるときも、一族の者へ指示を出す時も、必要な言葉だけを選べばよかった。鬼である自分が、誰かへ気を遣う必要などない。それが、この屋敷で生きる者の在り方だった。
けれど、目の前にいる鬼へ向ける言葉だけは、いつものようにはいかなかった。
「……姉様」
祀煙が呼ぶ。
返事はない。
けれど、確かにその視線は祀煙を捉えていた。
「突然、申し訳ありません」
祀煙は静かに続けた。
「お食事のことですが……以後、このようなことが起こらぬよう取り計らいます」
キミコは何も言わない。ただ、静かに祀煙を見ている。
その瞳には、怒りも悲しみも浮かんでいなかった。そこには、長い時間を過ごした者だけが持つ、深い静けさがあった。
「こちらの不手際でした」
祀煙は視線を落とす。
「気付くことができませんでした。申し訳ありません」
鬼が、鬼へ謝る。
それは、この屋敷では奇妙なことだった。鬼は恐れられる側であり、頭を下げる側ではない。人間であればなおさら、そんな姿を見ることはなかっただろう。
けれど祀煙は、目の前の幼い鬼へ言葉を選んでいた。
なぜなのか。自分でも分からなかった。
この鬼に向ける言葉が、すぐには見つからなかった。
キミコは変わらず、そこにいた。何も求めない。何も訴えない。ただ、そこに在る。
祀煙は、その姿を見つめる。
炎から生まれた煙。
夜の闇を焦がす火より吐き出され、形を得たもの。
それが祀煙だった。
生まれた瞬間、胸の奥に感じた熱を、祀煙は今でも覚えている。
それは痛みではなかった。ただ、生まれ落ちた瞬間から胸の奥にあったものだった。
そして今、あの鬼を見ていると、同じ場所がわずかに熱を持つ。理由は分からなかった。
ただ、その熱は目の前の鬼を見るほどに、消えることなく残り続けた。
「……また、参ります」
そう告げる。
キミコは答えない。
けれど、その藤色の瞳は祀煙を映していた。
拒むこともなく、縋ることもなく。ただ、見ていた。
祀煙は座敷牢を後にした。
廊下へ出て、歩く間も、祀煙は胸の奥の熱について考えていた。煙から生まれた時に感じた熱と同じ。名を持たない、小さな熱だった。
祀煙は、屋敷の中ほどにある人間たちの控えの間に向かった。
そこでは、鬼の屋敷に仕える人間たちが、それぞれの役目に従って動いていた。
祀煙の姿を認めると、彼らはすぐに手を止め、深く頭を下げる。
「祀煙様」
呼びかける声には、恐れが滲んでいた。
祀煙はそれを意に介さず、静かに口を開いた。
「座敷牢の鬼について伝える」
人間たちが顔を上げる。
「あの場所へ運ぶ膳を、今後一度たりとも絶やすな」
低く響く声だった。
「白米、汁物、魚。内容はこれまで通りで構わない。ただし、運ぶ者がいないなどということは二度と許さぬ」
「承知いたしました」
人間のひとりが頭を下げる。
祀煙は続けた。
「膳を置いたあとは、必ず確認しろ」
「何をでございますか」
問いに、祀煙は僅かに目を細める。
「座敷牢の中にいることを、己の目で確かめろ」
人間たちは戸惑ったように顔を見合わせた。
彼らにとって、座敷牢の鬼がそこにいることなど、確認するまでもないことだった。
長い間、閉じ込められた異形の鬼。それ以上でも、それ以下でもない。
祀煙はその様子を見ていた。けれど、何も言わなかった。
彼らがキミコを見ていないことは、もう分かっていた。
「もし次に同じことが起きれば」
祀煙は淡々と告げる。
「その時は、相応の責を負わせる」
人間たちは、一斉に頭を下げた。
「承知いたしました」
祀煙は背を向ける。
その背後で、人間たちが急いで動き始める気配がした。再び座敷牢へ食事を運ぶために。
それを確認することなく、祀煙は廊下を歩いた。
なぜ、あの鬼のことが気になるのか。
まだ答えは出ていなかった。
ただ、胸の奥に残った熱だけが、消えることなく在り続けていた。




