腐る膳
夏だった。
山は濃い緑に覆われ、蝉の声が絶え間なく響いていた。その熱気は、鬼の一族が棲む屋敷の奥深くにも入り込んでいた。
座敷牢の前に置かれていた椀は、誰の手にも触れられぬまま残されていた。
白米は乾き、汁物は濁り、添えられていた鮎には少しずつ白い黴が広がっている。夏の暑さに晒され、膳はすでに食べ物としての形を失っていた。
あの人間がいなくなってから、ここへ膳を運ぶ者はいなかった。
なぜ消えたのか。
それを知る者たちは、口を閉ざしていた。
この屋敷では、人の命など軽い。昨日まで言葉を交わしていた者が、翌日には姿を消している。
理由を尋ねる者もいなかった。
尋ねたところで、戻ってくるものなどないと知っていたからだ。
人々が恐れていたのは、座敷牢にいる鬼だけではない。
鬼という存在、そのものだった。
山へ捧げられた者たちは、長い年月の中で理解していた。この場所では、人の命は鬼の都合ひとつで消えるのだと。
だから誰も、あの場所に近づこうとはしなかった。
一族の多くも、それを気に留めなかった。座敷牢の鬼が食事を取るかどうか。そこへ誰かが訪れるかどうか。一族にとっては、どうでもいいことだった。
日が過ぎた。
一日。
二日。
三日。
そして、腐敗の臭いが屋敷の奥へ漂い始めた。
人ならば気付かぬほどの、かすかな変化。
けれど、鬼である祀煙の鼻は、それを捉えた。
臭いは、長く顧みられることのなかった屋敷の最奥から流れてきていた。
祀煙は足を止めた。
黒髪を後ろへ撫でつけた青年。
額から伸びる二本の角。その顔には、左右対称に並ぶ六つの赤い瞳があった。
この屋敷で、何かがここまで放置されることは珍しかった。
臭いを辿る。
やがて辿り着いた先にあったのは、忘れ去られたように佇む座敷牢だった。
格子の前には、手つかずのまま残された膳があった。
その有様を見て、祀煙はようやく気付いた。
ここへ膳を運ぶ者が、何日も訪れていないのだと。そして、この膳がここに残されていることすら、誰も気に留めていなかったことも。
祀煙は格子の向こうを見る。
そこにいた鬼の姿は、祀煙が最後に見たものとは、わずかに違っていた。
首元を覆うほどだった黒髪は、いつしか肩を越え、手入れされることもなく垂れていた。
伸びた黒髪の間から覗く、小さな角。その顔の中央には、ただひとつの藤色の瞳があった。
異形と呼ばれる姿を持ちながら、その瞳だけは不思議なほど静かだった。
その視線は、祀煙へ向けられているようにも見えた。
けれど、その瞳が何を映しているのか、祀煙には分からなかった。
ただ、キミコは何も言わず、そこに在った。
祀煙は腐った膳を見た。
それから、何日もの間、誰にも気付かれず座り続けていた幼い鬼を見た。
なぜなのか。
その理由は分からなかった。
ただひとつ分かったことがある。
この鬼は、どれほど長い時間を、ここで過ごしてきたのだろう。
誰にも気に留められず。
誰にも求められず。
それでも何かを待つように。
ただ、そこに在った。
祀煙はしばらく黙って立っていた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
そして祀煙は初めて、忘れられていた鬼へ声を掛けた。




