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スダマの鬼  作者:
3/31

腐る膳

 夏だった。

 山は濃い緑に覆われ、蝉の声が絶え間なく響いていた。その熱気は、鬼の一族が棲む屋敷の奥深くにも入り込んでいた。

 座敷牢の前に置かれていた椀は、誰の手にも触れられぬまま残されていた。

 白米は乾き、汁物は濁り、添えられていた鮎には少しずつ白い黴が広がっている。夏の暑さに晒され、膳はすでに食べ物としての形を失っていた。

 あの人間がいなくなってから、ここへ膳を運ぶ者はいなかった。

 なぜ消えたのか。

 それを知る者たちは、口を閉ざしていた。

 この屋敷では、人の命など軽い。昨日まで言葉を交わしていた者が、翌日には姿を消している。

 理由を尋ねる者もいなかった。

 尋ねたところで、戻ってくるものなどないと知っていたからだ。

 人々が恐れていたのは、座敷牢にいる鬼だけではない。

 鬼という存在、そのものだった。

 山へ捧げられた者たちは、長い年月の中で理解していた。この場所では、人の命は鬼の都合ひとつで消えるのだと。

 だから誰も、あの場所に近づこうとはしなかった。

 一族の多くも、それを気に留めなかった。座敷牢の鬼が食事を取るかどうか。そこへ誰かが訪れるかどうか。一族にとっては、どうでもいいことだった。

 日が過ぎた。


 一日。

 

 二日。


 三日。


 そして、腐敗の臭いが屋敷の奥へ漂い始めた。

 人ならば気付かぬほどの、かすかな変化。

 けれど、鬼である祀煙(しえん)の鼻は、それを捉えた。

 臭いは、長く顧みられることのなかった屋敷の最奥から流れてきていた。

 祀煙は足を止めた。

 黒髪を後ろへ撫でつけた青年。

 額から伸びる二本の角。その顔には、左右対称に並ぶ六つの赤い瞳があった。


 この屋敷で、何かがここまで放置されることは珍しかった。

 臭いを辿る。

 やがて辿り着いた先にあったのは、忘れ去られたように佇む座敷牢だった。

 格子の前には、手つかずのまま残された膳があった。

 その有様を見て、祀煙はようやく気付いた。

 ここへ膳を運ぶ者が、何日も訪れていないのだと。そして、この膳がここに残されていることすら、誰も気に留めていなかったことも。

 祀煙は格子の向こうを見る。

 そこにいた鬼の姿は、祀煙が最後に見たものとは、わずかに違っていた。

 首元を覆うほどだった黒髪は、いつしか肩を越え、手入れされることもなく垂れていた。

 伸びた黒髪の間から覗く、小さな角。その顔の中央には、ただひとつの藤色の瞳があった。

 異形と呼ばれる姿を持ちながら、その瞳だけは不思議なほど静かだった。

 その視線は、祀煙へ向けられているようにも見えた。

 けれど、その瞳が何を映しているのか、祀煙には分からなかった。

 ただ、キミコは何も言わず、そこに在った。

 祀煙は腐った膳を見た。

 それから、何日もの間、誰にも気付かれず座り続けていた幼い鬼を見た。

 なぜなのか。

 その理由は分からなかった。

 ただひとつ分かったことがある。

 この鬼は、どれほど長い時間を、ここで過ごしてきたのだろう。

 誰にも気に留められず。

 誰にも求められず。

 それでも何かを待つように。

 ただ、そこに在った。

 祀煙はしばらく黙って立っていた。

 何を言えばいいのか、分からなかった。

 そして祀煙は初めて、忘れられていた鬼へ声を掛けた。


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