座敷牢の鬼
鬼の一族が棲む屋敷の最も奥。
宴の笑い声も、月の光も届かぬ場所に、その座敷牢はあった。
古びた柱は長い年月を吸い込み、太い格子には幾度も塗り重ねられた漆が燈台の火を受け、鈍く光っている。
朝になると、座敷牢の前に膳が運ばれる。
それを運ぶのは、一族の鬼ではない。
人の里から捧げられた、生きた人間。山へ差し出され、喰われることなく残された者たち。彼らはそのまま、鬼の一族に仕える身となった。
その人間にも、かつては名があった。
生まれた場所があり、呼ぶ者がいた。
けれど、この屋敷へ来てから、その名を呼ぶ者はいなくなった。
鬼たちは必要な時だけ人を呼び、用が済めば顧みることもない。昨日まで隣にいた者が、次の日には姿を消している。
それもまた、この屋敷では珍しいことではなかった。
人は慣れた足取りで廊下を進む。
恐怖が消えたわけではない。
ただ、長い年月の中で、それを抱えたまま歩く術を覚えただけだった。
座敷牢の前で膝をつき、黒漆の膳を静かに置く。
そこには、人の里から献じられた米を炊いた飯。山菜を煮た汁物。塩を振って焼かれた鮎。
決して粗末な食事ではない。
一族の宴に並ぶ料理と比べれば質素ではある。
それでも、ひとつの命を生かしておくには十分なものだった。
けれど、その膳へ手が伸びることはない。
格子の向こうに、幼い鬼がいた。
白い着物の小さな肩から背へ流れ落ちる、ぼさぼさに伸びた黒髪。
その隙間から覗く、二本の小さな角。
そして、その顔の中央にある藤色の大きな瞳。
炎より生まれた鬼。
——キミコ。
人は何度も、この鬼の前へ膳を運んできた。
初めのころは恐ろしかった。
鬼であることも。
一族の誰とも違う姿をしていることも。
その大きなひとつの瞳が、自分を見つめていることも。
けれど、いつからか気付いた。キミコは、自分を見ていない。
見えていないわけではない。ただ、その視線が向かう先はいつも同じだった。
何も見えない壁の向こう。
そのさらに先。遥かな山があるはずの方角。
まるで、そこに何かがあると知っているかのように。
キミコは静かに見つめ続けていた。
怒ることもなく、嘆くこともない。
誰かを求めることもない。
ただ、そこに在った。
人は膳を置き終えると、静かに頭を下げる。
返事はない。
けれど、それを求める者もいなかった。
やがて人間は立ち上がり、廊下の奥へ消えていく。
残された座敷牢には、再び静寂だけが戻る。
その座敷牢を訪れる者は、長い年月の中でほとんどいなくなっていた。




