始まり
昔、人がまだ山を恐れていた頃。
幾重にも峰を越えた先、深い山の奥には、鬼の一族が棲んでいた。
彼らは、人の世とは異なる理で生きるものだった。
幾つもの目で獲物を見定め、その腕で岩を砕き、その爪で木々を裂く。
人の力では抗うことのできないものを持ちながら、鬼たちは人の世から遠ざかることはなかった。
人々は彼らを恐れ、けれど同時に縋った。
山を荒らさぬ代わりに、屋敷を建てた。
米を捧げた。
酒を捧げた。
絹を捧げた。
時には、生きた人間さえも。
鬼たちはそれらを受け取る代わりに、人の手には余るものを退けた。
山に潜む妖を討ち、災いを祓い、人の里へ降りかかる異変を鎮めた。
恐れと敬い。
その二つの感情の間で、人と鬼の間には奇妙な繋がりが生まれていた。
長い年月の果てに、鬼たちは変わった。
獣のように山を駆けることをやめ、人の衣を纏った。
人の建てた屋敷に棲み、人の作った酒を飲み、人の真似をして歌い、笑った。
鬼でありながら、人の世へ近づいていった。
けれど、どれほど人の形を真似ても、その身に流れるものまで変わることはなかった。
その一族に、三つの異なる生が訪れた。
最初の鬼は、炎の中から生まれた。
燃え盛る紫の炎の奥から現れたその子は、まだ小さな体をしていた。
白い着物を纏い、首元を覆うほどの黒髪は幼子らしく揃えられていた。
その姿だけを見れば、人の子と見間違う者もいたかもしれない。
だが、額を覆う髪の間から覗く二本の小さな角が、それが人ではないことを告げていた。
細い指先には、幼い身体には似つかわしくない鋭い爪があった。
そして何より、その顔の中央には、幼い顔には不釣り合いなほど大きな、藤色の瞳がひとつだけあった。
幾つもの目を持つ鬼の一族にとって、その姿はあまりにも異質だった。
炎が吐き出した煙より、次の鬼が生まれた。
その姿を見た者たちは、迷わなかった。
そこにいたのは、古くから受け継がれてきた鬼そのものだった。
幾つもの目が闇の中で光り、その全てが周囲を見渡していた。
その鬼には、祀煙という名が与えられた。
そして最後に。
炎の名残を消しきれぬ霧雨の夜。
誰も知らぬ場所から、ひとりの鬼が現れた。
その鬼もまた、一族の姿をしていた。
幾つもの目を持ち、鬼の言葉を話し、何の疑いもなく一族の中へ溶け込んだ。
その鬼には、乱霧という名が与えられた。
炎より生まれた鬼には、名を与える者はいなかった。
異なるものを前にしたとき、一族は理解することより先に距離を置いた。
けれど長い年月の中で、いつしかその鬼はそう呼ばれるようになった。
——キミコ、と。
祀煙は、その鬼を見つめた。
乱霧もまた、見つめた。
その眼差しだけが、互いに違っていた。
幼い鬼は、何も語らなかった。
その藤色の瞳は、ただ静かに、遥かな山を見つめていた。




